第36章 輪郭
遊園地の翌日。借りものの休息が終われば、待っているのは現実だった。
アジトに戻った一同は、改めて結の同調に臨んだ。前にアールが弾き出した安全策に従い、負荷を常時監視しながら、佳澄が結の手を取る。
「いきますよぉ。……結ちゃん、力を抜いて」
部屋の灯りを落とすと、佳澄の呼吸が深くなり、二人の脳波が同期していく。モニターの波形が、ゆっくりと重なり始めた——が。
『……信号、不安定です。断片の手前で、強い拒絶反応』
アールの声が、緊張を帯びた。
結の眉が、苦しげに寄る。か細い声が漏れた。
「……いたい。あたまの、奥が……っ」
『負荷、危険値に接近。中断します』
言うが早いか、アールが接続を断った。佳澄が弾かれたように手を離す。結は荒い息をつき、目尻に涙をにじませて、こてんと楓の膝へ倒れ込んできた。
「結!」
「……ごめんなさい。届きそう、だったのに……扉が、固くて」
「いいの。もう、いいのよ」
楓は結の背をさすりながら、こみ上げる落胆を奥歯で噛み殺した。あと少しで、澪の最後の言葉に手が届く。そう思っていた。けれど、この子を壊してまで得ていい答えなど、どこにもない。
佳澄が、汗だくの顔で首を振る。
「奥に、何かもっと大きな“鍵”がかかってるみたいで。私の力じゃ、こじ開けられない。……ごめんなさい、楓さん」
澪が最後に遺そうとした言葉。その先は、ふたたび闇の奥へ閉ざされてしまった。
*
結を寝かしつけたあと、楓は残った三人を見回した。久賀、岬、佳澄。素性も傷もばらばらの、それでもいまや同じ船に乗った顔ぶれ。
「……もう、隠し事はなしにしましょう」
楓は、ひとつ息を吸って切り出した。
「力ずくでこの子の記憶をこじ開けるのは、もう無理。だったら、私たちが今わかっていることと、わからないことを、ぜんぶ並べて整理する。そこからしか、進めない」
モニターに、これまで拾い集めた断片が映し出されていく。楓は、ひとつずつ指を差した。
「まず——澪が最後に遺そうとした言葉。『お姉ちゃんに、言いたいことがあるの』。その先が、どうしても読めない。あの子が、何を伝えたかったのか。それが、私の知りたいことの、ひとつ」
次に口を開いたのは、佳澄だった。
「私が追ってるのは、計画の“ほんとうの目的”なんですぅ。記憶を移し替える、なんて名目の裏で……もっと別の“何か”を、人から人へ移そうとしてた。それが、何なのか。どうして私たちが、そのために使い潰されたのか。——そこだけは、どうしても知りたくて」
岬は腕を組んで聞いていたが、やがて低く言った。
「……俺にも、ずっと引っかかってることがある」
その視線が、まっすぐ楓へ向く。
「久賀に言われたんだ。あんたに——楓さんに、恋をするな、と。恋をしないと誓えば、そばにいられる、と。だが理由は、教えてもらえなかった。俺はずっと、その意味を知りたかった」
部屋の空気が、張りつめた。
来た、と楓は思う。いつか話すと、約束した。その“いつか”が、いまだった。
楓は深く息を吸い、語り始めた。女神のこと。世界の真実に触れる力と引き換えに、“恋”を差し出した契約のこと。誰かと想いが通じ合った瞬間、世界が巻き戻ること。そしていまが、三度目の世界であること。そして——巻き戻っても記憶を保っていられるのは、契約者である自分と、なぜか久賀さんだけだということ。
「あなたは、覚えていないだけ。一度目も、二度目も——あなたは、私を好きになった。そのたびに、世界が、消えたの」
長い沈黙が落ちた。
岬は何も言わず、ただ片手で口元を覆って目を見開いている。あり得ないはずの記憶。この部屋で楓に拒まれたあの感触。説明のつかなかったものすべてに、いま、ひとつの輪郭が与えられた。
「……そうか」
絞り出すような声だった。
「俺は、おかしくなったわけじゃ、なかったのか」
佳澄も、言葉を失っていた。女神。巻き戻る世界。荒唐無稽な話のはずなのに、自分たちの身に起きてきたことが、それでようやく筋を結んでいく。
その話を聞いて、岬の視線が久賀へ向いた。
「久賀。……お前も、覚えてるんだったな。契約者でもないのに」
久賀は、めずらしく軽口を返さなかった。腕を組んだまま、壁から背を起こす。
「ああ。なぜ僕だけが覚えていられるのか——正直、僕にも、さっぱり分からないんだ」
いつもの飄々とした調子は、そこにない。
「ずっと引っかかってた。……これを言うか、迷ってたんだがな」
久賀はテーブルの名簿に手を伸ばし、その隅を指で示した。
「ゆうべ、見つけた。この予備検査の名簿の端に、僕の名前がある。久賀の家は、K12に金を出していた側だ。それなのに、なぜ僕が“被験者”として載っているのか。……心当たりが、まるでない」
はぐらかしではなかった。本当に、分からない、という顔だった。楓は、ゆうべ彼が頁を閉じたときの、あの強張った指先を思い出す。隠していたのではない。久賀自身が、自分のことを持て余していたのだ。
「久賀さん……」
「すまない。確証もないのに、きみらを不安にさせたくなかった。——でも、隠し事はなしって決めたんだろう。なら、これも出しておく」
久賀は、ふっと、いつもの笑みを取り戻した。今度は、ちゃんと目も笑っていた。
『——でしたら』
アールの声が、静かに割って入った。
『久賀さんの記憶保持にも、名簿の記載にも、必ず理由があるはずです。お許しいただけるなら、久賀さんの過去の検査記録を、私が解析します。答えは、データの中にあるかもしれません』
「……好きにしてくれ。僕も、自分が何者なのか、いいかげん知りたい」
久賀がうなずくのを待って、アールは解析を始めた。冷却ファンの音が、一段高くなる。
その解析が何を掘り当てるのか——このときはまだ、楓にも、そして久賀自身にさえ、知るよしもなかった。




