第20話 紫のモヒカン
海を越えた。
それだけで、何かが変わるとは思っていなかった。
けれど、港へ降り立って最初に感じたのは、意外なものだった。
「……空気が、軽い」
あたしは足を止めた。
ガスマスクのフィルターを通しているから、匂いまでは分からない。
それでも分かる。
肺に入ってくる空気の重さが、いつもの街とは違う。
同じような工業地帯。
巨大な煙突。
古びた工場。
積み上げられたコンテナ。
錆びた配管。
空には薄い煙が流れている。
それなのに、あたしの住んでいる街より楽だった。
「海の風のせいかしらね」
海を振り返る。
風が吹いている。
海から陸へ。
工業地帯の身体に悪い何かが、内陸から流れてこない。
そんなところだろうか。
理由は分からない。
でも、呼吸が楽なのはありがたい。
「ここ、引っ越してもいいかも」
冗談を言ってみる。
もちろん、引っ越す気なんてない。
事務所もある。
仕事もある。
それに――
海老もある。
バッグを軽く叩く。
中には、あの海老の握り寿司型デバイス。
その横には、あの人形。
この二つを調べるために、海を越えてきた。
情報は、ほとんどない。
技術者。
海の向こう。
そして――
紫のモヒカン。
「……人探しの情報としては、最低よね」
名前がない。
住所もない。
年齢も分からない。
顔も知らない。
分かっているのは、紫。
モヒカン。
技術者。
それだけ。
「まあ、探偵なんだから探すしかないか」
港を出る。
最初に向かったのは、情報屋から教えられた工場だった。
古い電子部品を扱う店。
看板には、
「修理・改造・再生」
と書かれている。
ずいぶん幅が広い。
中へ入る。
カウンターにいた男が顔を上げた。
「あんた、探偵か?」
「そうだけど」
「紫のモヒカンを探してる?」
「……」
早い。
「あんた、知ってるの?」
「俺がそうだ」
男が胸を張った。
あたしは頭を見る。
黒髪。
短髪。
モヒカンではない。
紫ですらない。
「……どこが?」
「何が?」
「紫のモヒカン」
男は少し黙った。
「昔はそうだった」
「いつ?」
「若い頃」
「今は?」
「普通だ」
「じゃあ、名乗らないでよ」
男は困った顔をした。
「いや、名前としては有名だから」
「名前?」
「紫モヒカン」
「……」
なるほど。
どうやら、名前だけが一人歩きしている。
「あなた、本当に技術者?」
「もちろん」
「海老型の特殊デバイスを開けられる?」
「……それは無理だ」
即答だった。
「じゃあ、さようなら」
店を出る。
背後から、
「本物なら、この先にいる!」
という声が飛んできた。
振り返る。
「どこ?」
「知らない!」
「……」
あたしはため息をついた。
「役に立たないわね」
次に紹介された場所では、もっと酷かった。
店に入る。
男が出てくる。
紫色のモヒカン。
かなり立派だ。
「……」
思わず足を止める。
「あなた?」
男がニヤリと笑った。
「そうだ」
「技術者?」
「そうだ」
「海老を開けられる?」
「もちろん」
「じゃあ、見せてもらおうかしら」
男が手を出す。
あたしは海老を渡さない。
「まず、あなたが本物か確認する」
「何をする?」
あたしは男の頭を見る。
「触っていい?」
「……」
男の笑顔が消えた。
「なぜ?」
「確認」
「必要ない」
「じゃあ、いいわ」
あたしは手を引いた。
そして髪の先を見た。
「……」
紫色。
不自然なくらい綺麗。
「安物で染めてる?」
「違う」
「そう」
指で軽くつまむ。
「じゃあ、これは?」
男が固まる。
「……」
「カツラね」
男の顔が引きつった。
「なぜ分かった」
「風で髪が動かなかったから」
「……」
「あと、根元が見えない」
男は頭を押さえた。
「これは高級品だぞ」
「知らないわよ」
「本物そっくりだ」
「だから偽物でしょうが」
男は黙った。
「ちなみに、技術者としては?」
「一流だ」
「海老は?」
「無理だ」
「はい、さようなら」
また外へ出る。
「……何なのよ、この街」
三人目。
今度は、明らかにモヒカンにできそうにない男だった。
頭頂部がほとんど禿げている。
残っている髪も短い。
あたしは顔を見るなり言った。
「無理でしょう」
「何がだ?」
「モヒカン」
男は真顔だった。
「できる」
「どうやって?」
「気合い」
「髪の長さが足りないわよ」
「精神の問題だ」
「髪型を精神論で解決しないで」
男は怒った。
「俺は紫モヒカンだ!」
「どこが紫?」
「心が」
「……」
あたしは何も言わずに店を出た。
外へ出てから、思わず笑った。
「何よ、それ」
四人目。
今度は、少し事情が違った。
紫色の髪。
長身。
細身。
服装も中性的。
遠目には女性に見える。
「あなたが?」
「そう」
声も高い。
あたしは相手をじっと見る。
女性に見える。
でも、何かが微妙に違う。
「……女性?」
「そう見える?」
「いや」
「じゃあ?」
「……保留」
相手は笑った。
「賢明ね」
「何者?」
「技術者」
「海老を開けられる?」
「できない」
「紫モヒカン?」
「昔は」
「また昔?」
「今は事情があって」
「モヒカンじゃない」
「そうね」
「じゃあ、なんで名乗ってるの?」
相手は肩をすくめた。
「これは名前だから」
まただ。
名前。
どうやら、この辺りでは「紫モヒカン」という呼び名そのものが通じるらしい。
そして五人目。
今度は電話だった。
『俺が紫モヒカンだ』
「……」
電話越しの声。
どう考えても、今まで聞いた連中と違う。
「あんた、本当に?」
『そうだ』
「声が違う」
『声?』
「聞いてた話と違う」
『変声器だ』
「なんで?」
『紫モヒカンだから』
「理由になってないわよ」
『必要なんだ』
「何が?」
『紫モヒカンとして』
「だから何なのよ、それ」
意味不明な沈黙。
「海老を開けられる?」
『もちろんだ』
「じゃあ、今から会える?」
『それは無理だ』
「……」
『今日は休みだ』
「技術者って、そんなに自由なの?」
電話が切れた。
「……」
あたしは端末を見つめる。
そして、笑った。
「変なの」
でも、笑ってばかりもいられない。
ここまで来て、気づいたことがある。
一人なら、ただの変人。
二人なら、偶然。
三人なら、情報の間違い。
それで――
何人いる?
「紫モヒカン」を名乗る奴。
本物っぽい奴。
偽物。
カツラ。
昔はモヒカンだった奴。
どう考えてもモヒカンにできない奴。
性別すらよく分からない奴。
声まで変えている奴。
「……」
あたしは海沿いの道を歩きながら考える。
おかしい。
おかしすぎる。
だからこそ――
「それなりの需要があるってことよね」
誰も需要のない名前を名乗ったりはしない。
ましてや、わざわざ紫色のカツラまで用意するなんて。
「紫モヒカン」
その名前を使えば、何かが起きる。
仕事が来る。
信用される。
金になる。
あるいは。
本物に近づける。
「あの名前、相当有名なのね」
海風が吹く。
ガスマスクのフィルターを通しても、さっきより空気が軽い。
内陸側を見る。
工場の煙が流れている。
けれど、その煙はこちらへは来ない。
海から吹く風が、全部を押し戻している。
「……住みやすいじゃない」
足を止める。
海を見る。
水平線の向こう。
ここへ来る前には、何も見えなかった。
今も何も見えない。
それでも、そこにいる。
そう思った。
その日の夕方。
海沿いの小さな食堂に入った。
店主に聞く。
「紫モヒカンって知ってる?」
店主は箸を止めた。
「ああ」
「やっぱり?」
「有名だよ」
「どんな奴?」
店主は少し考えた。
「変な奴」
「……それだけ?」
「ものすごく変な奴」
「なるほど」
妙に納得した。
「技術者?」
「そう」
「何ができる?」
店主は笑った。
「何でも」
「何でも?」
「直せない物を直す」
「壊せない物を壊す」
「ない物を作る」
「……」
あたしは黙った。
「それ、本当に人間?」
「さあな」
店主は肩をすくめた。
「でも、あの名前を名乗る奴は、いくらでもいる」
「本物は?」
「さあ」
「知らない?」
「知ってても、言わない」
「どうして?」
店主は海を見る。
「本物を探してる奴が多すぎるからだよ」
その言葉だけで十分だった。
店を出る。
外は夕暮れ。
海から風が吹いている。
あたしは歩きながら、バッグに手を置いた。
海老。
人形。
どちらも静かだ。
「本物を探してる奴が多すぎる、ね」
それなら、この街で何が起きているのか、
少しだけ分かってきた。
本物がいる。
だから偽物が生まれる。
偽物が増える。
だから本物がさらに見えなくなる。
「……面倒な奴ね」
まだ会っていない。
名前しか知らない。
それなのに。
すでに何人もの偽物に会った。
「紫のモヒカン」
あたしはその名前を口にした。
その瞬間。
バッグの中で――
――カチ。
海老が鳴った。
続いて。
――カチ。
人形も鳴る。
あたしは足を止めた。
「……」
二つの光が、同じ方向を示している。
海岸線の先。
工業地帯のさらに向こう。
「あっち?」
光が強くなる。
「……やっと本物の手がかり?」
歩き出す。
海からの風が吹く。
髪が揺れる。
汚染された内陸の空気は、まだ海岸へ流れてこない。
ここは、あたしの街より少しだけ呼吸が楽だ。
だからなのか。
不思議と足取りも軽かった。
けれど、海岸線の先に見えたものを見て、
あたしは立ち止まった。
古びた建物。
その壁面に、大きな看板がある。
紫色の文字。
そこには――
「紫モヒカン技術相談」
と書かれていた。
「……」
あたしは看板を見上げた。
「また偽物?」
しばらく考える。
そして。
「それとも――」
バッグを見る。
海老が、もう一度だけ鳴った。
――カチ。
あたしは看板へ視線を戻した。
「……今度は、本物かしらね」
まだ中へは入らない。
扉の向こうに誰がいるのか。
それは、分からない。
ただ、この街で「紫モヒカン」を名乗る変な奴が、これだけいる。
その事実だけは確かだった。
そして、それは――
本物が、それだけの価値を持っているという証拠でもあった。




