第7章 対峙
公安第七課の会議室に、重たい空気が流れていた。
「……私は怪盗エルを“ただの敵”とは思っていません」
そう口を開いたのは岬朔弥だった。
「目的は不明ですが、システムに対する侵入精度、行動の一貫性、そして無意味な破壊行為の回避。そこには明確な意思と規律があります」
「つまり?」と鬼島が目を細める。
「交渉の余地がある、ということです。あれは制御不能な暴力ではない。情報を求めて動いている」
三國が頷く。
「たしかに、あのレベルの人間を潰すのは……惜しい気がしますね。利用できるならその方が合理的です」
「情に流されるなよ」
鬼島の声が鋭くなる。
「私は捜査官として話しています」
岬は一切動じず、冷静に答えた。
「敵であっても、破壊よりも利用のほうが効率的だ。今の公安が必要としているのは、力じゃなくて柔軟性です」
鬼島は唸るように黙り込み、視線を逸らした。
「……今の段階では判断できん。ただ、現場で判断を誤るなよ」
会議の後、三國が廊下で岬に声をかける。
「岬さん、本気で怪盗エルのこと、わかりあえるって思ってるんですか?」
「……ああ」
*
その夜。
パン屋に、岬がやってきた。
いつも通りの無表情でパンを選び、レジに並ぶ。
「ありがとうございました」
楓が袋を手渡すと、岬は少しだけ視線を上げた。
「……今度、食事でもどうですか」
一瞬、楓の手が止まる。
「え?」
「公務員のくせに、ちょっと贅沢なお店を知ってまして」
岬はイタズラっぽく笑った。
「……公務員だったんですか?」
楓が素知らぬ顔で返すと、岬はわずかに肩をすくめた。
「地味な職業で、すみません」
「どうして私なんですか?」
岬は少し黙った。レジ横のカウンターに視線を落とし、ほんの一瞬だけ言葉を探していた。
「……興味があるんです、あなたに」
「……仕事抜きなら」
楓はごくわずかに微笑んだ。
*
楓は一度帰宅し、部屋の椅子に腰を下ろしていた。
鏡の前で髪をまとめながら、ふとスマホの画面を開く。
「……これって……? ……罠?」
つぶやいた声に、アールが応じた。
『罠、もしくは、直接対決。どちらの可能性もあります。ですが、あなたの心拍と表情筋の変化を見る限り、何か別の“期待”が予想されます』
「うるさい」
楓は照れ隠しに小さく咳払いをして立ち上がる。
クローゼットを開けて、中の服を順番に指で滑らせていく。着慣れた黒のジャケット、カジュアルなパーカー、無地のブラウス。
どれも違う気がした。
あくまで“会話”の場。それ以上でも以下でもない。
それなのに、少しだけでもちゃんとした格好をしたいと思ってしまう自分に、楓は内心苦笑する。
「……何着てくんだろう、あの人」
『対決したばかりの相手に誘われて嬉しがるとは、人間というのは不可解でユニークな生き物ですね』
楓はその言葉に答えず、クローゼットの扉に手をかけたまま、しばらく中を見つめていた。
*
約束の時間の少し前、マンションの前に岬の黒い車が停まった。
インターホン越しに「迎えに来ました」とだけ告げた声は、いつも通りに落ち着いていたが、どこか柔らかさを帯びていた。
エントランスを出た楓は、少しだけ視線を泳がせながら助手席のドアを開ける。
「……お待たせしました?」
「いいえ」
岬はハンドルを握ったまま、ちらりと横目で楓の服装を確認する。
楓は控えめなネイビーのワンピースを着ていた。白いカーディガンを羽織り、髪は低い位置でまとめている。制服やパーカーとは違う装いに、彼女自身がどこか居心地の悪さを感じていた。
「似合ってますね」
岬の言葉に、楓は視線をそらした。
「こういうの、慣れてません」
楓がシートベルトを閉めると、岬は速やかに車を発進させた。車内に沈黙が流れる。
だが、それは不快ではなく、どこか居心地のよい静けさだった。
*
料亭の個室。白木の柱と柔らかな障子に囲まれた、静かな空間。空調の音さえ吸い込まれたような沈黙の中に、丁寧に盛られた料理の湯気が立ち上っている。
席についた楓は、並んだ料理を目にして、思わず小さく目を見張った。
白味噌仕立ての吸い物に、ごぼうのポタージュ、季節の炊き合わせに彩り豊かな八寸。
「……すごい。こういうの、初めてです」
岬はその反応に、どこか微笑ましそうに頷いた。
「驚いていただけてよかった」
楓は視線を皿の上に落とす。目の前のごぼうのスープをじっと見つめていた。
「ごぼうって繊維が強いのに……どうやって、こんなになめらかに裏漉ししてるんだろう」
思わず料理人目線の感想が口を突いて出たことに気づき、楓は少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「料理はよくするんですか?」
岬の問いに、楓は少し考えてから答える。
「一人暮らしなので、簡単なものは。あまり凝ったものは作れません」
「でもパンも焼かれているわけですし。きっと、どれも美味しいんでしょうね」
そう言われて、楓は少し困ったように笑った。
「味より効率重視のときも多いです」
「僕も料理はします。けれど、栄養素しか見てないので、たぶん味は二の次です」
「……栄養素、ですか」
楓は少し目を丸くした。
「たとえば、今日のごぼうなんかは——食物繊維とカリウムが豊富で、整腸作用や血圧の安定に効果があるんです」
岬がまるで講義のように説明を続けるのを聞きながら、楓はふっと笑った。
「……公務員っぽいですね」
二人の間に、ごく短い笑い声がこぼれた。
料理がひと段落した頃、岬が口を開く。
「怪盗エルに——協力してほしいんです」
想定外の言葉に、楓は取り繕うのに少し時間を要した。
「私が怪盗エルだって、まだ思ってるんですか?」
「ええ。でもそれを証明する気も、暴く気もない。目的さえ共有できるなら、それでいい」
岬は箸を取り、ひと口分だけ器に盛られた炊き合わせを口に運ぶ。柚子の香りがふっと立ち、昆布出汁の染みた蕪が静かに崩れていく。
ゆっくり咀嚼しながら、彼の視線はどこか遠くを見つめていた。
「私は怪盗エルではありませんし……そもそも怪盗エルは犯罪者ですよ」
「正確には、“国家と対立する存在”ではなく、“国家の中で黙認されてきた闇を知っている存在”です。表沙汰にできないような事実に関わっている可能性がある」
楓はグラスを指先で回す。
「……怪盗エルって、なんであんなに政府データにこだわるんでしょうね」
「おそらく……国家機密の裏にある何かを暴こうとしてる。陰謀や、封じられた真実。もし、それが国民の不利益を防ぐためなら——共闘もできる」
「理想論ですね」
だが、楓の声には否定よりも戸惑いの色があった。
暖簾をくぐり、外の夜風に触れた帰り道。
ビルの灯りがぼんやりと滲む中、岬がふと足を止めた。
「俺はあなたを疑ってます。でも、それ以上に——信じたいと思ってる」
楓は返事をしなかった。




