第八章
気が付けば、6月も半ばを過ぎていた。
関西は、もう夏本番だ。
瀬戸内の夏はとにかく、蒸し暑い。
関東や東北とは全く違う質の、それなのだ。
まず、空気が動かない。風が無い。大阪湾から沸く水蒸気がそのまま、滞留してしまう。おそらく、北側は山がすぐそばに迫っているのと、南は南で四国山脈やら淡路島やらに囲まれてしまっているのに起因しているのではないかと思う。
なのでこの頃ともなると昼は余裕で真夏日。下手をすれば夜も熱帯夜だ。
そんなわけで、まどかはすっかり、油断していた。
(…さっ…寒っ…)
飛行機を降りると、まだそこは関西の3月頭くらいの空気だったのである。
そう。
ここは北海道、千歳空港。
冷たい雨。20℃くらいしかない気温。
半袖はまどか一人だ。
「だから言ったでしょうが。」
となりで入谷があきれている。
まどかは胡乱な目を入谷に向けながらすごすごと…カーディガンをはおった。
数刻後。
すっかり北海道ドライブを地図片手に楽しんでいたまどかだったが、その扉からあらわれた一人の男性を前にした途端気を引き締めていた。
「いやぁ、今日はこんな中ありがとうございます。昨日までは暑かったんですが、急に寒が戻ってきちゃってね。」
そう言ってまどかに話しかけるこの男。
彼こそが、富樫雅也元助教、その人であった。
「長谷川教授から伺ってます。大変な事になっているようですね。まさか、岩田君が亡くなっていたとは…」
富樫から笑顔が消え、深刻な顔を入谷に向けた。
(…隆義おじさんに似てるわこの人…)
まどかはおもった。
表情の代わり具合と、裏表のなさそうな印象が、それを感じさせるのだ。
「…これで、一連の事件で亡くなったのは四人です。いずれも事故や自殺などとなっていますが、実際はおそらく…。」
入谷は富樫を見据えた。
「警察がもみ消していると伺いました。本当ですか」
富樫は、信じられないようだった。
「こちらは、当時の捜査に当たっていた現場の方からの内部告発も受けています。間違いないものと…」
入谷はしれっとハッタリをかました。
「…なるほど…。こちらとしても、残る四人の行方が気がかりです。僕たちで良ければ、協力しましょう。」
頼もしく、うけ合ってくれた。入谷は安堵した。
雨は、なかなか止む気配を見せなかった。しとしとと、富樫達三人の居るプレハブの建物を叩いている。
まどかは、辺りを見回した。
どこにでもある、事務所のようだった。
聞くと、富樫は現在友人のつてを頼り、ここで農産物の品種改良、土壌の質回復のための研究開発をしているのだという。
「ここから見える畑、全部会社の敷地なんですよ。彼とは大学の同期だったのですが、いやぁやる事が大きくてね。最初来たときはびっくりしたもんです。」
作業服に身を包んだ富樫は笑った。
「…長谷川先生から伺いました。向こうでは奥様と息子さんが…」
「ええ。大変でした。深夜自宅の前に常に人がうろつかれたり、車に連れ込まれそうになったりもしたようです。」
「…は???」
それ、普通に誘拐未遂ではないか。
「それ、いつごろですか?」
入谷も知らなかったらしい。目が驚きで見開かれている。
「菅原先生が亡くなった次の日です。」
富樫は言って、「その晩に警察に駆け込んだのですが、『その時のことを誰か見ていましたか?』『映像は残っていますか?』ときて、『それが無いようなら我々は動きようが無い。気のせいではないですか?宜しければ言い精神科医を紹介しますよ。』と、こうです。なしのつぶてでした。」
入谷は思わずまどかと顔を見合わせた。
そんなことがあり得るのだろうか。
通常、そのような申し立てが警察署においてなされた場合は、どのような内容であれ受理するものではないだろうか。
ここに来て、入谷もまどかも同様の事を感じていた。
(警察が、あまりにも菅原氏周辺の事に身を引き過ぎている…)
これである。
「…それでその次の日でしたね。彼から電話が来たのは」
「彼。」
「同期の、ここの社長をやってる相澤君です。びっくりですよ。実は『菅原先生から連絡をもらっていて、万が一自分の身に何かあったら、研究生の皆をかくまうことは可能かと頼まれていた。大丈夫か。』というんですよ。それでこっちの状況を話したら、『やっぱりな。すぐ来い。引っ越し代やら何やら出してやるから。』と…。それで、うちの助手ともども、すぐに移ったのです。今から思えば、正しい判断だったのかもしれません。まったく…彼には頭が上がりませんよ」
「…全くその通り、ですね…。」
入谷は誰にともなく言い、「…それで、他の研究生の方との連絡はつきましたか」
富樫は力無く、首を横に振った。
八方ふさがり。
のようだったが、収穫もあった。
結論から言うと、この二文に尽きるだろう。
まず、警察の捜査資料にあった"菅原研究室が管理していた温室の中にあった、明らかに人の手で何かを掘り返した痕跡"。
掘り返して処分したのは、菅原研究室の研究生たちだった。
富樫らも、参加していたという。
「…えぇ。ご存知とは思いますが、実験棟にあった研究途中の苗と、実験データ、ノートもですよね。アレを全部廃棄したのは僕たちです。先生の指示で、やりました。ただならぬ気配だったもんですから、先生には何度もワケを聞いたのですが、『コレのせいで、大勢の人が苦しむことになる。理由はあとで話すから』の一点張りで…。それで、結局その日の夜に先生は…。」
「…その、廃棄した苗と、研究とは…?」
仰れる範囲で結構です、と前置きして入谷は聞いた。
富樫は一瞬躊躇したようだったが、口を開いた。
「…あそこに植わっていたのは、新種の黒水仙です。」
「黒、水仙…?」
聞きなれない名前に、まどかはおうむ返しになった。
「えぇ。」
富樫は頷き、まどかを見た。「スイセンは、ご存知ですよね。あれは元々、自然界には白と、真ん中が黄色。または全体が黄色というのが一般的なんですが、黒い花びらを持つものは存在しないんですよ。それが、研究の結果発現に成功したんです。世界初…ですね。僕たちは元々、遺伝子組み換えの研究を主にやってまして…アレも、たまたま生まれたんです。」
それは、凄い。とまどかは素直におもった。
「たまたま…と仰るということは、当初別の目的だった」
「そうです。元々は、香料の開発が目的でした。ご存知でないかもしれませんが、スイセンって昔から香水の原料に用いられてたんです。で…この時の研究目的は、その香料の収量を上げるというものでした。しかしあの黒水仙は、香りも少ないし、質も良くなくて…。まあ失敗作だったのですが、世界初の花の色でしたからね。合同研究先の企業には報告をしたようです。本当なら菅原先生としては論文も出したかったようなのですが、けんもほろろに断られて、がっくりしてました。」
「それをなぜ、捨てさせたのでしょうか。」
入谷はどんどん核心を突いていった。
「そこなんですよね…。正直、あの黒水仙を発現させるまでにもかなりの日数、期間。お金。労力をつぎ込んだはずです。それを実物だけでなくノートとデータまで廃棄させるなんて…ありえない。考えられないですよ。身を切られるようなもんです。理由ですか?…分かりません。ただ、直属の五人か、企業さんは、何か知っていたかもしれません。」
「その合同研究の企業というのは、どちらかお分かりになりますか?」
「レビア化粧品です」
レビア化粧品とは、また結構な大手だ。
「その黒水仙の発現に成功したのは、いつ頃ですか?」
「去年の…11月ごろだったと思います。」
99年の11月。
「その言いぶりですと、ひょっとして富樫さんは…」
「えぇ。僕がメインで携わっていた研究ではありません。市村君です。当時博士後期課程一年だった、市村光君。」
「その方の連絡先は…」
「…いいえ。残念ながら。僕も待っているのですが…。携帯にもかけてみたのですが、どうも解約したようで…。」
それでも、何かわかるかもしれない。
入谷は念のため、当時菅原研究室に居た五名の当時の連絡先を全て、入手した。
「ちなみに、その企業の報告って、どのくらいの頻度でやってたんですか?」
入谷がそれらを書き留めている間、まどかは聞いてみることにした。
「あの頃は月一回でしたね。かなりの高頻度で足を運ばれていましたよ、向こうの担当の方は。しかも途中から何故か、親会社の方もいらしてて、かなりピリピリしていたようでした。市村君が愚痴っていたので、覚えています。」
「…親会社。」
まどかはおうむ返しに言った、その直後だった。
「…えぇ。レビアさんは、大河内製薬の完全子会社なんです。」
まどかの心臓が、雷のように轟いた。
「その親会社さんは、何故急に出てこられたんでしょうね。」
書き留め終えたらしい入谷は、流石にポーカーフェイスだった。
「…分かりません。何か成分が出たからなのかもしれないのですが…。僕も、この頃からほぼ独立して、下の指導にあたっていたりしてたので…。追い切れてはいなかったんですよね。」
富樫は、その太い眉尻を下げた。
「…なるほど…。ちなみになんですが、その黒水仙は、では今は一本も、この世には無いということですか?」
入谷はまた、ずばずばと切り込んでいく。
「それも…断言は出来ません。合同研究ですので、試料…苗本体ですよね…の提出を求められたら疑いなくお出ししますからね。レビアさんか、大河内さんの手元に渡っている可能性は全然あります。」
富樫は言った。
入谷は黙り込み、思案した。
「富樫さんは、『菅原教授が、この黒水仙のために殺された』と思いますか?」
まどかは何でも聞いてみることにした。
「…うーん。分からないな。」
富樫は、まどかが玲奈の同級生ということもあってか、敬語をやめることにしたようだ。「普通は、考えられないよねぇ。あの研究は、他の研究と同じように、同じ姿勢で取り組んでたものだったと思うし。少なくとも僕にはそう見えてたよ。でも、タイミングが凄すぎるよね…ご本人、ご家族。しまいには近所の人、研究生まで犠牲者が出ていたり、玲奈ちゃんを助けた君までこんなことになってさ…。何かあるのかもしれないけど…分からない。」
「大河内製薬さんから連絡とかってあったんですか?その、今までもですけど。富樫さんたちって、たしかあの事件があってから三日間くらい、あの研究室にいらしてたんですよね。」
「いや。それが全然。水を打ったように、静かなもんだった。あの三日間、僕ら三人で物品やら試料やら、薬剤やらの片付けや処分にあたってたんだけど…ほら、菅原研が解散になった関係で、あの部屋は明け渡さないといけなくなったから。
…それでやってたんだけど、電話は一本も鳴らなかったんじゃないかな。
でも研究室の子達は誰も出てこないでしょう?連絡も全員取れなくなってるし。退学届をすぐ出した子も居て、しまいにはカミさんから車に連れ込まれそうになったって(連絡)来て、これはただ事じゃない、ってなってね。もう三人共、大変な三日間だった。」
「それは…無茶苦茶ですね」
「でしょう?」
「では、富樫さんが指導されていたお二人は今、こちらにいらっしゃる。」
入谷が、ようやく参加してきた。
「えぇ。一人はさっきコーヒー持ってきてくれた…彼女がそうですね。速水明子さん。もう一人、菊池亮君は…今ちょっと土壌の測定作業やってますけど、もう直ぐ帰ってくるはずです。」
「お二人からお話伺っても大丈夫ですか」
「えぇ、そのつもりでした。ちょっと呼んできても?」
富樫は立ち上がった。
「ありがとうございます。」
二人は頭を下げた。
この後、入谷とまどかの二人は富樫元助教の下に居た当時の研究生(速水明子、菊池亮)からも話を聞くことが出来た。
二人の証言も、富樫と似たり寄ったりの内容だったが、収穫もあった。
菊池亮が事件の前日、菅原教授が電話口で何者かと口論になっているのを目撃していたのである。
「この研究は今日限りとさせてもらう、とか、全部処分しますからね、とか仰ってたので、なんだかただごとじゃないな、ってのと、相手は合同研究先の会社かな、でもどこだろう、って思ってましたよね。そしたら、その翌日になって急に全員集められて、レビア化粧品さんとの研究を打ち切ることになった、あの黒水仙はあってはいけない物だから、焼却処分して欲しいと言われまして。で、あぁあの喧嘩の相手はあの会社だったのかと…。」
「すごい剣幕だったよねあれ。菅原先生って、ただでさえ声が大きいから、私もびっくりしちゃって。」
どうやら速水明子も、その場に居合わせていたらしい。
「具体的に、どういった事を仰ってましたか?」
入谷の質問に二人は顔を見合わせ、「何言ってたっけ…?」「やー…もう四か月も前だし…」とやっていたが、
「なんか色々とまくし立ててましたよ。人としての倫理がどうとか、うちはいくつも契約取ってるんだ、君たちが打ち切られたところで云々とか。」
速水の言に菊池も頷いて、
「あっちゃん。あとアレだよ。人体実験がどうとか言ってたじゃん」
「あー!言ってた。ぎょっとしたよねあの一言。」
まどかは思わず入谷と顔を見合わせた。
その夜。
札幌まで戻ってきたまどかは一人、ホテルのベッドに倒れこんでいた。
すっかり疲れ切っていた。
(隆義おじさん達は、やっぱり黒水仙のために殺されたんやろか…)
もやもやと考える。
(…いやぁ…ワケ分からんし)
これである。
しかし、亡くなる前日の、大河内側の担当者とおぼしき者との口論。
まどか本人の周囲をうろつきまわっていた探偵の依頼人も、大河内製薬の役員だった。
菅原研究室配下の学生達の、相次ぐ失踪。
関係する人だけで、亡くなった人は四人に及ぶ。まだ増えるかもしれない。
今日、菅原隆義と大河内製薬が研究でつながっていることが分かった。これは大きな収穫だった。
しかし…。
何か…。
(…足りん…)
かなりの大事がまだ、隠れている。
大河内製薬に。
(…まぁ、ええわ。今日のところはどうにもならん。)
眠気が勝った。まどかはシーツをひっかぶった。
しかし、その眠りと、
第四班の考えていた、"大河内製薬黒幕説"は、
この数分後まどかにかかってきた、たった一本の電話で、ぶち壊されることとなる。
まどかは寝ぼけた顔で、うるさく鳴り響くその携帯を手に取った。
そしてその表示に、一気に目が覚めた。
そこにはこう、表示されていた。
"菅原 玲奈"
まどかは飛び起き――通話ボタンを、押した。




