第37章 参照個体
解析は、夜を徹して続いた。
モニターの群れが低い唸りを上げながら、久賀の過去を一枚ずつめくっていく。幼少期の脳波、適性評価、桁の合わない数値の羅列——楓には半分も意味の取れないデータの奔流を、アールは黙々と組み上げていった。当の久賀は壁際の椅子に深く腰かけ、腕を組んで、どこか他人事のような顔でそれを眺めている。けれど、その指先だけが、ときおり落ち着きなく二の腕を叩いていた。飄々とした仮面の下で、この男も決して平静ではいられないのだと、楓は知る。
佳澄は隅で膝を抱え、結は隣室で穏やかな寝息を立てている。岬は腕を組んだまま、モニターの光を見るともなしに見ていた。誰も、口を開かない。冷却ファンの回る音だけが、夜明け前のアジトを満たしている。
空が白み始めたころ、アールの声が、ふいに途切れた。
『……まとまりました。久賀さん。お聞きになる覚悟は、おありですか』
「もったいぶるな。早く言えよ」
久賀の声は、いつもの軽さを装っていた。けれど、わずかに上ずっている。
『あなたは——“天然の”メタ認知能力の、保有者です』
一瞬、誰も、その言葉の意味をつかめなかった。
アールは、噛んで含めるように続けた。久賀の脳には、生まれつき、ある特異な構造がある。外部からの干渉——記憶の書き換えや、意識への介入を、根本から受けつけない。だからこそ、世界が何度巻き戻ろうと、契約者でもないこの男ひとりが、記憶を保っていられた。
『そしてK12は、この“久賀貴道”という個体を、計画の参照点に据えていました。あなたは被験者ではなく——目指すべき完成形。いわば、設計図そのものだったのです』
久賀の顔から、いつもの飄々とした色が、すうっと引いていった。
「……モデル、だと」
『財閥があなたに幼少期に受けさせた“健康診断”。あれこそが、すべての発端でした。理想の一例が、ここにいる。ならば同じ能力を、人為的に他人へ付与できないか——それが、計画のほんとうの目的です。記憶の移植も、感情の破壊も、そこへ至るための、ただの手段にすぎなかった』
久賀が、片手で額を押さえた。
「……思い出した。子どものころ、何度か、白い部屋に連れていかれたんだ。頭に冷たいものを当てられて……父は、“賢くなるための検査だ”と言っていた。あれが、まさか」
言葉が、途切れる。自分の根っこが、ずっと信じてきた家の手によって、取り返しのつかない何かと地続きだったと知る。その横顔は、見ているこちらが痛くなるほど、蒼ざめていた。
佳澄が、ぽつりと言った。さっきまでの軽さは、もうどこにもない。
「……じゃあ、私たちは。久賀さんみたいになるための、試作品だったってこと、ですかぁ」
『佳澄さん。あなたは“不完全な付与個体”です。痕跡から人を読むあの感知も、ときおり蘇る断片的な周回記憶も——付与が中途半端に根づいた、その名残でしょう。そして楓さんの記憶保持は、それらとはまったく別系統。あくまで、契約に由来するものです』
ひとりひとりの“異常”に、理屈の名前がついていく。けれど、腑に落ちれば落ちるほど、楓の胸は冷えていった。
ずっと喉に引っかかっていた問いが、自然と口をついて出る。
「待って。メタ認知って——女神の干渉を、受けつけない力、ってことよね。だったら」
声が、自分でも気づかぬうちに掠れていた。
「この計画はそもそも……女神みたいな“何か”に、抗うために、作られたんじゃないの」
部屋が、しんと静まり返った。
『——その可能性は、あります』
アールの声が、わずかに低くなる。
『国家が、なぜそんな精神を欲したのか。そこまでは、記録も語りません。ですが——“上位の存在に干渉されない人間”を量産しようとした、と仮定すれば、すべての筋が、不気味なほど通ってしまうのです』
女神のような存在に、抗える人間。それを、国家が、何十人もの子どもを使って造ろうとしていた。すべては憶測にすぎない。けれど一度そう考えてしまうと、足元から冷たいものが這い上がってくるようだった。自分たちが触れているのは、ひとつの研究所の罪などではなく、もっと大きな、底の見えない何かなのかもしれない。
岬が、低く口を開いた。国家の裏側を覗き続けてきた男の声には、苦いものが混じっている。
「……道理で、上が必死に蓋をするわけだ。ただの人体実験の発覚どころじゃない。“神”だの、世界が巻き戻るだのという話が、もし国家ぐるみの前提だったなら——俺たちがこじ開けようとしてるのは、この国の根っこを支えてる秘密かもしれない」
その言葉が、部屋の温度を、さらに一段、下げた。誰も、否定の言葉を持たなかった。
久賀は、長いあいだ黙っていた。やがて、絞り出すように言う。
「僕の家が、金を出していた。僕が“理想の子ども”だともてはやされていた、その裏で——澪も、佳澄も、何十人もの子どもが、すり潰されたんだ」
「久賀さん、それは」
「分かってる。僕が手を下したわけじゃない。それくらい、分かってるさ。……でも、知らなかったで済ませていいわけが、ないだろう」
いつも飄々と笑っていた男の声が、初めて、はっきりと震えていた。楓は、かける言葉を持たなかった。罪の重さを比べることに、意味はない。ただ、この男もまた被害者であり、同時に加害の家に生まれてしまった者なのだと、それだけが胸に残った。
その沈黙を破ったのも、やはりアールだった。
『申し上げておくべきことが、もうひとつ。佳澄さんが“不完全”であるならば——理論上、“完全に付与が成功した個体”もまた、存在しうる、ということになります。久賀さんと同等か、あるいはそれ以上に、上位の存在を“認知できる”個体が』
楓の背筋が、ぞくりと粟立った。
完全な、付与個体。これまでにただひとり、生きたまま見つかった被験体。
その場の全員の視線が、誰からともなく、隣室で穏やかに眠る小さな影——結のほうへと、吸い寄せられていった。
まだ何も知らずに眠る、あの子に。世界をまるごと終わらせるかもしれない重さを、背負わせようとしている。楓は、膝の上できつく拳を握った。許されることだとは、思わない。それでも、ほかに道は、残されていなかった。




