灰色の鎖
冷え切った地下牢の石床から、容赦なく体温が奪われていく。
手首に嵌められた鋼鉄の枷が、擦れた皮膚に食い込んで鈍い痛みを放っていた。ジャンは荒い息を吐き出しながら、濡れた泥と血にまみれた前髪の隙間から暗がりを見上げた。
前線での戦闘は、一方的な蹂躙だった。
人間軍の前哨兵として森へ踏み込んだジャンの小隊は、エルフの放つ一本の矢、ドワーフの仕掛けた一つの落とし穴すら見抜くことができず、ものの数分で壊滅した。圧倒的な知力と環境の支配力を持つ亜人種にとって、泥臭く足音を立てて進む人間を狩るなど、児戯に等しかったのだ。
後方輜重隊にいた妹のセリアと共に捕らえられ、引きずり込まれたこの地下牢で、ジャンはすでに自らの死を覚悟していた。
「――酷い顔だな、人間」
静寂を破ったのは、鈴の音のように澄んだ、だが酷薄な響きを持つ声だった。
鉄格子の向こうから現れたのは、長身のエルフだった。銀糸のような長髪を編み込み、仕立ての良い衣服をまとったその男――亜人連合の軍師ナディルは、まるで汚物を検分するかのような侮蔑を込めた目でジャンを見下ろしている。ナディルの背後には、重厚な革鎧を軋ませる屈強なドワーフと、影のように音もなく立つ小柄なホビットが控えていた。
「殺すなら、早くしろ」
ジャンはひび割れた唇を開き、濁った声を絞り出した。
「お前たち亜人の知恵なら、捕虜をいたずらに生かしておくのがどれほど食料の無駄か、計算できているはずだ」
ナディルは細い眉をわずかに上げ、冷笑を浮かべた。
「知性の低い獣にしては、多少の損得は理解できるようだな。だが、無駄かどうかを決めるのは我々だ」
エルフの細く長い指先が、懐から小さな布切れを取り出す。そこから転がり出た銀の指輪を見て、ジャンの心臓が跳ね上がった。母の形見として、セリアが肌身離さず首から提げていた細工の荒い指輪だった。
「……セリアに、何をした」
「今はまだ、何も」
ナディルは指輪を弄びながら、平然と言い放った。
「彼女は生きている。だが、お前が我々の問いにどう答えるかによって、その首が胴体と繋がり続けるかどうかが決まる」
「貴様ら……!」
激昂したジャンが立ち上がろうとするが、重い鎖が耳障りな音を立てて彼を石床に叩きつけた。後ろに控えていたドワーフが、戦斧の柄で無造作にジャンの脇腹を突く。肺から空気が押し出され、ジャンは激しく咳き込んだ。
ナディルは一歩前へ進み出て、格子の隙間から冷たい視線を落とした。
「お前たちの軍――アイゼン砦に集結している人間どもが、何やら大規模な仕掛けを企てている。我らの森を一網打尽にするための、薄汚い術策をな」
「……知るか。俺はただの前哨兵だ。上層部の作戦など知らされていない」
「知らぬなら、戻って調べてこいと言っているのだ」
ナディルの言葉に、ジャンは凍りついた。
「お前を『奇跡的に生還した敗残兵』として、アイゼン砦へ逃がしてやる。お前の仕事は一つだ。人間どもが何を準備しているのか、その陣形図と機密を暴き、持ち帰ること」
影の中にいたホビットが、口元を歪めて忍び笑いを漏らし、泥で汚れた人間軍の認識票をジャンの目の前に放り投げた。
「砦へ戻り、仲間を売る。そうすれば妹さんは無傷で返してあげますよ。もし裏切って密告すれば……あの可愛らしい妹さんが、エルフの森の肥やしになるか、ドワーフの溶鉱炉で灰になるか。お好きな方を選べます」
逃げ場のない脅迫だった。
人間軍にとって亜人に捕まった者は汚れた存在であり、妹が囚われていると知れれば助けるどころか裏切り者として処刑される。亜人に逆らえば、セリアは今すぐ殺される。
ジャンは血が滲むほど強く奥歯を噛み締め、床に落ちた認識票を拾い上げた。
「……分かった。やればいいんだろ」
ナディルは満足そうに口の端を吊り上げた。
「賢明な判断だ。……出立の前に、妹の顔を拝ませてやろう。それが貴様にとって、最後の救いになるか、余計な呪いになるかは知らんがな」




