第35章 晴れ間
よく晴れた日だった。
平日の昼下がり、郊外の遊園地は親子連れでほどよく賑わっている。楓は帽子を目深にかぶり、結の手を引いて園内を歩いた。耳の奥で、アールの声が控えめに響く。
『現在地、問題ありません。東ゲートの巡回が一台。観覧車側へ回れば死角になります。——皆さんの位置は、私が監視カメラで把握していますから、はぐれてもご心配なく』
全員の端末を行き来しながら、アールはこの一日、見えない引率者として一同を見守るつもりらしかった。
「アールって、こういうときちょっと過保護ですよねぇ」
綿菓子を頬張りながら、佳澄が笑う。
『過保護ではありません。最適化です』
顔のないアールの、それでもどこか得意げな返事に、佳澄がころころと笑う。
その視線の先では、射的の屋台に久賀が陣取っていた。コルク銃を構え、棚のいちばん上の景品をねらっている。
「景品くらい、まとめて買い取ればいいものを」
呆れ顔で言ったのは岬である。私服のシャツ姿はいつものスーツより少し若く見えるのに、背筋はあいかわらずまっすぐで、視線は無意識に人混みの流れを追っていた。
「無粋を言うな。こういうのは、自分の手で落とすから値打ちがあるんだ」
得意げに胸を張った久賀だったが——十発撃って、かすりもしなかった。財閥の御曹司が、的の前で本気で唇を噛んでいる。
「……おかしい。的のほうが、間違っているとしか思えない」
「貸せ」
見かねた岬が、無造作にコルク銃を取り上げた。片目をつむり、ほとんど狙う素振りもなく、ぱん、ぱん、と続けざまに撃つ。棚のいちばん上に鎮座していた大きな熊のぬいぐるみが、三発できれいに落ちた。屋台の主人が目を丸くする。
「……公安って、こういう訓練もするんですかぁ?」
「射撃は、得意なほうだ」
涼しい顔で言って、岬はその熊を、隣でぽかんとしている結に差し出した。
「ほら。重いから、気をつけろ」
結は、自分の背丈ほどもある熊を両手で抱きしめ、ふわ、と顔をほころばせる。
「……ありがとう、ございます。岬さん」
番犬と呼ばれた男の、思いがけない一面だった。久賀だけが「僕がさっき注ぎ込んだ金を返せ」と本気で悔しがっている。
次に一同を振り回したのは、佳澄だった。
「絶叫系、いきましょうよぉ! あそこの、いちばん高いやつ!」
有無を言わさず全員を引きずっていく。結を抱えた楓は身長制限で待機組に回り、残る三人がコースターに押し込まれた。
巻き上げられ、落下する車両。一拍遅れて、悲鳴が降ってくる。
いちばん大きな声で叫んでいたのは、意外にも久賀だった。御曹司の威厳もどこへやら、「ぎゃーっ」という素っ頓狂な声が、地上の楓のところまで届く。佳澄は両手を上げて笑い転げ、そして岬はというと——降りてきたとき、顔色ひとつ変えていなかった。
「楽しかったか」
楓が訊くと、岬は短く答えた。
「……座席の安全バーが、少し歪んだかもしれない」
どうやら無表情の下で、握っていた安全バーを、相当の力で締めつけていたらしい。
『岬さんの脈拍、最高で一七二まで上がっていました。表情との乖離が、過去最大です』
「アール。記録するな」
その晩のために録っておきます、とでも言いたげなアールの沈黙に、楓はとうとう声を立てて笑ってしまった。こんなふうに笑うのは、いつ以来だろう。
いちばんはしゃいでいたのは、やはり結だった。メリーゴーラウンドの馬にまたがり、初めて口にした綿菓子の甘さに目を丸くし、何を見ても「すごい」「きれい」と立ち止まる。岬がやったぶんを真似て、栄養がどうの効率がどうのと理屈をこねていた当の岬も、結に「はい」と差し出された綿菓子を、断りきれずに口に入れていた。
「……甘いな」
「岬さん、栄養は?」
楓がからかうと、岬はばつが悪そうに目を逸らす。佳澄が「番犬、陥落〜」とはやし立てた。
その横顔を見ているうちに、楓の胸はきゅうと締めつけられる。
——澪も、こんなふうに笑う子だった。
遊園地に連れていく約束を、何度もした。果たせないまま、あの子は逝ってしまった。いま結の手を引いて歩くこの時間は、本当なら、澪と過ごすはずだったものなのかもしれない。
「楓さん?」
結が、熊を抱えたまま心配そうに見上げてくる。楓は慌てて笑顔を取りつくろった。
「なんでもない。……次は、何に乗る?」
「あの、あの。最後に、観覧車に……みんなで、乗りたいです」
夕暮れどき、一同は大きなゴンドラに乗り込んだ。
「結ちゃん、こっちで一緒に見ようねぇ。久賀さんは、結ちゃんに景色の解説でもしててくださーい」
佳澄がてきぱきと結と久賀を片側のベンチへ引っぱっていく。その手際に楓が気づいたときには、向かいの席へ、岬とふたり並んで座らされていた。久賀が片眉を上げて、にやりと笑う。さりげない、それでいて露骨な計らいだった。
ゴンドラが、ゆっくりと持ち上がっていく。窓の外に、街が一望できた。
『高度、およそ八十メートル。正面に見えるのが旧市街、その奥の川向こうが新都心です』
アールが、やけに得意げに景色を読み上げはじめる。
『左手の一番高いビル、屋上が知る人ぞ知る夜景スポットでしてね。……まあ、追われる身の皆さんには、当面ご縁のない豆知識ですが』
「アール。誰も聞いてないわよ」
楓が苦笑するそばで、佳澄は窓に張りつき、久賀がそれに薀蓄で張り合い、結が熊と一緒に歓声を上げた。
その賑やかさの中で、楓と岬は、肩がふれるか触れないかの距離で並んで腰かけていた。
「……たまには、悪くないだろう」
ぽつりと岬が言う。からかうでもなく、ただ景色を眺めながら。
「あなたが言うと、説得力がないわ。さっきから一度も気を抜いてないくせに」
「職業病だ」
短いやり取りのあとは、二人とも黙って、はしゃぐ結を見ていた。それ以上は近づきもせず、触れもしない。ただ同じ景色を見て、同じ子どもの笑い声を聞いている。それだけで、不思議と満たされる時間だった。
『……感情干渉値、安定しています』
ふいに、アールが小さく言った。
『こういう日が、ずっと続けばいいのですけれどね』
楓は答えなかった。続かないと、分かっていたからだ。自分たちの足元には、まだ何ひとつ解けていない謎と、立ち向かうべき相手が、ぽっかりと口を開けて待っている。
それでも——今日のこの一日だけは、誰にも奪わせない。
観覧車が頂上にさしかかる。結が「わあ」と声を上げ、窓の外を指さした。その小さな背中を見つめながら、楓は胸の内で、けれど確かに、心を決めていた。この子の笑顔を守るためにも、もう終わらせなければならない。何もかも。




