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第十三章(上)

(2021/10/07 改稿:冒頭に追加があります。大筋に変更はありません。)

 7月半ば。

 あの文書に目を通した荒松の対応は、それは素早いものだった。

 まず畑野、雪乃の二人には大河内製薬の監視を中止させ、大阪は豊中にある、在大阪ロシア大使館に切り替えさせた。イサークら5人が、ここをアジトにしている可能性が高かったからだ。

 もちろん、その前に二人からそれまでの進捗と意見を聞き入れた上での判断だったことは、言うを待たない。

 そして、入谷と恵には、奈良は斑鳩にある、大河内製薬の研究所へ向かわせた。

 例の女からの報告によると、ここのところイサーク自身は急に鳴りを潜め、大河内製薬に関する諸々は例の5人のうち2人だけを残してあとは柳枝会の者に任せているという。正直気味が悪い。

 …が、荒松は確信していた。


 …次の奴らのターゲットは間違いなく、ここ奈良だ。


 理由は3つある。

 一つ目は6月にあった、奈良での研究所襲撃にあった。

 実はこの時、奴らは失態を犯している。

 強奪できたのは、薬の現物100mgと原料の黒水仙の苗、一鉢、のみ。

 アリシアの治験データを含む、実験データの強奪には失敗していたのである。

 …奴らは、おそらくそれを取りに、奈良に戻ってくる可能性が高い。と、荒松は直感した。

 二つ目。それは奴らの目的の一つに、『一刻も早く黒水仙を培養させてBlack Narcissusを大量に抽出させ、脱法ドラッグやドーピング剤として精製、流通させお金にすること』というものがあるということだ。背後には国家の影も透けて見える。

 そのためには、奈良ここの研究員の存在は必要不可欠なはずだ。なぜなら、奈良にはBlack Narcissusについての知識を有する研究者が在籍しているのだから。そのためには、彼らを拉致するか、奈良を乗っ取ってしまえば話が早い。

 そしてとどめの三つ目が、もう一つの奴らの目的だ。

『ドラッグの製造、加工拠点を手に入れること』。

 特に、合成大麻。大麻樹脂の精製は、専用の溶剤や、特殊な機材が必要になる。ここにはそれが、丁度良い規模の小ささで揃っているのだ。

 さらに、地の利もある。この研究所、近隣は山に囲まれ、付近には人気ひとけが無い。うまい具合に寂れているのだ。

 


(奴さんたちは、近々あそこを乗っ取りに、もう一度強襲してくるわえ…)


 これであった。



 さらにこの後荒松は、上層部の金枝昭一に、とある依頼をかけていた。

 荒松の推察が正しければ、金枝も重要な情報を手に入れてくれるハズだ。

 そしてまどかはここのところの出来事を報告書にまとめてもらいつつ…普段通り、高校に通っている。まもなく、いつものセーラー服姿で本部ここへ来るハズだ。

 荒松は眼鏡を外し、二週間前からの一連の出来事について、思い出していた……。




 …もやしが丸眼鏡をかけている。

 市村いちむらてるに会った、まどかの第一印象が、これであった。

 大変、失礼である。

 それほどに、彼は色白で細い体格だったのだ。

 荒松、まどか、そして市村光は、菅原隆正が出向している大河内製薬の子会社の応接スペースにて、引き合わされた。

 当然、隆正も同席している。

 荒松とまどかがその応接スペースに入ると、市村は立ち上がって、頭を下げた。そして、

「あなたが北島まどかさんですか…。」

 と、握手を求めた。

 まどかが頷くと、「この度は、大変でしたね。よく、玲奈さんを…。」と、まどかの小さな体躯たいくを見下ろした。


「話は、伺いました。」

 市村は開口一発、「あの時菅原研究室で何があったか、ということと、菅原先生の下にいた、学生の行方を探しておられると…。」

「ええ。」

 荒松が応じる。

「一つ、聞いても?」

「どうぞ」

「何故、ここまでお調べになるのです。」

「…。」

 荒松は沈黙した。

「確かに、菅原先生の捜査が不当に打ち切られた事は自分も憤りを覚えます。しかし、それだけのためにここ高知までやってきて話を聞こうとされる…尋常じゃありませんよね。何が目的なのか、教えていただきたい。」

「ふむ…。」

 荒松はうなった。

 流石に、切れる。いかにも、元売れっ子研究室の懐刀といったところか。

 改めて、市村の顔を見る。

 その気弱そうないでたちはとんだまやかしだ。その目は何かを守らんとする確固たる意思と、強い警戒が見て取れる。

(少し、こちらも開示した方が良さそうじゃわ…)

 そう心を固めた荒松は、口を開いた。

「まず、これは小さいころにわけあって引き取った、娘も同然の子でしてな。」

 荒松は言うと、まどかのおかっぱ頭をなでた。

 まどかは照れくさいのか、むずがゆそうにしている。

「しかしわしも歳なもんで…恥ずかしながらもう60もとうに超えておりましてな…、旧友にたのんで、今は北島姓を名乗っておるのですが、その前…つい最近まで、この子の姓は『荒松』でした。

 それが今回の事が起き、よく分からん尾行はつき、この子の精神もずいぶん擦り減りましてな。

 菅原さんから伺っておられるかどうか分からんのですが、わしは探偵業をやっておったもんですから、一体何事かと思ったのと、ともかく彼女これを危ない目に遭わせるわけにはいかなんだので、ひとまず調べてみることにしました。それがまずきっかけですわな」

 荒松の話に、市村は耳を傾けている。

「そうしたら、あの事件の捜査は事故でうやむやに処理されておるわ、玲奈さんご家族もおらんようになっとるわ…貴方がた菅原研究室の学生たちも全員行方不明になって、岩田さんは亡くなっておるわ…これはただごとではないと思いました。市村さん。実は、儂らは貴方の親御さんにもお会いしておるのですよ。」

「…なっ…」

 市村の目が驚愕に見開かれた。

 荒松はここで、一枚の写真を出してきた。

 そこには、まどかと入谷、おしてその向かいには白髪の混じった小柄な女性が、ソファに座ってカメラの方を見て、写っていた。場所は…どうやら、リビングのようだった。

「あれは先々月だったか。」

 荒松はまどかを見ると、まどかはこっくりと頷いた。

「富樫助教とお会いした帰りに、貴方のご実家にも立ち寄らせてもらいました。ご実家、釧路でいらっしゃるんですな。」

 富樫助教、とは菅原隆義教授の下にいた助教だ。現在は当時の助手、二人と共に北海道の友人の会社で土壌改良の提案をしたり、品種改良の研究を手伝ったりしている。

「お母様、心配しておられました。」

 まどかがここで口を開き、「これ、預かってたお手紙です。お会い出来たら渡して欲しいと。こちらは大丈夫だから、連絡が欲しいと仰ってました…」

 それは真っ白な定型サイズの封筒だった。表に市村光様と、綺麗な字で書かれている。開封されたような形跡は無かった…荒松ら実行犯は、誰もこの手紙を開封しなかったのだ。

 市村は絶句した。宛名の筆跡はどう見ても、母親のそれだった。

「そこで、ご両親からも貴方の行方を探して欲しいと正式にご依頼をいただきまして…また、他の学生さんの親御さんからも同様に依頼をいただいたものですから、ここにこうして参っておる次第です。」

 実は、これは本当である。

 市村の母親からどうも連絡が回ったようで、5月の半ばごろだったろうか…亡くなった岩田綾子を除く、残る三名の学生のご両親や親戚筋から、立て続けにお電話を貰っていたのだ。

 市村は手紙と、その写真に目を落としていた。手にはこぶしが握られている。逡巡と動揺が、見て取れた。

 荒松もまどかも、そして菅原隆正も、その様子を黙って見守っていた。




 どのくらい、間があったろうか。

 市村が読み終えたらしきその手紙をゆっくりと下ろし、机に置いた。

 まどかは張り詰めた空気に肺が押しつぶされそうになったが、実際は数分だったらしい。


「…分かりました。」

 市村はうなだれていた顔を上げ、その声を絞り出すようにして、「僕が知っている限りの事を話しましょうか…」



 これが、あの事件の真相への扉が開かれた、正にその瞬間だったのである。


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