秒針
集中治療室の前の廊下は、ひどく静かだった。
白い壁。白い床。長椅子が二つ並んでいて、その一つに、裕太のお母さんが座っていた。隣に、おじさんがいた。夏休みの食卓で、唐揚げを取り合う私たちを見て笑っていた人だった。
おばさんは私を見て立ち上がった。
何か言おうとして、言えずに、私の手を両手で包んだ。
夏休みの玄関で、「また来てね」と言ったときと同じ包み方だった。
ただ、指先が、ひどく冷たかった。
「……ありがとうね、来てくれて」
私は頷くことしかできなかった。
面会は、家族だけだった。
おばさんが看護師さんに何か話してくれた。看護師さんは少し迷うような顔をして、それから、「五分だけ」と言った。
手を消毒して、マスクをつけて、中に入った。
機械の音がした。規則正しい、短い電子音。それから、空気を送り込む、低い音。
一番奥のベッドに、裕太がいた。
頭に、白い包帯が巻かれていた。口元に、透明な管が入っていた。顔の半分が、赤黒く腫れていた。
目は、閉じていた。
眠っているようには、見えなかった。
眠っているときの裕太を、私は知っていた。二次試験の帰りの電車で、私の肩に頭を載せていた顔。口が半分開いて、眉間のしわがほどけて、子どもみたいになる顔。
この顔は、そうではなかった。
どこか、遠いところにいる顔だった。
ベッドの横に立った。
布団の上に出ている右手に、点滴の管がつながっていた。左手は、布団の中だった。
触れていいのか、わからなかった。
看護師さんが、「手、握ってあげてください。聞こえてるかもしれないから」と、小さな声で言った。
右手に、触れた。
温かかった。
昨日の夕方、ロータリーの向こうで、ハンドルを握っていた手だった。
「……裕太」
呼んだ。
昨日、横断歩道の手前で呼んだのと、同じ名前を。
瞼は、動かなかった。
指も、動かなかった。
機械の音だけが、規則正しく鳴っていた。
五分は、すぐに過ぎた。
廊下に戻ると亜美が長椅子の端に座っていた。私を見て、立ち上がって、何も言わずに隣に来た。
おばさんが膝の上に、透明なビニール袋を載せていた。
病院から渡された、所持品の袋だった。
黒いジャケット。財布。鍵の束。画面にひびの入ったスマホ。
それから、黒い革のベルトの、飾り気のない腕時計。
「スマホはね、画面が割れただけで、ちゃんと動くの」
おばさんがぽつりと言った。
「ジャケットのポケットに入ってたから。……あの子、バイクに乗るときは、いつも胸のポケットにしまってて」
おばさんは袋の口を開けて、腕時計を取り出した。
それを手のひらに載せて、見ていた。廊下の先で、エレベーターの扉が開いて、誰も降りないまま閉まった。
それから私のほうへ差し出した。
「これ、渚沙ちゃんからもらったんでしょう」
私は、声が出なかった。
「去年の六月から、ずっとつけてたのよ。お風呂に入るときだけ洗面所に置いて、出たらすぐつけて。寝るときも外さないから、ベルトが擦れて、手首が赤くなってて。……最近、あの子、全然口きいてくれなかったけど、これだけは」
おばさんの声が、途切れた。
私の手に腕時計を載せた。
「預かっててくれる?」
「……」
「あの子が目を覚ましたら、渚沙ちゃんから、返してあげて。そのほうが、あの子、喜ぶから」
腕時計は、ひんやりしていた。
文字盤のガラスに、細い傷が一本、斜めに入っていた。ベルトの穴の三つ目のところが、革が伸びて、わずかに楕円になっていた。
去年の六月、裕太は、ベルトの穴を一つずつ試して、三つ目で止めた。
これ、毎日つける、と言った。
見るたびに、渚沙のこと思い出す、と。
秒針が、動いていた。
音もなく、文字盤の上を、滑るように回っていた。
持ち主が、機械につながれて、目を閉じているあいだも。
止まらずに。
その夜、家に帰ってベッドに座った。
手のひらの上に腕時計を載せていた。
秒針が回るのをずっと見ていた。
一周。二周。三周。
学食で、知らない笑い方をしていた人。経済学部の棟の前で、「なんでもない」と言った人。「高校の同級生」と言った人。約束の時間に来なかった人。
その人の手首に、ずっと、これがあった。
寝るときも外さずに。手首が、赤くなるまで。
どうして。
また、その言葉が浮かんだ。
どうでもよくなったのなら、外せばよかったのに。
どうでもよくないのなら、どうして、あんなふうに。
わからなかった。
わからないまま、秒針だけが回っていた。
月曜日も、病院に行った。
大学は、休んだ。
面会はできなかった。廊下の長椅子で、おばさんの隣に座っていた。おじさんは仕事の電話をしに何度か外へ出ていった。
昼過ぎに萩原くんが来た。
私を見て、軽く頭を下げた。いつもの大きな声は、どこにもなかった。
廊下の自販機の前で、萩原くんが缶のお茶を二本買った。一本を、私にくれた。
「……俺、何も気づかなかった」
萩原くんは缶を開けずに、手の中で転がしていた。
「あいつ、最近、あんまり寝てなかったみたいで。講義中もずっと、ぼーっとしてて。バイトのせいだと思ってたんだけど」
「……うん」
「もっと、ちゃんと訊けばよかった」
萩原くんは缶を握る指に力を込めた。
「……バイク、さ」
「……うん」
「前に、ちょっと言ったじゃん。連休明けてすぐ、あいつが急に、『兄貴のバイク、まだあるなら譲ってくれ』って。前は、免許取っても全然乗る気なかったくせに」
萩原くんの声が、震えた。
「俺が、兄貴に話通したんだ。あいつ、やっと乗る気になったんだなって。……よかったなって、思って」
私は缶のお茶を握っていた。温かかった。
ポケットの中で、腕時計の、かすかな重さを感じていた。
夕方、看護師さんがおばさんとおじさんを呼びに来た。
二人が先生の話を聞きに、廊下の奥の部屋に入っていった。
扉が閉まった。
私と萩原くんと亜美は長椅子に並んで座って、その扉を見ていた。
十分が過ぎた。
二十分が過ぎた。
扉が開いて、おばさんが出てきた。
おばさんは、私たちのほうを見なかった。
廊下の窓のほうを向いて、しばらく、立っていた。
それから、ゆっくりと、こちらを振り返った。
何も言わなかった。
言わなくても、わかった。
あの人は、もう、目を覚まさない。




