第43章 告白
翌朝は、よく晴れた。
雨上がりの空は洗ったように青く、アジトの小さな窓からまっすぐな朝陽が差し込んでいる。一晩じゅうの騒ぎが嘘のように、世界は静かだった。けれどその静けさは、もう巻き戻る前の凪ではない。これから続いていく日々の、ただのありふれた朝だった。
久賀と佳澄は結を連れて、ひと足先に久賀の屋敷へ引き上げていた。アジトに残ったのは、楓と岬の二人きり。
いつものモニター群は暗いまま、もう二度と起動しない。アールのいない部屋は、少しだけ広く、そして静かに感じられた。
「……これで、もう」
岬が口を開いた。
「君が誰を好きになっても、世界は消えない。そういうことで、いいんだな」
「ええ。……もう、何も巻き戻らない」
短い沈黙が落ちる。けれどそれは、気まずさの沈黙ではなかった。長いあいだ互いに飲み込んできた言葉を、ようやく外に出してもいいのだと——二人とも分かっていた。
岬がまっすぐに楓を見た。いつもの観察するような目ではなく、ただひとりの女を見る男の目で。
「何度世界が巻き戻っても。記憶を消されても。……俺はそのたびに、君を好きになったらしい。自分では覚えてもいないのに。そんな馬鹿な話があるか、と思っていた」
一歩、岬が距離を詰める。
「でも、もう誤魔化さない。——好きだ。この巻き戻らない世界で、ちゃんと君のそばにいたい」
楓の目に、じわりと熱いものがこみ上げた。差し出すばかりで、ずっと飢えていた言葉。もう隠さなくていい。怖がらなくていい。
一度目の世界。雨の車の中で想いを告げた瞬間に、彼の微笑みごと何もかもが消えた。二度目。徹夜明けの朝、触れようとした唇は白い光に呑まれた。何度も何度も、この想いは口にしたそばから、なかったことにされてきた。
でも、もう消えない。今度こそこの言葉は、ちゃんと彼に届く。
「……私も」
声が震える。
「私も、好き。一度目も、二度目も……あなたのことが、ずっと。今だって」
どちらからともなく、二人を隔てていた距離が消えた。
岬の手が楓の頬に触れる。今度は、途中で止まらなかった。そっと唇が重なる。
世界は歪まない。白い光も訪れない。ただ胸の奥に灯った熱だけが、確かに二人を包んでいた。ふたりを隔てるものは、もうどこにもない。これは、何度もやり直した果ての——初めての続きだった。
どれくらいそうしていただろう。ようやく離れたとき、いつも無表情なはずの岬の顔が、ほんのり赤らんでいた。それがおかしくて、楓は思わず小さく笑ってしまう。つられて岬も、ばつが悪そうに、けれど確かに笑った。
もう、世界が消える心配はどこにもない。誰かに想いを測られることもない。ただ好きだと言える。ただ、笑い合える。それがこんなにも満たされることだったなんて、知らなかった。
*
数ヶ月後。
よく晴れた朝のパン屋に、香ばしい匂いが満ちていた。
「いらっしゃいませっ」
看板娘見習いの結が、たどたどしくも元気に声を張る。その隣で、バイトの佳澄が「結ちゃーん、エプロン、後ろ前ですよぉ」と笑った。常連の老婦人——久賀の祖母が、いつものミルクフランスを買っていき、その孫は相変わらず飄々と、店の隅で珈琲を飲んでいる。
怪盗エルは、あの夜を最後にぱたりと姿を消した。いまでは、誰かが流した都市伝説のように語られている。K12計画の告発は世界を揺るがし、鬼島啓司はすべてを知る証言者として、自ら裁きの場に立った。墓守は、ようやく墓守でなくなったのだ。
ドアベルが鳴って、スーツ姿の岬が顔を出した。
あの夜のあと、岬は古巣の公安第七課を離れ、いまは警視庁の一介の刑事として、街を騒がす強盗や窃盗犯を追っている。雲をつかむような怪盗ではなく、地に足のついたただの泥棒を、だ。性に合っている、と本人は言う。
「いらっしゃいませ、刑事さん。今日は、お勤めは?」
楓がからかうと、岬は決まり悪そうに目を逸らした。
「……聞き込みの帰りだ。ジャムパンを、二つ」
その背に相変わらずくっついて来ている後輩の三國が、暢気にあくびをする。
「いやー、最近ほんと平和っすねえ。あの派手な怪盗エルも、ぱったりっすし。もう二度と現れませんよ」
その“怪盗”が、いままさにレジでジャムパンを包んでいるとも知らずに。楓は、こみ上げる笑いをそっと噛み殺した。
その日、楓は新作のクロワッサンを焼いた。
幾重にも層を重ねた、きつね色の生地。焼きあがったそれをひとつ、そっとレジの脇に飾った澪の写真の前に供える。
いつか、この手で焼いたものをあの子にも食べさせてあげたかった。叶わなかったその願いだけが、ずっと胸の奥の小さな心残りだった。
もう、追いかけるべき真実も、暴くべき嘘もない。残ったのは、ただこのありふれてあたたかい毎日だけ。あの子が最後に願ってくれた、ささやかな、けれど何よりかけがえのない幸せ。
「……お待たせ、澪。やっと、焼けたよ」
写真の中の妹は、いつものように屈託なく笑っていた。
店には客足が絶えない。結はおつりを数えるのに四苦八苦しながらも、来る客来る客に精いっぱいの笑顔を向けている。あの空っぽの器だった少女は、もうどこにもいない。佳澄は相変わらず軽口で店を賑わせ、久賀は祖母を連れて週に何度も顔を出す。
奪われ、葬られかけた者たちが、いまは陽のあたる場所で笑っている。それは楓がずっと夢見て、けれど手に入らないと諦めていた、ありふれた光景だった。
その夜。楓は、空っぽになった隣室の扉をひさしぶりに開けた。
モニターの撤去された、がらんとした部屋。その机の上に一枚のメモが置かれていた。いつからそこにあったのだろう。見覚えのない、けれど妙に律儀な筆跡で。
《また会いましょう、マスター。今度は、もう少し先の未来で。——R》
楓はしばらくそれを見つめ、それからそっと微笑んだ。きっと、いつか。あの相棒なら、本当にひょっこり戻ってくる気がした。
ひとりじゃない。たとえ姿は見えなくても、あの声を持つ相棒は、きっといまもどこかで楓の“幸せ”を、淡々と計算してくれている。そんな気がなぜだか、した。
窓の外が白みはじめている。階下から、岬が「楓、開店の時間だ」と呼ぶ声がした。「今、行く」と返して、楓はそのメモをそっと胸ポケットにしまう。
何度やり直しても、あなたが私に恋をしてしまうんですが——。
今度の「今」は、もう巻き戻らない。たった一度きりの、かけがえのない、続きの日々だ。
楓は笑って、朝陽の射すほうへ歩きだした。
【完】




