↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第二章 五月七日

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/55

十六分

 その夜、部屋で、長いメッセージを書いた。


 何度も書き直した。消しては書いて、書いては消して。気がつくと、九時を過ぎていた。


 最後に残ったのは、短い文章だった。


『今日、待ってた。


 何があったのか、教えてほしい。


 私が何かしたなら、ちゃんと謝りたい。


 何もしてないなら、それも知りたい。


 どっちでもいいから、裕太の言葉で聞きたい。


 明日でも、来週でもいい。


 待ってるから』


 読み返した。


 責めていないだろうか。重すぎないだろうか。


 わからなかった。わからないまま、送った。


 十時を過ぎた。


 既読は、つかなかった。


 居酒屋のバイトの日なのかもしれない、と思った。土曜日の夜は、たぶん忙しい。閉店は十一時だと、この前、店の前の看板で見た。


 階段を下りて、台所で水を一杯飲んだ。


 居間では、母がテレビをつけたまま、ソファでうたた寝をしていた。画面の中で、知らない芸人たちが笑っていた。音は、ほとんど絞られていた。


 母の肩に膝掛けをかけ直して、部屋に戻った。


 スマホはベッドの上に伏せたままだった。


 表に返した。何も来ていなかった。


 また伏せた。


 窓を少しだけ開けた。


 耳を澄ませた。駅のほうから、エンジンの低い音が近づいてこないか。先週の金曜日の夜、家の前の道を走り抜けていった、あの音が。


 聞こえるのは、国道のほうを行き交う車の、遠い音だけだった。


 机の上に、書きかけのレポートがあった。同じ行を、三回読んだ。四回目で、閉じた。


 十一時を過ぎた。


 十二時を過ぎた。


 


 十二時十四分。


 画面が、ふっと明るくなった。


 既読、の二文字がついていた。


 私はベッドの上で体を起こした。


 返事が来る、と思った。


 既読がついたのなら、あの人は今、この文章を読んでいる。読んで、何かを考えている。何かを、打とうとしている。


 画面を見ていた。


 入力中を示す表示は、出なかった。


 五分。十分。十五分。


 二十分を過ぎたころ、遠くで、救急車のサイレンが鳴り始めた。


 この町では、夜中にサイレンを聞くことは珍しくなかった。国道が近いから、週末の夜はとくに。


 私は画面から目を離さなかった。


 サイレンは、近づいたり、遠ざかったりしながら、しばらく鳴っていた。


 三十分。


 何も、来なかった。


 


 一時を過ぎて画面を伏せた。


 目を閉じても、眠れなかった。


 布団を頭までかぶった。


 既読。


 読んだのに。


 読んで、何も返さないことを選んだのだ。


 そう思った。


 そう思って、ようやく、少しだけ泣きそうになった。


 目の奥が熱いまま、朝まで眠れなかった。


 


 日曜日の朝、七時四十分に、スマホが鳴った。


 メッセージではなかった。


 着信だった。


 画面に表示された名前を見て、息が止まった。


 裕太のお母さん。


 夏休みに夕飯をごちそうになったあと、何かあったら、と言って交換した番号だった。一度も、かかってきたことはなかった。


 指が、震えた。


 通話のボタンを押すのに、三回失敗した。


「……もしもし」


『渚沙ちゃん?』


 おばさんの声だった。


 夏休みの食卓で、唐揚げを山のように揚げていた人の声。「この子、渚沙ちゃんの話しかしないのよ」と笑っていた人の声。


 その声が、ひどくかすれていた。


『朝早くに、ごめんね。……あのね、落ち着いて聞いてね』


 


 昨日の夜、十二時半ごろ。


 国道の交差点で、裕太くんのバイクが、ガードレールにぶつかった。


 雨も降っていないのに、カーブを曲がりきれなかったらしい。


 他の車は、巻き込まれていない。


 今、市民病院の集中治療室にいる。


 意識は、まだ、戻っていない。


 


 おばさんの声が、遠くなったり、近くなったりした。


 私は、ベッドの端に座って、スマホを耳に当てたまま、自分の膝を見ていた。


 十二時半。


 十二時十四分に、既読がついた。


 その十六分後。


『渚沙ちゃん? 聞こえてる?』


「……はい」


『来られる? ……あの子、渚沙ちゃんに、会いたいと思うの』


 おばさんは、そこで言葉を詰まらせた。


『ごめんね。……最近、あの子、様子がおかしかったでしょう。渚沙ちゃんにも、いっぱい、嫌な思いさせたんじゃないかって。でも、あの子……』


 続きは、聞こえなかった。


 電話の向こうで、おばさんが泣いていた。


 私は、立ち上がった。


「すぐ、行きます」


 


 部屋着のまま玄関に出た。


 靴を履こうとして、うまく履けなかった。かかとが入らない。指が、言うことを聞かない。


 後ろから母が出てきた。


 私の顔を見て、何も訊かずに、私の靴の紐をほどいて、かかとを入れやすくしてくれた。


「……車、出すから」


 母はそれだけ言って、鍵を取りに戻った。


 私は、玄関の上がり框(かまち)に座ったまま、スマホの画面を見ていた。


 トーク画面の一番下に、私の長いメッセージがある。


 その横に、小さく、既読の二文字。


 十二時十四分。


 あの人は、あれを読んだのだ。


 読んで、バイクに乗ったのだ。


 どこへ、行こうとしていたんだろう。


 


 昨日の夕方、ロータリーの向こうで、ヘルメットが、こちらを向きかけて、止まった。


 あの人が最後に見た私は、横断歩道の手前で、あの人の名前を呼んでいた。


 二年かかって、やっと呼べた名前を。


 振り向かなかった背中を、思い出した。


 あれが、最後になるかもしれない。


 そう思った瞬間、玄関の床が、ぐらりと揺れた気がした。


 母が車の鍵を持って戻ってきた。


 私の肩に、手を置いた。


「行こう」


 私は、頷いた。


 立ち上がって玄関の扉を開けた。


 五月の朝の光が、眩しかった。


 


 車の中で母は一度も口をきかなかった。


 国道に出た。日曜日の朝の道は空いていて、信号がいくつも青のまま続いた。


 途中、大きな交差点を通り過ぎた。


 カーブの外側のガードレールが、一箇所だけ、ひしゃげていた。


 その根元に、黒い破片が散らばっていた。道路の端に、白いチョークで何かの印が書かれていた。


 母がほんのわずかに、アクセルを緩めた。


 私は、窓の外を見なかった。


 見ないようにして、膝の上で、両手を固く握っていた。


 病院の玄関の前で、亜美が待っていた。家を出る前に、母が電話をしてくれていたらしかった。


 亜美は、車から降りた私の手を、何も言わずに握った。


 握ったまま、集中治療室の前に着くまで、離さなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。