10 エクス・リドル 2
色彩を取り戻したフェンリル像は、あろうことか、閉じていた目をゆっくりと開いた。
深い海を思わせる、あざやかなロイヤル・ブルーだった。
(なんてきれいなの……)
思わず見惚れてしまうほどだ。
「水を飲ませてくれないか。できれば、イルドの果汁を入れたものを」
少し低めの、澄んだ声が響く。特にお願いするといった感じではなく、ただ望みを伝えただけというような、静かで落ち着いた話し方だったが、そこには何か威厳のようなものが感じられた。
「はい、すぐに用意します」
ルナリアは水差しからグラスに水を注ぎ、イルドの実をしぼって加えた。
グラスを渡すと、彼はひと息に飲み干した。
そして、さらにグラス一杯の水を要求し、それを飲みながら、イルドの実をまるごとかじった。
食欲は旺盛らしく、かごに積まれたイルドの実がどんどん減っていく。
「これはいったい、どういうことだ?」
固まっていたヴァンレードがようやく言葉をしぼりだした。
「まさか、本物のフェンリルなのか」
「そうだと思うわ」
「じゃあ、あれは木彫りの像じゃなくて、〝エクス〟の干物だったのか?」
「その言い方はあんまりよ」
ルナリアがたしなめたが、ヴァンレードの発言はフェンリルの耳にも届いていたらしい。
「わたしは干物ではない」
彼は怒ったように言った。
「小さなリドルたちといっしょにしないでもらいたい。彼らは水がなければ二日ともたないかもしれないが、わたしは違う。少しずつ水を断って体を慣らしていけば、全身が〝樹化〟して自然に眠りにつくことができるのだ」
「あの姿を〝樹化〟というんだな」
ヴァンは感心したように大きくうなずいた。
「それはすまなかった。あらためて自己紹介をしよう。俺はヴァン。それから、こちらが……」
「ルナリアです。ルナと呼んでください」
「わたしはフェンリルという。ところで、ここはどこだ?」
「ロイス王国の王宮だよ」
「今はティリス王の治世か?」
「いや、それは俺の祖父だな。現在は異母兄のクラウド二世が国王だ」
「おまえは王弟殿下というわけか」
「ああ。不本意だが、そうなるな」
(そう言えば、王家の姓はロイスよね。でも、彼はシグルスと名乗ったわ……)
ルナリアは今さらながらそのことに気づいた。
彼が婿入りすると簡単に口にしたことに対して、ずいぶんと軽率なことを言うと思っていたが、もしかしたら深い事情があるのかもしれない。
フェンリルもそれを察したのか、
「複雑そうだな」
と言っただけで、それ以上、何も聞こうとはしなかった。
「ところで、どうしてずっと眠っていたんだ?」
「好きで眠ったわけではない。トゥーリア王国との戦で主が亡くなり、わたしは敵に捕らわれた。これからは自分たちに仕えよと強制されたので、仕方なく水を断ったのだ」
「その戦のことなら聞いている。最終的にはロイスとラースの連合軍が勝利したが、双方ともおびただしい数の戦死者を出すことになってしまったと。トゥーリアとはもう何年も、友好とまではいかないが、休戦状態を保っているよ」
「なんだ、あのような国はとうに滅びたかと思っていたのに」
フェンリルは不満そうだ。
「あやつらの言いなりになるのは我慢ならなかった。そこで、体を慣らす時間もあまり取らず、早々に水断ちをした。死ぬかもしれなかったが、それでもかまわないと思っていた。だが、このように生き伸びて、再び目覚める日が来ようとは……」
感極まったのか、フェンリルは遠くを見るような目をして口をつぐんだ。
ルナリアも主を失った彼の孤独を思い、目を潤ませた。
だが、ひとりだけ、その場の雰囲気にのまれることのない男がいた。
「〝エクス〟が特別なリドルだってことはわかったよ。とりあえず、何か着るものを持ってこよう」
いたって現実的な発言をすると、ヴァンレードは足早に部屋を出て行った。
(いろいろと気を使ってくれるのはありがたいけど、もう少し空気を読んでほしいかも……)
釈然としない気持ちでいると、フェンリルが手招きをしている。
(何かしら?)
疑問に思いつつ近づくと、彼はルナを自分の前に座らせた。そして、無言のままいきなり抱き寄せ、首筋に顔をうずめた。
「‼」
衝撃のあまり、ルナは頭が真っ白になった。
「な、何するんですかっ⁉」
叫びながら逃れようとするが、力強い腕はびくともしない。
相手がリドルだという認識はあったが、人間の男と変わらないように思えて怖くなった。
もっと大声で助けを求めようかと思った時、ようやく彼が解放してくれた。
「そう騒ぐな。わたしは人間ではないのだから、おまえを襲ったりはしない」
涼しい顔でそう言われ、ルナの怒りは瞬時に頂点に達した。
「そういう問題じゃないっ。むやみに女の子の体にふれたらダメでしょ。しかも、いきなり抱きつくなんて最低よっ‼」
「すまなかった。怒らせるつもりはなかったのだ」
フェンリルは驚いたように言った。
「ただ、少しばかり確かめたいことがあったのだ」
「なんのこと?」
「先ほど意識を取り戻した時、えもいわれぬ芳しい香りがした。わたしが目覚めたのはおそらく、その香りのせいだろう。そして、おまえが体を拭いてくれている間、ずっとその香りが消えなかった」
「それは……」
「初めは花とも果実ともつかぬ、爽やかで優しい匂いがして、最後は陶酔を誘うような、深い甘美な香りが余韻を残す」
フェンリルは微かに笑みを浮かべながら、ルナをみつめた。
「それはおまえの体から発せられるものだ」
「違います」
考える間もなく、反射的に言葉が口をついて出た。
「あの、それはきっと、香水の匂いで……」
ルナはしどろもどろになりながらも、あくまで否定しようとしたが、フェンリルは首を振った。
「違うな。他の者ならそう思うかもしれないが、わたしにはわかる。それはイルドの蕾が開く時、ほんの数分の間だけ発する香りに似ている。開花の瞬間に居あわせ、幾度となくその匂いを吸い込んだことのある人間だけが、その身に同じ香りを宿す。おまえには心当たりがあるはずだ」
そうまで言われては、ルナリアもうなずくしかなかった。
「……はい」




