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何度やり直しても、あなたが私に恋をしてしまうんですが  作者: 山本依由加


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第8章 告白

 雨だった。


 しとしとと降る細い雨の中、楓はパン屋の軒先で傘を開いた。


「よかったら、送りますよ」


 声の方を見ると、岬が車の傍らに立ち、傘を傾けてこちらを見ていた。雨粒が彼の黒髪に静かに絡んでいる。


 断る理由も思いつかず、楓は無言で頷いた。


 助手席に乗り込み、ドアが静かに閉まる音が響く。


 車内には、雨音だけが心地よく反響していた。


「甘い匂いがしますね」


 岬が静かにそう言った。運転中の視線は前を向いたまま、丁寧なハンドルさばきで交差点を曲がる。


「最近、新しいカスタードクロワッサンの試作があって……思ったよりバターの調整が難しくて」


 楓が答えると、岬はわずかに頬を緩めた。


「おいしそうですね。売り出されるのが楽しみです」


 信号待ちの間に、彼はちらりとこちらを見る。


「岬さん、甘いの好きですよね、ジャムパンといい」


 その言葉に、岬は一拍置いて小さく笑う。


「意外でしたか?」


「最初はちょっとだけ。でも……合ってるかも」


 楓の返事に、岬は少しだけ肩の力を抜いたように見えた。


 ふとした拍子に笑い合い、楓は“普通の人間のように”話している自分に驚いていた。


 フロントガラス越しに見える街の灯が、ぼんやりとにじんでいた。


 近すぎず、遠すぎず。


 その距離が、心地よくて怖かった。


 楓は気づいていた。


 岬のことを“怖い”と思わなくなっている自分に。


 感情を抑えていたはずの心が、いつのまにか熱を帯びている。


 胸の奥が、少し熱い。


 やがて車が楓のアパートの近くに到着し、エンジンが止まる。


 岬がサイドミラーを確認した後、静かにこちらを向いた。


「……緒方さん」


 視線が重なる。


 その時、楓は迷った。


 このまま言ってもいいのか、自分でもわからなかった。


 でも、もう抑えきれなかった。


「私、岬さんのこと、その……好きかもしれない」


 瞬間、風景が歪んだ。


 色彩が反転し、光が跳ね、音が消える。


 光がすべて吸い込まれ、音もなくなる。


 まるで世界から存在ごと切り取られたような、無音の暗闇が訪れた。


 ——そして。


 *


 パン屋の厨房。


 生地をこねる楓の手が止まる。


「……え?」


 どうして、さっきまで私は岬さんと一緒にいたはず。


 それがどうして。


「おおー、朝番ありがとな楓ちゃん。助かったわ」


 中肉中背、エプロン姿の陽気な男性。安達圭吾の声が、まるで録音を再生するかのように違和感なく響いた。記憶の中と寸分違わない笑顔。


 それだけで背筋に冷たいものが走る。


 楓は固まったまま、返事ができなかった。


「いつもより……早く焼けてるね?」


 楓は動揺しながらも手を止めず、棚にパンを並べる。


「ま、手際いいのはほんと助かるけど、うちのパンは朝のドタバタも“味”のうちだからな?」


「……そうですか」


 口をついて出た自分の返答に、楓は内心震えた。


「ってことで、そろそろ開店時間だし、店番お願いしていい?」


 また頷き、手を拭いてカウンターへ向かう。


 ちょうど、入口の扉が開く音がした。


「おはようさん、今日もあの、あれ、あるかい?」


 老婦人の声。


「ミルクフランスですね」


 自分の口から自然に出た言葉。楓は紙袋にパンを詰め、ラスクを添えた。


「ありがとね。孫が喜ぶんだわ、ここのパン。あんた、不器用だけど優しい子だね」


 楓は何も返さなかった。ただ、胸の奥に重く沁み込んでいく感覚だけがあった。


 朝の風景は、記憶通りに進行していく。


「ここのパン、やっぱり好き」


 その言葉を受けた自分の無表情と、胸の奥のぬくもりまで、すべてが“繰り返し”だった。


 時間の流れさえ、記憶の再生だった。


 昼、午後、閉店。そして——


 *


 閉店後、帰宅した楓はアールに問いかけた。


「アール……これって、もしかして……」


『対象候補を五件抽出。K12関連ログの流出元を基点に、省庁および関連研究機関の裏アクセス記録を追跡中です』


「えっ、それって……」


 確かそのデータは、数日前に分析がすべて終わったはずだった。空振りで、もう価値はないと結論づけられた。


 アールが同じ作業を無駄に繰り返すなんて、考えられない。


「アール、それ……この前も追ってたよね? 完了報告まで出してたじゃない」


『……申し訳ありませんが、該当の記録は私の現在のログには存在しません。物理ログも破損・損失の形跡はなく、自己修復プロトコルの実行履歴もありません。外部干渉の可能性が高いです』


 楓は息を呑んだ。


「でも、私、覚えてる。あなた、確かに“外れだった”って……」


『初回アクセスログは失われています。私の認識では、本件への解析は“これが初回”です』


 話が噛み合わない。


 世界が“巻き戻った”。


 それだけは確かだった。


 ——もしかして、これが“あの時”の代償?


 あの神社跡での記憶が脳裏に蘇る。


『すべての真実を得る力が欲しいか』


『その代償を差し出すなら、その力を与えてやってもよい』


「恋……」


 そう、確かに楓は答えた。そして女神は笑った。


『……それを差し出すというのか。面白い』


『ならばよい。契約、成立』


 楓は息を呑んだ。


「私……恋をした。だから、取り上げられたの?」


 その呟きに反応して、アールが即座に返した。


『あなたの反応パターンと、周囲の記憶・記録の乖離率を照合しました。……女神による“取り立て”が行われた可能性が高いです』


 思い出す。岬の声、笑い、あの車内での時間。それらはすべてなかったことになった。


 あの時、時間が巻き戻る前、


 告白を受けた岬がほんの一瞬だけ見せた微笑。


 ——それだけが、強く心に焼きついていた。

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