第6章 対決
夜。モニターの前で、楓は静かに息を整えていた。
『今回は予告状は出さなくてよろしいですか?』
アールの問いに、楓は一度だけ画面から目を逸らす。
「……出さない。今回は“先に手を出された”側」
『了解。通常の暗号通信経路を使用します』
怪盗エルが“予告”することは、もはや芸術の一部だった。 予告した上であっても、アールの未来技術は容易にそれをすり抜ける。 だからこそ——今回は、そのルールさえ無視する必要があった。
『ログ探索先を確定しました。前回の音声ファイルと同系列の構造。政府管轄の生体研究ネットワークと関連が深いシステムです』
「アクセス開始」
指をキーボードに乗せたまま、楓はモニター脇の写真立てに飾られた澪の笑顔を一瞥した。
澪の声。あの録音の続き。その言葉の先に、何があったのか。
この目で確かめたい。それだけが彼女の原動力だった。
心臓の鼓動が徐々に静まり、視界が研ぎ澄まされていく。
こうして手を動かしていると、不思議と心が整う。
パンをこねるときも、包丁を握るときも同じ。感情のノイズが、研ぎ澄まされた集中へと変わる。
ただし今、その手元にあるのは、刃物でもトングでもなく——真実へ繋がる鍵だった。
アールの補助のもと、楓の指がキーボードを滑る。
暗号化プロトコルを突破し、重ねられた監視システムをすり抜ける。そこには、澪の最後の記録に続く痕跡があった。
ようやく辿り着いたログファイルに手をかけた瞬間——
画面の片隅に、小さなウィンドウが浮かび上がった。
《逆探知プログラム作動中》
「……罠?」
アールがすぐに警告を飛ばす。
『逆探知システムを確認。位置情報の取得を開始しています。逃走処理に移行しますか?』
「まだ。データの抜き出しが終わってない」
楓は眉一つ動かさず、冷静にログを吸い上げていく。
しかし、読み取りバーの挙動に異常なラグが出始めた。
「このアクセス……待ち伏せされてた……?」
その直後、音声だけのチャネルが強制的に開かれた。
*
そのころ、公安第七課の作戦ルームでは岬と三國が椅子に座ったまま、静かにモニターを見つめていた。
「来るのは、今日だと思った」
小声でそう呟く。
「岬さん、本当に……来ましたね」
三國が緊張でごくりと唾を飲む。
「ログにアクセスしただけで、確実な痕跡は残してないけど」
「……動くな」
岬が短く制した。
「まだ判断するには早すぎる。見届けてからでいい」
*
『——お前が来るのは、ここだと思っていた』
岬の声だった。
楓は瞬時に回線を遮断する。
「アール、フェイクを撒いて。ログのルート情報を撹乱して」
指先は冷静に動いていたが、楓の呼吸は一拍遅れて荒くなる。
あの声。やはり岬だった。
「……読みきられてた。今のは?」
『一致率98.6%。岬朔弥の音声パターンと完全一致です』
「彼はまずい」
『偽装ルートを三つ生成。正規アクセスログは削除済み』
「……よし、これで——」
言いかけた楓の目が、次の瞬間、ディスプレイに浮かぶ異常値に引き寄せられた。
「アール、このラグ、何?」
『……新たなプロセスを検出。ログファイルそのものに“データトラップ”が仕込まれていた可能性があります』
「……隠し罠」
罠は一重ではなかった。
抜き出したはずのファイルに、さらに別の逆探知が重ねて埋め込まれていた。
『現在、第二波の位置情報追跡が動作中。経路からの脱出には迂回操作が必要です。選択を』
「逃げる。まだ捕まるわけにはいかない」
楓は再びキーボードに指を走らせる。アールの提示する三つの回避経路の中から、もっとも不自然な逃走経路を選んだ。
『ルート誘導開始。フェイク・ログ再生成。通信分岐……完了』
わずか一秒の差で、第二の追跡プログラムが空振りする。
「……岬、さん、ほんと……何枚仕掛けてくる気……」
楓はモニターに映る消えかけた警告ウィンドウを見つめながら、薄く息を吐いた。
*
公安局第七課、作戦ルーム。
複数のモニターがログの推移を映し出していた。逆探知の経路は、途中でふたつに分岐し、さらに三手に枝分かれしていた。
追跡者の手のひらから、するりと逃れるように。怪盗エルは再び闇の中へ身を隠した。
「うわ〜……逃げられましたね。めちゃくちゃ惜しかったのに」
三國が肩を落とす。
岬はモニターを見つめたまま、短く息を吐いた。
「……次は、逃がさない」
岬の横顔には静かな決意が滲んでいた。
それは“追跡者”の顔だった。
*
自室に戻った楓は、キッチンの冷蔵庫から無糖の炭酸水を取り出すと、ひと口に飲み干した。
喉を通る刺激に思わず息が漏れる。
「……はあ」
汗ばんだ額をタオルで拭いながら椅子に腰を下ろす。
『お疲れさまでした。行動ログはすべて削除済みです。追跡は無効化されました』
「うん、ありがと」
モニターに再びアールのウィンドウが浮かぶ。
『途中までではありますが、対象データの一部を複製しています。再生しますか?』
「……澪の続き、入ってたの?」
『断片的ですが、復元できた部分に音声が含まれています』
「……再生して」
短い沈黙の後、音声が流れた。
『——お姉ちゃんに、言いたいことがあるの』
ノイズが混じる。
『もしも、私に何かあったとしても——絶対に、真実を追いかけたりしないで』
そこで録音は途切れた。
静寂。
楓は画面を見つめたまま、動けなかった。




