第23話 犬
情報集めの会を出てから、しばらく街を歩いた。
海沿いの道は、相変わらず空気が軽い。
内陸の工業地帯から流れてくる煙も、ここまでは届かない。
海風が、全部押し戻している。
「……悪くない街ね」
そう呟いた直後だった。
端末が震えた。
知らない番号。
またか。
「もしもし」
返事はない。
代わりに、短いメッセージが表示された。
『路地へ来い』
「……ずいぶん偉そうね」
もう一通。
『一人で来い』
「はいはい」
こういう誘いに乗るのも、探偵の仕事だ。
少なくとも、相手が何者なのかくらいは分かる。
指定された場所は、海から少し離れた工業区画だった。
人通りがない。
店もない。
建物の壁には古い広告が貼られている。
ところどころ剥がれていて、何の商品だったのかすら分からない。
あたしは路地へ入った。
数十メートル。
誰もいない。
さらに進む。
やっぱり誰もいない。
「……誰もいないじゃない」
その時、路地の奥に、犬がいた。
一匹。
黒い犬。
大型。
こちらを見ている。
首輪もない。
ただ――
動きが妙だった。
呼吸していない。
尻尾も振らない。
目だけが、こちらを追っている。
「バイオロイド?」
瞬きを抑えて少しずつ近づく。
犬は逃げない。
あたしは犬の目の前でしゃがむ。
「あなたが呼んだの?」
犬が口を開いた。
「そうだ」
「……」
あたしは立ち上がった。
「喋った」
「喋る犬くらい、今時珍しくないだろ」
「いや」
あたしは犬を見る。
「犬が自分から待ち合わせ場所を指定するのは珍しいと思う」
「それもそうか」
犬は座った。
「まあ、立ち話もなんだ。そこにいろ」
「あなたが立ってないでしょうに」
「俺は犬だからな」
「そうね」
妙に話が通じる。
それが余計に怪しい。
「あなたが、あたしを呼んだの?」
「そうだ」
「何者?」
「モヒカン」
「……」
あたしは犬を見る。
黒い毛。
当然、モヒカンではない。
「どこにいるの?」
「意外と近くにいるものさ」
「近く?」
「そう」
犬は前足を舐めた。
「ただな」
顔を上げる。
「面白い人が俺のことを探しているって聞いてな」
「それ、どういう事?」
「まず、あんたに聞きたい」
犬の目が細くなる。
「あんた、どこと組んでるんだ?」
「……」
「俺はあんたに関する情報を追ってみた」
「それで?」
「なぜか、ことごとくアクセス拒否される」
犬は首を傾けた。
「普通の回線だけじゃない」
「ほう」
「迂回もした」
「それでも?」
「拒否」
「別のネットワークは?」
「同じ」
「普通じゃない回線もな」
あたしは眉を上げた。
「ずいぶん調べたのね」
「仕事だからな」
「それで、何が分かったの?」
「分からない」
「……」
「分からないから面白い」
犬が笑った。
犬が笑う?妙な光景だ。
「ちなみに、あたしは眷族になった覚えはないんだけどね」
「そうだろうな」
「だったら何?」
「そうじゃないと思う輩がいるわけだ」
「誰が?」
「それはまだ言えない」
「またそれ?」
「情報屋ってのは、そういうもんだ」
「あなた、情報屋なの?」
「そういうことにしておこう」
「ずいぶん曖昧ね」
「世の中、曖昧な方が長生きできる」
「そう」
あたしは壁にもたれた。
「じゃあ、こっちからも一つ」
「何だ?」
「ある情報について追っている」
「ほう」
「その依頼主が、半端ない奴らってことかな」
犬の耳が動いた。
「……まあ」
「否定しないのね」
「否定する理由もない」
「なるほど」
少し沈黙があった。
海から風が吹く。
犬の毛が揺れる。
「あんた」
犬が言った。
「眷族ねえー」
「何?」
「吸血鬼に首筋でも噛まれたか?」
「……」
あたしは笑った。
「あたしにそんな事をできる吸血鬼ね……」
少し考える。
「どこにいるのかしら?」
犬が黙っている。
「一度はお目通りが叶うものかしら」
「さあ、どうだろうな」
「あなたにもわからない?」
「分からないことだらけだよ」
犬は空を見た。
「だから世の中面白い」
「そうね」
あたしは犬を見る。
「犬も喋る時代が来るとはね」
「世の中わかりすぎて、行方不明になるやつもいるっていうのに」
「何それ」
「ある天才の話だよ」
「……」
その言葉で、少しだけ空気が変わった。
「天才?」
「ああ」
「どんな?」
「いろいろだ」
「それじゃ分からない」
「機械を見ただけで、壊れてる場所が分かる」
あたしの目が細くなる。
「……」
「直すこともできる」
「それは――」
犬が続ける。
「壊すこともな」
あたしは少し考えた。
「もしかして」
一つの人物が頭に浮かんだ。
「ゴーグルかけた飛行機乗り」
犬の耳がぴくりと動いた。
「ゴーグル?」
「あんたもやつを?」
「まだわからない」
犬はそう答えた。
「けど、ちょっと引っかかる情報ね」
「そうかい」
犬はそれ以上、聞かなかった。
その態度が逆に気になった。
「あなたは、その人を知ってるの?」
「知らない」
「本当に?」
「知らないことだらけだよ」
さっきと同じ答え。
でも、今度は少しだけ違って聞こえた。
犬が立ち上がった。
そこで犬に声をかける。
「ちょっと提案があるんだけど」
「ん?」
「あなたに見せたいものがある」
「ここはだめだ。こっちへ来い」
犬が路地の奥へ歩き出す。
あたしもついていく。
数歩進んだところで、犬が振り返った。
「おっと」
「何?」
「そんな不用心な所で服なんか脱いじゃいけない」
「何言ってるの?」
犬が笑った。
「ジョークだ」
「……」
あたしは呆れた。
「犬がそんな冗談言う?」
「悪いか?」
「いや」
少し笑う。
「嫌いじゃないわ」
「お望みなら?」
「なに?」
「もっと言えるが……」
「そうなの?」
あたしは笑った。
「あんた、ちょっと気に入った」
犬も笑う。
「そんで、何か話してくれるのかな? お嬢様」
「お嬢様?」
「似合ってるだろ」
「全然」
「そうか?」
「でも――」
あたしは少し考えた。
「なんとなく気が合うと思った」
犬が黙った。
「あたしの昔の隊員に、こういうやり取りが好きな奴がいた」
「隊員?」
「そう」
名前が、自然に口から出た。
「ミカド……」
遠い記憶。
くだらない冗談。
任務の合間の会話。
くだらないことで笑った時間。
もう戻ってこない。
あたしは犬を見る。
「あなたがいたら――」
少しだけ間を置く。
「少しは違ったのかしら」
犬は答えなかった。
ただ、その黒い目だけが、静かにこちらを見ていた。
そして、の首元。
毛の下。
小さなランプが一度だけ点滅した。
紫色。
あたしは、それを見逃さなかった。
「……ねえ」
犬が歩き出す。
「何だ?」
「あなた、本当に犬?」
犬は振り返らない。
「さあな」
その声だけが、路地に響いた。




