第38章 鍵
翌朝の食卓は、いつになく重かった。
楓が焼いたパンも、久賀が買ってきた総菜も、ほとんど手がつけられないまま冷めていく。昨夜の同調は、失敗に終わった。澪の最後の言葉——その続きへ、あと一歩のところで、扉は固く閉ざされてしまったのだ。
あの子は、最後に、何を言おうとしたのか。それを知らないままでは、楓はどうしても、前へ進めそうになかった。
「アール。……澪の言葉の続きは、もう、どこにも残っていないの」
『結さんの記憶野は、想像以上に深く封じられていました。あの同調では、最奥まで届かなかったのです』
アールの声が、しかし、すぐに続けた。
『ですが——同じ記録は、おそらく別の場所にも残っています。結さんが眠っていた、K12施設の最深部。封印されたアーカイブの中に。澪さんの最後の記録も、そこへ収められているはずです』
声の続きは、あの施設の奥に、まだ眠っている。閉ざされたと思った扉に、もう一本、細い光が差し込んだ気がした。
そして、アールは、もうひとつの“発見”にも触れた。ゆうべの解析が浮かび上がらせた、結という存在そのもののこと。
『結さんは、おそらく“完全な付与個体”です。久賀さんをも超える——女神のような上位の存在すら、“視て”しまえるかもしれない、ただひとりの個体』
その意味の大きさを、楓は、すぐには受け止めきれなかった。
けれど、いずれにせよ、結には、すべてを話さなければならない。隠し事はなしにすると、決めたのだ。この子にだけ本当のことを伏せておくのは、もう、違う。
「……結。聞いてほしい話があるの」
お茶を運んできた結の手から、そっと盆を受け取り、楓はその前に膝をついた。視線を、同じ高さに合わせる。
そして、ひとつずつ話した。女神のこと。世界の真実に触れる力と引き換えに、楓が“恋”を差し出した契約のこと。世界が、もう三度も巻き戻ってきたこと。そして——結自身が、ふつうの人にはない、特別な力を秘めているかもしれないこと。
結は、毛布の端を握りしめて、じっと聞いていた。話が進むにつれ、その小さな顔から、みるみる血の気が引いていく。
女神。巻き戻る世界。結にとっては、絵本の中の出来事のように現実離れした話のはずだった。それでも結は、笑い飛ばしはしなかった。自分の中にぽっかり空いた“空白”が、その荒唐無稽さと、どこか深いところで繋がっていることを、本能で感じ取っているようだった。
「……わたしに。そんな力が、あるなんて……信じ、られない」
声が、震えていた。自分が何者なのかさえ分からないまま目覚めた少女には、あまりにも大きすぎる話だった。
「怖いわよね。ごめんね、こんな話」
楓は、結の冷たい手を、両手で包んだ。
「あなたは、何者でなくていいの。ただの結のままで、生きていい。力のことだって、今すぐどうこうって話じゃない。……ただ、あなたには、本当のことを、知っていてほしかった。それだけなの」
結は、しばらくうつむいていた。膝の上で、小さな指が、握ったり開いたりを繰り返している。長い沈黙のあと、ようやく顔を上げたとき——その瞳には、おびえの奥に、まっすぐな光が宿っていた。
「……楓さんの、妹さん。わたしの中に、いるんですよね。その人の、最後の言葉を……楓さんは、聞きたいんですよね」
「……ええ」
「だったら、わたしも、手伝いたいです。怖いけど」
たどたどしく、それでも、自分の言葉で、ひとことずつ。
「みんなは、わたしに名前をくれました。居場所も、くれた。“それ”じゃなくて、結って、呼んでくれる。……だから、今度は、わたしが。みんなの役に、立ちたいんです」
その言葉に、楓は胸を衝かれた。空っぽの器だったはずのこの子が、いつのまにか、誰かのために立とうとしている。誰かに強いられた役目ではなく、自分で選び取った気持ち。その姿は、この部屋の誰よりも、まっすぐな人間のものだった。
佳澄が、そっと結の頭を撫でた。「結ちゃん……えらい、ですぅ」と、目を潤ませて笑う。久賀も「……まいったな。子どもに、覚悟で負けるとは」と、ばつが悪そうに頭を掻いた。岬は何も言わなかったが、深く、ひとつ頷く。その重い肯定が、彼にできる精いっぱいの賛辞だった。
残る壁は、鬼島だった。
澪の最後の言葉が眠る、K12施設の最深部。けれど、そこは厳重に封印され、もう何年も、人の出入りを拒み続けている。その封印を解く鍵を握るのは、ただひとり——かつての現場を知り尽くした男、鬼島啓司にほかならなかった。あの男を動かさないかぎり、澪の声へは、辿りつけない。
「俺が探る」
岬が言った。
「あの人は、俺の上司だ。下手に動けば、すぐ気取られる。だが裏を返せば、いちばん近くにいるのは俺だってことだ。隙を突いて、本性を引き出す」
「危険よ。あなたが疑われたら」
「もう、とっくにこっち側へ足を踏み入れてる。今さらだろう」
その声に、迷いはなかった。事情のすべてを知ってなお、一歩も退こうとしない——その横顔を、楓は黙って見つめた。守られているのは、自分のほうなのかもしれない。ふと、そんなことを思う。
それからの数日は、表向き、穏やかに過ぎた。楓は変わらず朝にパンを焼き、結は店の手伝いを少しずつ覚え、岬は職場で何食わぬ顔を続けた。けれど水面下では、あの施設へ近づくための準備が、一日ごとに進んでいく。久賀が古い図面をかき集め、アールが封印の解除手順を洗い、佳澄が結の負担を少しでも減らす方法を探った。嵐の前の、束の間の静けさだった。
ところが、こちらが仕掛けるよりも先に、相手のほうから現れた。
ある晩の、閉店間際。からん、と乾いたドアベルが鳴って、楓が顔を上げると、戸口に立っていたのは——岬が探りを入れているはずの、当の男だった。
鬼島啓司。広い肩のコートに、夜の雨を乗せて。
「……ひとつ、もらおうか。売れ残りで、構わん」
低く錆びた声が、静まり返った店内に、ことりと落ちた。




