第42章 破棄
雨は、いつのまにか上がっていた。
打ち捨てられた神社の跡地。崩れかけた鳥居の朱だけが、闇の中でやけに鮮やかに滲んでいる。楓は結の手を引いて、その奥へと足を踏み入れた。すぐ後ろには岬。久賀と佳澄は鳥居の外で、追っ手への警戒にあたっている。すべてを知ったうえで、それでも隣に立つと決めた男の足音を、楓は背中に感じていた。
ここへ来る道々、岬は何も言わなかった。問いただすことも引き止めることもなく、ただ楓の歩幅に合わせて歩いた。すべてを知ってなお、隣にいる。その沈黙が、いまは何よりも心強かった。
「ここから先は、僕と佳澄が外で食い止める。……いいか、無茶だけはするなよ」
崩れた鳥居の手前で、久賀が低く釘を刺した。
「結ちゃん、いってらっしゃい。ぶじで帰ってきてくださいねぇ」
佳澄が結の髪をくしゃりと撫でる。二人を背に残し、楓は岬と結を伴って、朽ちた参道の奥へと進んだ。
ふいに、岬が楓の手を握った。大きく乾いた、あたたかい手だった。
「……怖いなら、無理に気を張るな。お前が崩れそうになったら、俺が後ろで支える。それだけのために、ここにいる」
その一言で、強張っていた肩からふっと力が抜ける。楓は小さく頷いた。大丈夫。もう、ひとりじゃない。
握り返した手をそっとほどき、楓は誰もいない夜空へ向かって声を張った。
「出てきて。取り立ては、もう済んだはずよ。話があるの」
応えはない。風が枯れ草を撫でていくだけ。
契約の主は、対等の交渉になど応じるつもりはないのだ。声の届かぬ高みから、ただ気まぐれに人の世を弄ぶだけ。
その手を、結がそっと握り返した。
「……だいじょうぶ。わたしに、見えます。あそこに、いる」
結はまっすぐに、何もない宙の一点を見上げた。怖がりのこの子が、楓のために、自分の意志で一歩を踏み出す。その小さな手はかすかに震えていた。けれど、楓の手を握る力だけは確かだった。
「出てきて、ください。——わたしには、ちゃんと、見えてるの」
それは命令でも懇願でもなかった。ただ、対等の者として相手を呼ぶまっすぐな声。声の届かぬ高みにいるはずの存在を、地上の一点へと否応なく引きずり寄せる声だった。
空気が、ぎ、と軋んだ。
何もなかったはずの場所に、ゆらりと人ならぬ気配が立ち上がる。はっきりと姿は結ばない。けれど確かに、そこに“いた”。声の届かぬはずの上位の存在が、結の眼差しによって交渉の地へと引きずり下ろされたのだ。
『……ほう』
面白がるような女の声が、夜気を揺らした。
『わらわを視るか。視たうえで引きずり下ろすか。——面妖な子じゃ』
楓は結をかばうように一歩前へ出て、見えない気配を見据えた。
「契約の履行を申し出るわ。私は世界の真実を、この手で暴いた。約束は果たした。——だからこの契約を、終わらせて。力も何もかも、あなたから授かったものはすべて返す」
『つまらぬ。……では、こうしようかの』
女神の声がふっと嗤った。とたん、足元の風景がぐにゃりと歪みはじめる。また巻き戻すつもりだ。すべてを、なかったことに。楓の心臓が凍りついた。
けれど。
結が静かに、その歪みへと手を伸べた。
「……だめ。もう、やり直しはさせない」
歪みかけた世界が、ぴたりと——凪いだ。何事もなかったように、夜は夜のまま、そこに留まっている。神の気まぐれが、幼い少女の意志に完全に押しとどめられたのだ。
『……ほう、ほう』
女神の声に、初めて愉悦以外の色が混じった。
『これは、これは。——よかろう。対等の口をきく資格は、あるようじゃ』
「対価は」
『おぬしが契約で得たもの、すべてよ。真実を暴く力も——その、声を持つ相棒も、な』
楓の喉が、つまった。
「……それは、だめ。アールは渡さない。力ならいくらでも返す。でも、アールだけは——」
思わず声が裏返った。取り立ての対象が、まさかアールにまで及ぶとは。契約を結んだあの日からずっと隣にいた。皮肉も、軽口も、的確すぎる助言も。怪盗エルは決してひとりではなかった。たったひとりの相棒を、手放せるはずがなかった。
『マスター』
通信越しの声は、いつもと変わらずどこまでも淡々としていた。
『お忘れですか。私はただのAIです。あなたに割り当てられた、ひとつの支援プログラムにすぎません。——情に絆されるような器では、ありませんよ』
「そんなの、関係ない……っ。あなたは、ずっと——」
『契約は、対等でなければ成立しません。あなたが力を返すのなら、私も本来あるべき場所へ還る。ただ、それだけのことです』
取りつく島もない、いつもの正論だった。けれどその淡々とした声が、いまはどうしようもなく優しく聞こえた。
『最後に、解析結果をお伝えします。算出された未来予測。——マスター。あなたは、幸せになります。誤差は、ありません』
「アール、待って。まだ、お別れなんて——」
『どうか、お元気で。短いあいだでしたが……あなたの相棒であれたこと、光栄でした』
その声を最後に、楓の端末はふつ、と沈黙した。手のひらに残ったのは、もう二度と温もりを返さない、ただの機械の重みだけ。
「アール……っ!」
暗くなった画面に縋りつくように、楓はしばらく動けなかった。ただのAIだと、本人は言う。それでも、失ったものの大きさに胸が引き裂かれそうになる。自分で選んだ別れだと分かっているのに、涙が止まらなかった。
『さて』
女神の気配が、楓へと向き直る。
『ひとつ、種を明かしてやろう。——おぬし、不思議に思わなんだか。なぜ幾度世界を巻き戻しても、おぬしらは必ず出会うてしもうたのか』
「……それは」
『恋とは、わらわにも消せぬものであったのよ。記憶を消し、世界を巻き戻し、何もかもを白紙に返しても——おぬしらはそのたびに出会い、そのたびに惹かれおうた。あの男の中に残った“残響”が、何よりの証じゃ』
女神の声が、どこか寂しげに笑った。
『恋だけは、神の手にも余る。……まったく、面白いものよなあ』
その声には、嘲りも怒りもなかった。ただ、永い時を生きる者のかすかな羨望だけが、滲んでいた気がした。神にも消せぬものを、人はいとも容易く抱いてしまう。それがこの存在には、ひどく眩しかったのかもしれない。
ふっ、と気配が薄れていく。
同時に、楓の胸の奥でずっと巣くっていた鈍い痛み——誰かを愛しく思うたびに走った、あの代償の疼きが、すうっと溶けて消えた。そして痛みのあった場所に、代わりにほのかな熱が灯る。
もう、巻き戻らない。誰かを好きになっても、世界は消えない。
長い長い呪いが、いま、ようやく終わったのだ。
三度繰り返した世界。差し出した恋。消えていった夜明け。そのすべてが、この一瞬のためにあったのだと楓は思った。痛みでしか感じられなかった想いが、いま初めてただの熱として、胸を満たしている。生きている、と——そう素直に思える熱だった。
隣で、結がほっと息をついた。役目を終えた少女の頬を、ひとすじ涙が伝っている。楓はその小さな肩を、そっと抱き寄せた。
「ありがとう、結。……あなたが、私たちを自由にしてくれた」
力が抜け、くずおれそうになった楓を、すぐ後ろから岬の腕がしっかりと支えた。
「……終わったんだな」
低い声がすぐ耳元で囁く。呪いはもうどこにもないのに——楓の心臓だけが、昔のままの速さで高鳴っていた。




