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何度やり直しても、あなたが私に恋をしてしまうんですが  作者: 山本依由加


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第33章 感知

「座って。話は、これからよ」


 そう言いながらも、楓は椅子を勧めただけで自分は立ったままでいた。夜のアジトはいつも機械の熱と古い紙の匂いに満ちているが、今夜はそこへ柑橘系の安い香水がひとつ混じっている。目の前に腰かけた少女のものだ。


 青野佳澄。明るい瞳に、緊張を隠すための軽い口ぶり。その顔を見ているうちに、楓は奇妙な感覚に囚われていた。二周目では、この子は楓の店でエプロンをつけて働き、正体が露見してもなお肩を並べて戦った仲間だったのだ。けれど目の前の彼女は、そのどれひとつ覚えていない。世界が巻き戻るたびに関係は更地へ戻り、同じ顔をした他人として、また一から向き合うことになる。信じてよいという根拠も、当然のように消えてしまっている。


「ひとつ聞かせて。あなたの目的は何なの。何のために、ここへ来たの」


 抑揚を欠いた問いに、佳澄はきょとんと首を傾げ、それから探るように楓を見上げた。


「その前に、確かめたいことがあるんですけどぉ。ほんとに、あなたが怪盗エルなんですかぁ? 久賀さんにそう聞いてきただけで、私、まだ半分くらい疑ってて」


 楓は答える代わりに、机の端末へ歩み寄って指を走らせた。眠っていたモニター群がいっせいに目を覚まし、青白い光が部屋を満たす。


『ご用ですか、楓さん』


 どこからともなく響いた声に、佳澄が肩を跳ねさせた。人ならぬ、けれど確かに意思を持つ声。怪盗エルが声を持つ相棒とともに動くという話は、裏の世界では知らぬ者がいないほどの噂だった。


「私の相棒よ。——アール、例のものを出して」


 モニターのひとつに、先日世間を騒がせたあの記録映像が流れ出した。厳重な収容施設へ音もなく忍び込み、最深部のカプセルを開け、眠る少女をひとり抱えて消えていく影。最後に残されたのは、署名めいた一枚の予告状だけ。佳澄がずっと追いかけ、嗅ぎ回ってきた痕跡そのものだった。


「……ほんとだ」


 佳澄の声から、軽さが抜け落ちる。


「あの地下にいたの、あなたなんですね」


 彼女は深く息を吐くと、膝の上で両手を組んだ。


「信じます。——だったら、話しますね。私の目的を」


 声が、少しずつ低くなっていった。


「私たち、ずっと実験されてきたんです。記憶を移し替えるっていう名目で、人から人へ、何度も何度も。……でも、それだけじゃない気がするんですよぉ。記憶のほかにも、もっと別の“何か”を移そうとしてた。この曖昧な断片だって、たぶんその失敗のかけらなんだと思う」


 顔を上げた佳澄の瞳は、もう挑むようには笑っていなかった。


「いったい何を移したかったのか。なぜ私たちが選ばれて、捨てられて、それでも飼い殺しみたいに実験され続けたのか。——それが知りたいんです。怪盗エルなら、その奥まで手が届くかもしれないと思って来ました」


 記憶の移植は、ただの手段にすぎなかったというのか。ならば本当に移したかったものとは何だったのか——楓の思考が、その問いの前で立ち止まる。


 ふと視線を移すと、いつもなら軽口で間を埋めてくる久賀が、めずらしく口を閉ざしていた。視線をわずかに伏せたまま、それきり何も言おうとしない。


(この人は、何かを知っている)


 楓はその沈黙を、胸の奥にそっと書き留めた。問い詰めるのは、今夜ではない。


 張り詰めた空気の中、結が遠慮がちに盆を運んできた。淹れ直した茶を、ひとつずつ両手で、几帳面に配っていく。その手が佳澄の前へ湯呑を置こうとした瞬間、結の指先が佳澄の手の甲に触れた。


 佳澄の動きが、ぴたりと止まる。


 貼りついていた笑みが消え、見開かれた瞳だけが揺れていた。こめかみを押さえながら、彼女は喉の奥から声を絞り出す。


「……ねえ。この子から、澪ちゃんの“声”がするんですけど」


 楓の指が止まった。澪。その名が、思いもよらない場所から響いてくる。


「今、なんて言ったの」


「澪ちゃん。研究所で同じ部屋にいた子です。間違いない。この子の奥に、澪ちゃんがいる」


 心臓が大きく跳ねた。結のこの小さな身体の奥に、妹が眠っているというのだろうか。気づけば楓は、その肩へ手を置いていた。


「結。何か聞こえる? 誰かの声とか、思い出せること、どんな小さなことでもいいの」


 結は困ったように眉を下げ、首を横に振った。


「ごめんなさい……わたし、ひとりじゃ何も。頭の奥に誰かがいる気はするのに、その手が、どうしても届かないんです」


 佳澄が静かに首を振る。


「この子ひとりじゃ無理ですよぉ。扉はあるのに、鍵穴がないようなもの。ちゃんと繋いでやらないと、開かない。……私が間に入れば、たぶん届くと思います」


 今すぐにでも、と楓は思った。妹の声がこれほど近くにあるのなら、一秒だって待ちたくない。けれど、その逸りを見透かしたように、アールが割って入った。


『お待ちください、楓さん。結さんの記憶野は、本人の生活記憶ごと封じられた不安定な状態にあります。幼い精神の封印を、準備もなく無理にこじ開ければ、何が起こるか分かりません。安全に行えるかどうか、私に少しだけ、計算する時間をください』


 楓は唇を噛んだ。アールの言うことは、いつも正しい。結を危険に晒してまで急ぐ理由など、どこにもないはずだった。


「……分かったわ。今夜は、ここまでにしましょう」


 ちょうどそのとき玄関の照明がぱっと点き、扉が開いた。


「……ずいぶん賑やかになったな」


 立っていたのは岬だった。手にした袋を提げたまま、楓、久賀、結、そして佳澄と、ひと晩で増えた顔ぶれを見回して、いつになく目を見開いている。


「不本意よ」


 楓は短く答えた。


「あなたこそ、勤務中じゃないの」


「抜けてきた。すぐ戻る。——ほら、人数分ある。ちゃんと食えよ」


 岬は袋から惣菜の詰まった弁当を取り出し、ひとつずつ配っていく。楓に手渡すときだけ、「お前はどうせまた、ろくに口にしてないんだろう」と低く付け足した。受け取ろうとした楓の手の甲に、岬の指先がかすかに触れる。ほんの一瞬のことだったのに、二人とも申し合わせたように手の動きを止めてしまった。


 蓋越しに彩りの覗く弁当を見て、楓は思わず本音をこぼす。


「……美味しそう」


 ところが、佳澄の前に弁当を置こうとして、岬の手が止まった。数が、ひとつ足りない。今夜この少女がここにいることまでは、さすがに計算に入っていなかったのだ。岬は短く息をつくと、最後に残った自分のぶんを、そのまま佳澄へ差し出した。


「お前の分は」


 久賀が片眉を上げる。岬はこともなげに答えた。


「買い忘れた」


 佳澄が、弁当と岬の顔を見比べて首を傾げる。


「あれぇ。これ、ほんとはあなたの分だったんじゃ……?」


「いや、いい。職場に戻りがてら、適当に食べていく」


 その不器用な気遣いに、なんと礼を言えばいいのか分からずにいると、さきほどの楓と岬のやり取りをじっと見つめていた結が、あの澄んだ声で言った。


「あの……楓さんと、岬さんは、つがい、なんですか?」


 楓の手から、危うく弁当が滑り落ちかけた。


「っ……どこで、そんな言葉を覚えたの」


「だって、ふたりとも、おんなじ顔の色になったから」


「へえ〜、お似合いじゃないですかぁ」


 佳澄がにやにやと身を乗り出す。岬は咳払いをひとつして、ことさら平坦な声を作った。


「……仕事に戻る。あとは頼んだ」


 逃げるように去っていく背中を見送りながら、楓はしばらく弁当を抱えたまま動けずにいた。


 夜も、すっかり更けていた。「今夜はもう、何も進められないだろうしね」と久賀が腰を上げ、住む場所の算段くらいはつけてやると言って佳澄を促す。二人が連れ立ってアジトを出ていき、結も長い一日に疲れたのか、楓が整えてやった寝床へもぐり込むと、じきに規則正しい寝息を立て始めた。



 気づけば、青白い光に満ちた部屋に残されたのは、楓とアールだけになっていた。冷却ファンの低い唸りのほかには、何の音もしない。


『感情干渉値、微増。……ご報告まで』


 淡々と告げるアールに、楓は小さく息をついた。


「……記録しないで」


『記録は私の仕事です。とはいえ、削除のご要望でしたら承りますが』


 妹の声が、すぐそこにある。手を伸ばせば届きそうな場所に。それなのに、今夜はもう触れられない。整理のつかない感情が胸の内側で渦を巻いて、楓は珍しく、戸棚の奥にしまい込んでいた酒の瓶を取り出した。栓を抜き、ありあわせの野菜とチーズで簡単なつまみをこしらえて、机の隅に置く。グラスに注いだ琥珀色を、ひと口だけ、舌の上で転がした。


『お珍しいですね』


「……たまには、いいでしょう」


 楓は薄く笑って、グラスを置いた。


「ねえ、アール。さっきの話の続き。佳澄が間に入れば、結の中の記憶を——澪の記録を、本当に開けられると思う?」


『可能性はあります。実験体どうしの共鳴は、外部機器による強制展開よりも、対象への負荷がはるかに小さい。佳澄さんの感知は、いわば結さんの“言語”に近い帯域で働きますから』


 淡々と、それでいて確かに筋道を立てて、アールは続けた。


『ただし、保証はできません。結さんの記憶野は、生活記憶ごと封じられた特殊な状態にあります。澪さんの記録だけを安全に取り出せるのか、それとも結さん自身の何かを巻き込んでしまうのか——そこは、やってみなければ分からない領域です』


「……結に、傷をつけるようなことにだけは、したくない」


『させません。負荷を常時モニタリングし、危険値に達した瞬間に中断するプロトコルを組みます。それと、何より』


 アールの声が、わずかに和らいだ気がした。


『焦りは禁物ですよ、楓さん。結さんは道具ではなく、ひとりの子どもだ。彼女自身が望み、納得した上でなければ、扉は決して開きません。——あなたなら、分かっているはずです』


 楓は、グラスの縁を指でなぞった。アールの言うとおりだった。妹に会いたいその一心で、もうひとりの子どもを犠牲にするのなら、それはあの研究所がしたことと、何ひとつ変わらない。


「……分かってる。明日、結の気持ちを、ちゃんと聞くわ。焦らないって、約束する」


 深く息を吐いて、楓は残りの酒を飲み干した。胸でわだかまっていた渦が、ほんの少しだけ凪いだ気がした。


『それから楓さん、もうひとつ。ご依頼いただいていた調査が、完了しました』


「依頼……? ああ、久賀さんが頼んでいた件ね」


『対象、鬼島啓司。——元・K12、現場管理官です』


 モニターの白い光が、楓の眼鏡に冷たく映り込む。鬼島。澪のいた場所を知る男であり、そして——佳澄の問いの答えを、その手に握っているかもしれない男だった。


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