第21話 本人
海を越えてから、少しだけ空気が軽くなった。
同じような工業地帯なのに、肺に入ってくる空気の重さが違う。
海風のおかげなのか。
それとも、内陸から流れてくる工場の排気が、こちらまで届かないだけなのか。
理由は分からない。
ただ――
「こっちで暮らした方が、長生きできそうね」
そんなことを考えながら、あたしは海沿いの道を歩いていた。
バッグの中には、海老。
そして人形。
どちらも、まだ開けられない。
正確には――
開けてはいけない。
無理に触れば、中の情報そのものが消える。
バックアップもない。
店主はそう言っていた。
だから、技術者を探している。
そのために海を越えた。
そして──。
「紫のモヒカン」
妙な名前を追って、妙な奴らに何人も会った。
本物を名乗る奴。
カツラを被った奴。
どう考えてもモヒカンにできない奴。
女性に見える奴。
声が明らかに違う奴。
「……人気者ね」
皮肉を言う。
でも、笑って済ませられる話でもない。
偽物が何人もいる。
つまり、それだけ、その名前に価値がある。
本物がいる。
そして、その本物を探している人間がいる。
だから偽物が生まれる。
それだけの話だ。
……たぶん。
あたしは小さな食堂に入った。
店の中は空いている。
窓から海が見える。
珍しく、ガスマスクを外している客もいる。
あたしも少しだけ迷った。
それから、マスクを外す。
「……」
空気が軽い。
本当に。
「悪くないわね」
水を一口飲む。
その時だった。
隣の席の老人が、あたしの方を見た。
「この辺りは、住みやすいだろう」
「ええ」
「昔はもっと酷かった」
「そうなの?」
「工場が増えた頃はな」
老人は窓の外を見る。
「空気を買わなきゃ生きられなかった」
「今も似たようなものじゃない?」
「今は選べる」
「選べる?」
「高い空気を買うか、安い空気で我慢するか」
「……なるほど」
この世界らしい。
空気すら商品だ。
「でも、ここは海風がある」
老人は言った。
「だから、内陸よりは楽だ」
あたしは窓の外を見る。
海。
水平線。
風。
「そういうことね」
食事を終え、店を出る。
端末を見る。
調べものをする。
本人確認について。
この世界では、本人であることが重要だ。
銀行。
病院。
軍。
企業。
交通。
住民登録。
ほとんどすべてに本人確認が必要になる。
基本となるのはDNA。
遺伝情報は、最も強力な本人確認手段の一つだ。
「……でも」
あたしは歩きながら考える。
DNAが一致した。
だから本人。
そんな簡単な話ではない。
特殊なDNAを持っている人間なら、むしろ足がつきやすい。
珍しい遺伝的特徴。
特徴的な配列。
それらは個人を特定する手掛かりになる。
だから偽装する。
DNAサンプルを偽造する。
登録情報を書き換える。
比較対象を偽装する。
ある程度までなら、今の技術でできる。
「ある程度まで、ね」
特殊部隊にいた頃。
そんなものは腐るほど見てきた。
影武者。
顔を似せる。
声を似せる。
身体を似せる。
場合によっては、DNAまで似せる。
それでも、完全に本人になることはできない。
……いや。
もっと酷い話ならあった。
本当に腐っているものまでいた。
死体を影武者として使う。
本人が生きていると思わせるため。
あるいは、本人が死んだと思わせるため。
どちらにせよ、本人確認なんてものは、案外脆い。
「だから、DNAだけじゃ足りない」
記憶。
癖。
反射。
神経。
身体感覚。
そういうものまで含めて、ようやく「本人らしさ」が見えてくる。
そして、脳。
そこだけは別格だった。
肉体なら、いくらでも直せる。
腕。
脚。
皮膚。
臓器。
人工化もできる。
再生医療だって進んでいる。
でも、脳だけは違う。
神様が本当に降りてきたって、
完全に再生できるか分からない。
「……神の技術、ね」
そんな技術を本当に持っている人間がいたら。
それこそ神話だ。
実際、脳をナノマシンで延命した人間の話もある。
壊れた細胞を補修する。
神経を維持する。
死ぬはずだった人間を、ずっと生かす。
そんな話。
でも、最後にはナノマシンが暴走した。
そして、その人物は死んだ。
「……惜しい最後だった、ねえ」
あたしは鼻で笑う。
そんなわけがあるはずがない。
ナノマシンが偶然暴走しました。
研究は失われました。
本人は死亡しました。
事件は終わりました。
そんな都合のいい話。
「御伽話じゃあるまいし」
まして、都合の悪い人間が絡んでいるならなおさらだ。
「……誰かが消したんでしょうに」
ところが、今回の話は、それより酷い。
あたしが今追っているのは、
記録そのものが消えた人間。
DNA。
経歴。
医療記録。
軍歴。
住民記録。
金融記録。
監視記録。
ありとあらゆるもの。
そこにいたはずの人間が、
まるで最初から存在しなかったように消えている。
「……」
足を止める。
海を見る。
「こういう世界で生きてきた記録を、全部抹消できるなんて」
そんなことが。
本当にできるのか。
この社会は、本人確認でできている。
どこへ行っても記録が残る。
何をしても記録される。
生まれた時から。
死んだ後まで。
DNAがある。
神経情報がある。
医療記録がある。
顔認証がある。
声紋がある。
行動履歴がある。
監視カメラがある。
それらを全部消す。
「……まさか」
あたしは苦笑した。
「そんなことができるの?」
それこそ、御伽話だ。
本物の神様が降臨して。
「この人間は最初から存在しませんでした」
そう言って、世界中の記録を全部書き換えた。
そんな話。
「ご都合主義の行き過ぎで、子供も冷めちゃうわよ」
陳腐な物語だ、普通ならね。
でも、今。
その物語が、目の前にある。
記録がない。
証拠がない。
本人を証明できない。
それなのに、その人物を知っている者がいる。
店主。
眷属。
そして――
海老。
「あの方」
その呼び名を思い出す。
店主は、そう呼んでいた。
亡霊。
存在しているのか。
死んでいるのか。
別の肉体にいるのか。
意識だけなのか。
そもそも、本人なのか。
「……」
あたしは海を見つめる。
「なんて人なのかしらね」
亡霊さん。
記録を消した。
いや、記録を消されたのかもしれない。
どちらにしても、
そんなことを起こせる人間がいる。
「神様みたいな奴か」
少し考える。
「それとも――」
笑う。
「神様よりタチが悪い奴か」
海風が吹く。
ガスマスクを手に持ったまま、あたしは歩き出した。
本人確認。
DNA。
記憶。
脳。
意識。
その全部が揃っても。
まだ「本人」と断言できない。
なら、あたしが探しているものは、何なのか。
答えはまだ出ない。
ただ一つ。
海老の中にある情報を見れば――
何かが分かる。
そのためには。
開けられる人間を探すしかない。
「紫のモヒカン、ね」
また変な名前が出てきた。
あたしは苦笑する。
「本物なら、そろそろ出てきてくれないかしら」
海は何も答えなかった。
ただ、海から吹く風だけが、あたしの背中を押していた。




