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何度やり直しても、あなたが私に恋をしてしまうんですが  作者: 山本依由加


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第39章 墓守

 楓は、手にしていたトングを、そっと置いた。


 逃げも、隠れもしない。そう胸の内で決めて、ショーケースに残っていたミルクフランスを袋に詰める。珈琲を一杯、丁寧に淹れた。湯気の立つカップと袋を差し出し、男の向かいの椅子に、自分から腰を下ろす。岬が探りを入れる前に、向こうから来た。それが何を意味するのか、まだ読めない。けれど、ここで退けば、二度と本音は引き出せない気がした。


 雨の匂いと、淹れたての珈琲の香りが、誰もいない店内に混じり合う。鬼島は、しばらく黙ってパンをちぎっていたが、やがて、低く切り出した。


「怪盗エル。……お前さんが何を掘り起こそうとしてるか、見当はついてる。だから、わざわざ言いに来た。やめておけ」


「ご忠告は、どうも。でも、引く気はないわ」


「墓を、暴くな」


 鬼島の声が、底のほうへ沈んだ。


「あそこで死んだ子らは、もう帰らん。掘り返したところで、出てくるのは、骨と、罪の証だけだ。世間が騒いで、面白おかしく消費して、それで終いだ。……俺は、それを土の下に戻して、ずっとひとりで見張ってきた」


 あそこで死んだ子ら。その中には、澪もいる。喉まで、妹の名がせり上がってきた。けれど楓は、ぐっと飲み込んだ。いま、それを問えば——この対話そのものが、終わってしまう気がした。鬼島の言う「墓を暴くな」が、誰よりも澪の眠る場所を指しているのだと、痛いほど分かっていたから。


 代わりに楓は、アールが調べ上げた事実を、淡々と突きつけた。


「あなた、もとはK12の現場管理官だったのよね。計画が終わったあとも、ずっとあの施設を見張って、封印し続けてきた。——記録が、そう言ってるわ」


 鬼島は、否定しなかった。カップを包む大きな手が、わずかに強張る。


「俺は、判を押した側の人間だ。現場の管理官として、子どもらが一人、また一人と壊れていくのを、すぐそばで見ていた。止める力も、立場も、確かにあったはずだ。なのに俺は、指一本、動かせなかった」


 深い皺の刻まれた顔に、十数年ぶんの疲れが、滲み出している。それ以上は語らず、鬼島はただ、低く繰り返した。


「だから——もう、掘り返すな。墓は、墓のままにしておけ。それが、せめてもの弔いだ」


 償い、と言いたげなその響きを、けれど楓は、静かにはねのけた。


「墓守は、もう、いらない」


「……何だと」


「あなたが守ってきたその墓の中に、まだ生きてる子がいる。——あなたが、“大事なもの”と呼んだ、あの子よ」


 鬼島の手が、止まった。皺の奥の双眸が、大きく見開かれる。


 楓は、賭けに出ていた。この男が公安の端末に残してきた監視ログの“動き方”を、ずっとデータとして読んできたのだ。子どもを物として売り買いする側の人間なら、こんなに几帳面で、こんなに執念深い見張り方は、絶対にしない。決まった周期で、同じ区画を、何年も。深夜に、ひとりで。それは見張りなどではなく——墓参りの足取りだった。この男は、守る側の人間だ。楓は、そう確信していた。


「あの子は、目を覚ましたわ。名前をもらって、温かいパンを食べて、笑うようになった。怖がりで、優しくて、自分の意志で立とうとする、ふつうの女の子よ。墓の下なんかじゃない。——陽のあたる場所で、ちゃんと、生きてる」


 長い、長い沈黙が落ちた。


 やがて、鬼島は両手で顔を覆い、深く、深く息を吐いた。岩のようだったその大きな背中が、声もなく、かすかに震えている。十数年、たったひとりで墓を守り続けてきた男の中で、張りつめていた何かが、音もなく崩れていくようだった。守り抜いたものの中に、たったひとつだけ、生きた灯が残っていた——その事実が、終わりの見えなかった贖罪に、初めて、ほんの少しの意味を与えたのかもしれない。


「……生きて、たのか」


 絞り出された声は、これまでとは別人のように、掠れて、湿っていた。一度堰が切れると、もう、止まらなかった。


「俺はな……あの計画が凍結されたあと、上はすべてを“なかったこと”にしようとしやがった。証拠も、子どもらの記録も、まとめて闇に葬ろうとな。それだけは、させたくなかった。家族とも縁を切り、出世の道も自分で閉ざして、ただ、あの施設を見張るためだけに、第七課の椅子にしがみついて……十数年、たったひとりで、墓の番を続けてきた」


 誰にも明かせなかった秘密を吐き出すその声は、懺悔のようでも、長く抑え込んできた呻きのようでもあった。


「死んだ子らに、もう、してやれることはない。そう思って、生きてきた。それなのに……ひとり、生きてたのか。俺が、守れてたのか」


「ええ。あなたが、守ってくれたから」


 楓は、そう言わずにはいられなかった。この男の十数年が、まったくの無駄ではなかったのだと——せめて、それだけは、伝えておきたかった。


「……いつか、あの子に会いに来てあげて。あなたが守りぬいた命に、ちゃんと、礼を言わせてほしいの」


 鬼島は、答えなかった。けれど、その沈黙は、もう拒絶ではなかった。


 ずいぶん経ってから、鬼島はゆっくりと立ち上がった。財布を取り出し、パン代を、きっちりと数えてカウンターに置く。一円の借りも残すまいとするその律儀さが、かえって楓の胸を打った。


 ドアに手をかけ、背を向けたまま、彼はぽつりと言った。


「……あの子だけが、“あちら側”から自由なんだ。誰の手も、届かん。——神様の手すら、な」


 それは、警告のようでも、答えのようでもあった。結こそが、女神に抗える唯一の存在なのだという確信を、楓の胸に、深く刻みつけて。


「ひとつだけ、忠告しておく」


 鬼島は、最後まで振り返らなかった。


「上は、もうお前さんの動きに勘づき始めてる。仕掛けるなら、早いほうがいい。……それと、覚えておけ。“最後の扉”の開け方を知ってる人間は、案外、お前さんのすぐ近くにいるかもしれんぞ」


 ドアベルが、からんと鳴り、男は雨の向こうへと消えていった。


 ひとり残された楓は、冷めかけた珈琲のカップを見つめながら、その最後の言葉の重みを、胸の奥へと、深く刻んだ。あの男は、敵ではない。そう信じられる確かな手応えだけが、雨音の中に、ぽつりと残されていた。


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