第34章 観測
翌日の夜、狭いアジトはいつになく人の気配で満ちていた。久賀はソファを我が物顔で占領し、佳澄は物珍しげに機材をのぞき込み、結は隅でちょこんと膝を抱えている。そこへ勤務を終えた岬が顔を出して、ようやく全員の顔がそろった。
楓は一同に——とりわけ、まだ何も知らない岬へ向けて、ゆうべのことを手短に伝えた。結の奥に誰かの記録が眠っていると佳澄が感じ取ったこと、そしてアールがもたらした鬼島啓司という名前のこと。
鬼島の名を聞いた瞬間、岬の眉がわずかに動いた。観察に長けたこの男にしては珍しく、隠しきれない反応だった。
「……あの人が」
短い呟きの底に、何か重いものが沈んでいる。鬼島が何を知り、どこまで関わっているのか——それを確かめるのは、これからだ。
テーブルの中央には、久賀が財閥のアーカイブから掘り起こしてきた古い文書が広げられていた。財閥側が握っていた予備検査の名簿で、紙はすっかり黄ばんでいる。四人で手分けし、コードと評価項目を照らし合わせていく。「記憶統合適性」「精神分離抵抗値」——人の子を部品の規格のように測った数値の羅列で、評価のあとには決まって、処理済、中止、死亡、と短い一語が添えられていた。
ふと、向かいの久賀の手が止まった。名簿の隅をしばらく見つめ、それから何事もなかったように頁を閉じる。飄々とした横顔はそのままだったが、頁にかけた指先だけが、わずかに強張っていた。
(……今のは)
問いかけても、はぐらかされる気がして、楓は黙って胸にしまった。
代わりに、アールの声が落ちる。
『該当を確認しました。——LF-07、緒方楓。評価、適合保留・継続観測』
自分の名を聞いた瞬間、楓の息が浅くなった。
「……私も、観測対象だったの」
『記録上はそうなります。あなたは“感情抑制傾向・高耐性”と評価され、施設に入れられることなく、野放しのまま観察される対象とされていました。そして——LF-11、緒方澪。本選抜。姉であるあなたの“代わり”として、評価枠に組み込まれた形跡があります』
部屋がしんと凍りついた。楓の指が、名簿の縁を握りしめる。
「澪は……私の、代わりだったの」
私が“扱いにくい”と判じられて野放しにされたから、その代わりに、よく笑うあの子が選ばれた。白い部屋へ連れていかれて、二度と帰ってこなかった。守るべきだった姉の、私のせいで。
「君のせいじゃない」
岬の声は低く、まっすぐだった。
「選んだ側の罪だ。子どもに選択肢なんて、あるわけがない」
楓は首を振っただけで、何も言えなかった。十年以上も自分を責め続けた癖は、そう簡単には抜けてくれない。重い沈黙が、部屋に降りる。
それを破ったのは、意外にも久賀だった。
「——よし、やめだ、やめ」
ぱん、と手を打って立ち上がる。
「こんな辛気くさい顔で名簿とにらめっこしてたって、澪は喜ばない。きみらは根を詰めすぎなんだよ。たまには、息抜きも必要だ」
「久賀さん、今は——」
「結を見ろよ」
言われて、楓は隅にちょこんと座る結を見た。事情も分からないまま、それでも大人たちの暗い顔をうかがって、不安げに身を縮めている。この子は目覚めてからずっと、薄暗い部屋と、重たい話しか知らない。
「あの子、生まれ直したばかりなんだろ。なら、一日くらい、ただ楽しいだけの日があったっていい。——なあ結、明日、どこか行きたいところはあるか?」
結は、おずおずと顔を上げた。
「……えっと、あの。前に、テレビで……大きな観覧車のある場所を、見て」
消え入りそうな声で、それでも結ははっきりと続けた。
「あそこに、行ってみたい……です」
佳澄が、ぱっと顔を輝かせる。
「遊園地! いいですねぇ、行きましょうよぉ。私、絶叫系、得意なんですぅ」
楓は迷った。怪盗エルとして追われる身で、のんきに出歩いていいものか。けれど、結のあの遠慮がちな“行きたい”を、無下にはできなかった。
「……アール。明日、人混みに紛れて動けるルートはある?」
『監視カメラの死角と巡回の隙を割り出します。各位の端末に、最適な順路を送っておきましょう。——たまには、よろしいのでは。私も、外の景色は嫌いではありません』
その答えに、結の顔がぱっとほころんだ。岬は小さく息をつき、それから「俺も、非番にしておく」とだけ言う。
久賀が満足げに笑った。
「決まりだ。明日は全員で、遊園地。——番犬も、たまには鎖を外せよ」
くだらない、と思いながら、楓は久しぶりに、ほんの少しだけ口元をゆるめていた。




