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第十六章(上)

2021/11/12 改稿:題名を十六章→十六章(上)に変更しました。




 …イサークの監視にも、限界がある。


 ここまで来て、荒松はこう直感した。

 例の下山手文書によると、今奴らが持っている人員は…柳枝会の約200人。その内の8割にあたる約160人が、関西を根城に広げるべく、まさに今も地元にいる組との抗争の真っ最中だ。ついこの間も、幹部が銃撃に遭ったらしい。

 そうなると、大河内製薬関連に割いているのは残りの、40人ということになる。この40人が、大河内製薬本社に入り込み、社長室と営業部署の一部を牛耳っているのだ。

 さらに、菅原研究室配下に居た助教と学生、計6人を殺害すべく行方を追っている人間も、この40人の中にいるはずだ。

 正直、人員としてはギリギリなように荒松は感じた。これではとても、一人一人の取締役の家の外の見張りまではよしんば出来たとしても、家の中までは監視しきれない。

 ここまで考えた荒松は早速、動くことにした。




 その男の名は、遠藤正人といった。

 大河内製薬の取締役のうちの一人である。正確に言おう。副社長である。

 彼こそ、今回の一連の事件を経てどうにも動きが取れなくなってしまった、筆頭であった。

 社内では常に、クビをすげ替えられた例の秘書が目を光らせ、電話も傍聴されている。下から上がってくる決済文書等も、自分より先に目が通され、あやしいものははじかれた上、そのあやしいものを送ってきた社内の人間は翌日、殴る蹴るの暴行を受け大変な目に遭うのだ。奴らのやり方は徹底していたのである。

 そんなある日のことだった。

 トイレで小用を足して、手を洗っていた遠藤は、コンコン、という物音に、その方を向いた。

 見ると、そこには外で作業用の命綱にぶら下がって窓ふきをしていたらしき作業服を着た男が、手招きをしている。

 遠藤はいぶかしげにしながらも、そちらへと向かった。そして、心臓が止まりそうになった。

 その男が窓に紙を貼り付けていた、その内容が目に飛び込んできたのである。



"青木社長は無事です"

"さっき、メモをポケットに入れておきました、見てください"


 ポケットを見ると、たしかにある。

 いつの間に入れたのだろう。

 それを手にして、窓を再び見ると、その小柄な若い男はもう居なくなっていた。




 その頃入谷と恵は……。

 奈良であくびを、かみころしていた。

 斑鳩町にある、例の大河内製薬の研究所だが、荒松から指示を受けて数日…全くもって平穏そのものだったのである。

「はは、入谷さんあくび伝染った」

 恵が笑っている。

「いやー…昨日徹夜で…」

 入谷、今しがたまで仮眠を取っていたようだ。

「あ、ゆきのんたちのやつ手伝ってはったんですよね?ええなぁ、あたしも手伝いたかったわ…」

 恵、先日の大使館の一件では若干仲間外れにされたのでむくれている。

「大丈夫。恵さんはそもそも下山手文書の貢献が大き過ぎましたよ。」

 入谷は笑って伸びをすると、ペットボトルのお茶に手を伸ばした。

 それにしても、よくこんな辺鄙な場所にこんな研究所を建てたものだ…。

 入谷はその白い建物に目をやった。


 それは、斑鳩の山奥にあった。

 建物の裏手にはうっそうとした山があり、近くには荒れ果てた畑と空き家が点在しているのみだ。人気ひとけが無い。おまけにこの建物で道が行き止まり…袋小路だ。襲撃に遭ったときはひとたまりもなかっただろう。

 …というわけで二人はここ数日、そんな荒れ果てた空き家のうちの一つを勝手に拝借し、例の研究所を見張っていたものである。日中は恵。そして夕方から朝にかけては入谷が主に見張るようにしていた。その他に荒松や上層部の金枝も手伝いに来てくれている。

 昨夜はここの監視は金枝に任せ、入谷は先日の一件の手伝いに駆り出されていた。そして今、仮眠から起きたところだったらしい。

 入谷は再びお茶を手に取り、おにぎりにぱくついた…その時だった。

「入谷さん」

 双眼鏡で覗き込んでいた恵が緊張した声で入谷を呼んだ。

 入谷が恵のそばから見るとそこには…。

 トラックが一台、二台、続々と入ってきている。そしてその幌製の荷台が開くと、そこからわらわらと人が降りてきたのである。

 そしてその中の人間の一人を見た時、入谷の短い髪が逆立ったようになった。


 間違いない。あいつは下山手文書で見かけた、柳枝会のナンバー2だ。


「恵さん」

 もう準備をすべく手袋をはめ始めた恵に入谷は声をかけた。「準備が終わったら、そのまま監視を続けてください。一旦班長に指示を仰ぎます」





 やはり、入谷の予想通りだった。

 ロシア総領事館を引き続き見張っていた畑野の方にも、動きがあったと言うのだ。

 どうやら、イサークら5人を乗せた外ナンバー二台は現在、まっすぐ斑鳩こちらに向かっているらしい。まもなく到着するだろうとのことだった。

"おそらく、5人が到着する数分前に、そこにいる奴らは動くやろうて"

「はい」

"お前達はすぐに潜り込んで、中の様子を見るんや。けが人がいたら即、恵に通報(110番)させえ。奴さん(ポリ公)らもバカやないで。現行犯ともなれば、日本人だけでもしょっぴけるでな"

「はい」

"その頃には和宏とも合流でけるやろ…合流したら、すぐ、全員で中の様子を見るんやな"

「はい」

"将史。今回、現場はお前に任せる。"

 それは入谷も予想していたことだった。神戸と斑鳩では距離があり過ぎる。

「…はい」

"わしもすぐそっちに向かう。無事で、その研究所の外まで帰って来い。"

 入谷の両肩に、何か重いものが載った瞬間だった。

 そして……。


「あ」

 様子を見ていた恵が声を上げた。

 建物を取り囲んでいた数十名が、一斉に正面玄関から突入していったのである。




 二人が入ると、そこは地獄絵図と化していた。

 顔面血だらけで倒れる警備員の男性。他にも引きずられたような血痕が、そこここに目に飛び込んでくる。

 まるで戦場だった。

 倒れている警備の男は、なんとか意識があるようだ。入谷は助け起こし、話をきくことができた。

 押し入ってきたのは全員男性。その数は20人ほどだったという。

 突然そんな大勢がやってきたものだから、その警備員は慌てて、「お客様、困ります。一体どうされましたか」と制止しようとした。

 すると、その制止した相手の…つまり先頭にいた若い男がぱっと左手を上げた。

 次の瞬間、自分の脇腹に激痛が走った。

 その若い男のすぐ後ろにいた別の男が、警備員に向かって撃ったのだ。弾は脇腹の、防弾チョッキの間から命中してしまっていたのである。

 慌てて別の警備員が詰所へ走り込み、通報ボタンを押した。…が、機器が全く反応しない。そうこうしている内にその警備員もあっという間に取り押さえられ、詰所で何か操作をされてしまったという。

(ボタンが押せなかったのは、配線を何らかの方法で切った…そして何か操作されたとは、監視カメラに何か細工をさせたか…)

 入谷は見当をつけた。そしてすぐ、恵に通報を指示した。恵は素早く行動に移る。落ち着いていた。

 恵にはこのまま、現場からは離れてもらうよう指示してある。この後合流するであろう畑野への指示を伝えるため…そして、退路の確保のためだ。

 一階は、水を打ったような静けさだった。

 まだ、外の見張りも今は手薄だ。

 ということは、侵入者は全員、二階から上に居る。


 入谷は再び、換気口の住人となった。



 例の外ナンバー二台、そして第二班の畑野和宏が現場に到着したのは、正にこの時だった。




 自動小銃。拳銃。手りゅう弾。

 まるでどこぞのテロリストのようだった。

 二階のとある一室を覗き込むと、そんな物騒なものをぶら下げた男数人が職員らに銃口を突きつけていたのである。

 職員は全員、一か所に集められていた。白衣姿や、事務員の制服姿の者も居る。その数、30数名。

 全員後ろ手に両手を縛られていて、狭い一室に閉じ込められていた。顔を殴られたのか、顔が赤黒く腫れあがった者もいた。ガタガタと身体が震えてしまっている者も目についた。


 しかし入谷はすぐに気が付いた。

 ここ数日見張っていてすでに顔を見知っている、ここの所長の姿が無い。

 とその時、階下が急に慌ただしくなった。


(真打登場か…)

 入谷は唾を飲み込んだ。




 三階、所長室―。

 服の上から首根っこを掴まれていた、年齢は50台半ばだろうか…、白髪交じりの男性がドサッと床に投げ出されてきた。衝撃で眼鏡が床に吹っ飛ばされる。

 これが所長、三嶋みしま康介こうすけであった。

 三嶋のすぐ先には、それはそれは上物そうな革靴がある。

 見るとそこには、ずいぶんと暗めの金髪と灰色の瞳をした男が、優雅にその長い脚を組んでそのさまを見下ろしていた。

 この男こそが、イサーク・イグルノフであった。今回の一連の、彼が首謀者だ。

(こいつか…)

「君。あまり手荒な真似はやめたまえ。大事なお取引相手だよ」

 イサークが目を細めた。見事な低音のボイスである。そして、一体どこで覚えたのか…本当に流暢な日本語であった。

(これは確かにてごわい…)

 寸分のスキも見当たらない。現に、天井裏に身を潜めている入谷も、その身を少しでも動かせば気取られそうだった。

 実は先ほど入谷は畑野に、現場には入らせないように指示していた。

 恵がここを無事に離れてすぐ、急に建物周りの見張りが厳しくなり、柳枝会の若いがうろうろするようになったのである。おまけにまだ外は明るい。とてももう、入り込めなかった。

 目の前では三嶋が無理やり、イサークの前にあるソファに座らされている。

「そちらの欲しいものは全て渡したはずだ。今頃何を…」

 所長はか細い声で口を開いた。その後ろには、銃口がこっちを見ている。限界ギリギリの精神状態なのが見て取れた。

「何を仰る。私共は申し上げたはずです。『今後とも長いお付き合いをさせていただきたい』と。今日はご報告と、お願いがあって、まかりこしたのですよ。」

 イサークはにこやかに言った。がしかし、その笑顔が明らかに表面に張り付いてるだけだった。丁寧な口調と相まって何とも言えず気持ち悪い。

「まずはこちら。」

 と言うと、イサークの後ろに控えていた4人の内の一人、まるで少年のような見た目の男が、手袋をはめた手で持っていたアタッシュケースから小瓶を取り出し、テーブルの上に置いた。中には何か、白い粉末のような物が入っている。

「お返しします。とはいえご覧の通り、データの収集とお取引もあって、いくらか使ってしまったのでこれしか残っておらぬのですが」

(お返しします、ってことは…)

 アレが、Blackブラック Narcissusナルシッサス。黒水仙から精製された新種の薬…そして、今回の事件の元凶。

「…!」

 なんで今頃になって返却なのだ。三嶋の顔にもそう書いてあった。

「思った通り、こちらは素晴らしい物でした。おかげでいくつか、お取引も成功いたしましてね。ただ残念なのがこちら、原料があの黒水仙で、しかもそれがもう、球根一つしか無いという非常に心もとない状況となっている、ということ」

 …今、黒水仙はイサークが研究所ここから奪った分しか無い、それもそれが球根一個分しかないと、イサークはそう言っているのだ。

 イサークのげんは続いた。

「実は今、お客様から少々せっつかれておりましてね。」

 ここでまた、イサークは例の作り込んだ笑顔を三嶋に向けた。「『培養して増やすのは時間がかかりすぎる。是非とも、この物質を人工で合成して、量産して欲しい』とこうおっしゃるんですよ。」

「…!!!」

 これには三嶋と同時に入谷まで、息を飲んだ。

「…しかし、前回はしてやられました。」

 イサークは笑みを深めた。「まさか青木さんの指示で、実験データを全て処分していたとは。それもハードウェアまで物理破壊するという徹底よう。おかげで、こちらで治験と解析をやり直さねばなりませんでしたよ。」

 …どうやら、社長の青木、そして会長の大河内清偵が現在のような状況に陥った原因はコレらしい…データを処分したことに対する報復だったようだ。

「…失礼。話がそれました。ともあれ…」

 と、ここまで滔々と二人の拉致・軟禁の正当性を語っていたイサークは長細い指先でその小瓶を手に取り、「データの精査の結果、『この薬物の化学組成式は少々入り組んでいるが、合成することは不可能ではない』との結論に達しました。

 貴方がたには、この薬の人工での合成に取り掛かっていただきたい。」

 ぐっ、と何かを飲み込んだような表情になり、三嶋はうなだれた。

 三嶋も知っていたのだろう。理論上、Black Naecissusの合成が可能である、ということを。


 どのくらいの間があったろうか。


「…話は分かりました」

 ようやく口を開いた三嶋は、まるで、さらに10歳ほど老け込んだようになっていた。「ただ、ご存知の通り、これは全くの新規の化合物です。合成された実績が無い。理論上は可能でも、やってみないと分からないのです。」

「存じ上げてますよ。その上で、と申し上げている」

 イサークは肩をすくめた。

「…」

 三嶋はこれ以上時間を稼ぐことは出来ないと悟ったようだった。「…分かりました。こちらに拒否権は無いようだ…。やりましょう。ただし」

 イサークの目が少し見開かれた。口元だけが笑っていて、気持ちの悪さがさらに強調される。

「前に仰っていた大麻関連の事については、我々を巻き込まないでいただきたい。我々はアレには一切、手を出しません。どうせすでに当社は貴方がたの物だ。ここの機材はいくらでも使って結構だが、アレその物には我々は一切手を出しませんのでそのつもりで。」

 つまり、大麻の精製に必要な、ここにある機材はいくらでも使って構わないが、職員は一切、それに協力しないと言っているのだ。それを条件に、Black Narcissusの合成をする、と。

(上手い…)

 入谷は思った。

 おそらく、三嶋はこうなることを予測していたのだろう。何としてでも自分の部下だけは犯罪に巻き込ませない、これ以上の犠牲は払わせないと、その一心でこの条件を申し出たのだ。


「…!…、」

 イサークは、傍らに居た野村に通訳を指示した。野村が、後ろにいた3人に何か言っている。すると、少し言い合いのようなものが始まった。イサークもロシア語に戻り、何か言っていた。が、それもすぐに収束した。

「良いでしょう。」

 イサークは鋭かった目をまた胡散臭く細め、「その条件、飲みましょう。流石です。賢い選択をされました」

 三嶋は細く息を吐いた。

「ここで本社に連絡を取らなかった、というのも実に賢い。よく状況を分かっておられるようだ。」

 イサークは少々、機嫌が良くなっているようだ。「本社上層部は現在、完全に私共の手下によって掌握されています。連絡を取ったところで無駄だったでしょう…そうだ。ご紹介を忘れておりました。」

 三嶋が、何か気味の悪いものを見ているような顔つきでイサークを見ている。

「紹介します。彼が、この度当社の社長に就任しました、マルク・ギリャロフスキーです。」

 と言われて進み出てきたのは、例の大河内製薬本社の社長室でふんぞり返っていたあの男だった。

 三嶋の顔が、愕然となった。

(大河内製薬(うちの会社)は本当に、こいつらに乗っ取られてしまっていた…)

 これだった。

「青木さんが、体調を崩されましてね。ありがたいことに、後任に指名してくださったのですよ。会長の後任も決まっておりまして、僭越ながらわたくしが…。」

(何をいけしゃあしゃあと…)

 入谷は天井裏で思わず呆れていた。と、その時だった。

 にわかに廊下が慌ただしくなり、所長室の扉がバンッと荒々しく開かれた。

「どうしました…まだお話し中ですよ」

 イサークは眉をひそめ、やってきた柳枝会の男に言った。しかし、その男の耳打ちを聞くと途端に目を驚きに見開いた。そして、何か小声で指示を出した。

 すると、何ということだろう。人質に取っていたテロリストまがいの男から、見張りでうようよしていた若い男達から何から…とにかく、柳枝会の者と思われる奴ら全員が一斉に、まるで蜘蛛の子を散らしたように、逃げ出し始めたではないか。

 遠くからサイレンの音も聞こえ始めた。警察車両が近づいているのだ。

「さて。」

 騒然とする内部をしり目に、イサークは手をパンっと叩いて颯爽と立ち上がった。「今日のところはこれにて、おいとましましょう。」





 こうして、イサーク達は悠々とその外ナンバーに乗って、現場をあとにしたのである。






 しかし、入谷は見逃さなかった。


 走り去る車の中でイサークの表情が一瞬、ぐしゃりと歪んだことを。


 おそらく、警察車両が来たのが予想よりはるかに早かったのだ。


 ひょっとすると、まさか来るとは思っていなかったのやもしれない。





(今に見ていろ…)


 入谷は表情を変えることなく、その車を見送っていた。



 今に見ていろ…。



 これが、お前達の、転落のはじまりだ。






本章の冒頭に出てきていた窓ふきの小柄な男は…


まどかちゃんです。

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