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つぎはぎざあんでっど  作者: 風時々風
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 唐突になんの前触れもなくすっと目が開いた。暗くて何も見えない。本当に目が開いたのか疑いたくなって来た。

俺の名前は、えっと、なんだったか。思い出せない。ああ。そっか。いつもそうだったかも知れない。だがコードネームは覚えている。キリツギ。そう。そうだ。俺は自分をキリツギと呼んでいる。二十歳の男で軍国主義普及委員会の生体兵器実験部隊に所属しそこで与えられた死んでも必ず生き返るという能力を使って実験という名の作戦に参加している。不意に思い出された自分に関するこの記憶以外は何も覚えていない事に気が付くと俺はぼそっと独りごちた。

「俺は、また死んだのか?」

「お兄ちゃん。生き返ったんですか?」

 幼い少女の声が間近から聞こえて来た。

「うーん? キリツギが生き返った?」

 別の、さっきの少女よりは年を経ていそうな感じの少女の眠たそうな声が聞こえて来た。ごそごそと人の動く気配と衣擦れの音とがしてぱっと周囲が明るくなった。

「カーテン開けました」

「倫子サンキュ。あ。ほんとだ。おはよ。キリツギ」

 仰向けに横になっている俺の視界の中に十代の半ばくらいの少女の顔が横からにゅっと現れた。少女は長い赤みの強い茶色い髪を垂れ下がらないようにと片手できゅっと押さえつつ俺をじっと見つめて来た。

「俺の事を知ってるのか?」

 この少女は俺の事をキリツギと呼んでいた。

「知ってるに決まってるじゃない。一緒に暮らしてるんだから」

「一緒に暮らしてる?」

 俺はどういう事だ? と思いながらゆっくりと上半身起こした。

「ちょっと危ない」

 俺の顔を見つめていた少女がさっと顔を引いた。悪かったと言いながら俺は周囲を見回した。

「何がどうなってるんだ? 教えてくれないか?」

「お兄ちゃんはマー姉ちゃんと私のお兄ちゃんなんです」 

 俺の顔を見つめていた少女の隣に座っているもう一人の見るからに幼い少女が隣にいる少女の顔と自分の顔を交互に指差しながら言った。

「すまない。全然分からないんだが」

 今の言葉だけで俺の置かれている状況が分かる奴なんているんだろうか。

「倫子端折り過ぎ。あーしが説明してやるから、キリツギ、あんたはぼーっとしてないでちゃんと聞きな」

 俺の顔を見つめていた少女の方が言ったので、今のぼーっは幼い少女の発言の事を考えていたからだと心の中で反論しつつ俺は頷いた。

「そういや名前も言ってなかったね。あーしはマリサ。こっちの小さい方が妹の倫子。道端で倒れてたあんたをあーしが拾ったのがそもそもの始まりだったかな。あーし達はあんたの生き返るっていう能力の事も組織に所属してるっていう事も知ってる。あんたの能力は凄いけどそれがあったって、いや、あるからこそ一人で生きてくのは大変だ。あんたみたいなのが生きてくには協力者が必要だろ? だけどあんたみたいな奴は普通の奴には協力を頼めない。あーし達はそこら辺の奴らとは違う。あんたの事を理解してんだ。だからあんたの面倒をみられる。あんたは面倒をみてもらってるお返しとしてあーし達の為に働いてくれててね。あんたとあーし達の関係はまあそんな感じかな。今どうしてこんな事になってるのかはあれだ。あんたは仕事した。その結果死んだ。そして今生き返ったんだ」

 ううーん。分かったような分からないような。

「とりあえず一つ聞いて良いか?」

「なんだ?」

「どうしてお兄ちゃんなんだ?」

 そこかよというマリサという名の少女の突っ込みが入ったすぐ後に倫子という名の幼い少女の方が口を開いた。

「組織の目を欺く為にお兄ちゃんになってもらったんです。義理の兄で一緒に住む事になったという設定なんです」

その設定は必要なのか?

「組織の連中はあんたを今も探してる。見付からったらあーし達だってどうなるか分からないから気を付けてよ」

 設定よりももっと根本的な問題があった。

「なあ。俺の顔を見たらすぐに組織の連中は俺だって気付くんじゃないのか?」

「お兄ちゃんまたそれを言ってます」

 倫子が優しくにこりと微笑んだ。

「またと言わてもな。記憶がないからな」 

 俺は倫子の笑顔を見ながらぽりぽりと頭をかいた。

「それくらい覚えててよね。あんたは生き返る度に使った死体とも前のあんたとも別人になるようにできてるの。だから顔とか姿とかを見ただけじゃあんたがキリツギだって分かる奴はいないの」

 そうだったのか。ってちょっと待て

「おい。死体ってなんだ?」

 マリサが至極面倒臭いというような顔になった。

「そんな事はどうでも良い。知った所であんたにはどうにもできない事なんだから。そんな事より折角生き返ったんだから何かしよっか」

 マリサの瞳がぎらっと妖しく光った気がした。

「何かってなんだ?」 

 俺は警戒しながら聞いた。

「倫子。あんた下に行ってな」

「えー? どうしてですか?」

「そりゃあれ。あんたにはまだ早いから」

「それはどういう事ですか?」

「良いから行きなって」

「一緒にいたいです」

「あーっと。そうだった。こいつと二人だけで大事な話があったんだ。だからお願い」

「二人だけですか? なんの話ですか?」

「倫子。マー姉ちゃんの一生のお願い」

 マリサが両手を自分の顔の前で合わせ深々と頭を下げた。

「なんか、ずるいです。けど分かりました。しょうがないです」

 倫子がしょんぼりしながら不承不承という感じで部屋の隅の方に行ったと思うと急にその姿が見えなくなった。

「あそこに階段があんの。穴みたいになってるから落ちないように気を付けな」

 マリサが言いながら俺にしなだれかかって来た。

「おい。なんだいきなり」

 俺は慌てて立ち上がるとマリサから離れた。

「空気読めって。分かるだろ?」

「いや分からない」

「はあ? 若い男女が二人きりだぞ? やる事ってったら一つしかないじゃないか」

 マリサが四つん這いになってがうがうがおーんなどど幼い子供がする獣の物真似みたいなかわいい声を出しながら俺にゆっくりと近寄って来た。俺はマリサからまた離れた。

「あのさ。あんたは欲情とかしないの? あーしを見ててさ」

 しないな。全然子供だし。まあ。よしんば欲情したとしてもそういう関係になるつもりはない。俺はこんな体だからな。

「お前は俺がお前の事を全部忘れてしまっても平気なのか? どんな関係になったとしても俺が死んだらそれで終わりなんだぞ」

 マリサががう? と言いかわいらしく小首を傾げてからふんっと鼻を鳴らして世の中すべてを小馬鹿にしているような顔をした。

「死んだら終わりなんて当たり前だろ? 普通の事だ。そんな事を考えてたらなんにもできないよ」

 それはそうだが、俺は普通じゃない。

「俺は普通の人間とは違うって分かってるだろ? 余計な事はしたくない」

 マリサがいきなり飛び掛かって来たので俺は仰向けに倒れてしまった。マリサが俺の両腕を両手で押さえて拘束するとじいーっと射るように俺の目を見つめながら顔を俺の顔に近付けて来た。

「やめろ」

 俺はマリサをできるだけ乱暴にならないようにと手加減しながら払い除けようとした。

「うふふふ。あーしってこう見えても結構力あんの。どかせないでしょ?」

 マリサがどやっと微笑んだ。マリサの言う通りだった。マリサに悪いと思ったが俺は手加減するのをやめてマリサをもう一度払い除けようとした。

「駄目~。あーし、体術も習ってた事あんの。力が自分より強い相手でも、ある程度の差までならこうやって押さえ付けられんだから」

 マリサの顔がぐぐっと今までよりも更に近付いて来た。

「近い」

 俺は不愉快そうに言い顔を横にそらすだけというなんとも情けない最後の抵抗を必死の思いで試みた。

「何それ。それはちょっと傷付くかも。あんたはあーしが悪ふざけでこんな事してると思ってんの? あーしはあーしなりに本気なんだ。あんたみたいな人を好きなっちゃいけない?」

 マリサが急に悲しそうな声を出した。言い終えるとすんっとマリサの鼻が鳴った。俺は泣いたのか? と思い心配になって顔の向きを元に戻した。

「がうがう。キリツギは騙しやすいがう」

 マリサが嬉しそうに微笑むと目を閉じ俺にキスしようとして来た。

「馬鹿。やめろって。本当に」

 俺はまたさっきと同じように顔を横にそらしてマリサの唇を避けた。避けたがマリサの唇は俺の頬にヒットした。

「避けても無駄がう」

 マリサぺろっと俺の頬を舐めた。

「ひひいぃっ」

 得も言われぬ感覚が舐められた部分から全身を貫くように駆け抜け変な声が出た。

「がう。かわいい反応がう。このまま食べてしまいたくなったがう」

 マリサが一度顔を放すと目を細め獲物を狙う猛禽類のような鋭い目付きをした。

「駄目だって。俺は嫌だって言ってるだろ」

 俺はこれはもう駄目かも知れないと思いながら懇願するように叫んだ。これからどうなってしまうんだろうという怖さとさっきの全身を貫いたあの感覚をもう一度味わいたいという奇妙な期待が心の中に同居し出していて体に力が入らなくなっていた。

「かわいいなあ。キリツギはいつもかわいいよ。もう我慢できなーい」

 マリサが心からそう思っているという風に声を上げ、がうるるるうるるなどと唸りながらがばっと俺に抱き付いて来た。

「何ってやるんですか。マー姉ちゃん。お兄ちゃんから離れて下さい」

 もう駄目だと諦め目を閉じた俺の耳に倫子の声が飛び込んで来た。

「あ。こら、倫子。なんで来たんだよ」

 マリサが俺からは離れずに顔を倫子の方に向け大きな声を上げた。

「お兄ちゃんの叫ぶ声が聞こえたからです。とにかく離れて下さい。いくらマー姉ちゃんでもこれは駄目です」

「うん? 倫子。あんた、あーし達が何をしようとしてるか知ってるのかな?」

 マリサが意地の悪そうな笑みを顔に浮かべた。

「し、知りません。けどお兄ちゃんが嫌がってるから駄目なんです」

 倫子が顔を耳の先まで真っ赤にしながら叫んだ。

「なんで急に赤くなったの? それ、怒ってるからじゃないよね? くふふふ。こういうのはね、嫌がってても最初だけなの。特に男は。そうだ。あんたそこで見てな。これも経験だ。あんたもこれから大人になるんだから」

 マリサが俺の方を向いた。

「どう? 興奮する? あんな幼女が見てるんだよ?」

 マリサが妖しい笑みを顔に浮かべつつ嬉しそうに言うとまた俺の頬を舐めて来た。

「もうやめてくれ。頼むから」

 倫子が来てくれたお陰で俺はさっきのおかしな状態から抜け出る事ができ体に力が入るようになっていたので必死にマリサを払い除けようとしていた。だが、いくら頑張っても相変わらずマリサを払い除ける事はできなかった。

「好い加減にして下さい」

 倫子がマリサに飛び付くと俺から引きはがそうとし始めた。

「倫子。やめな。無駄だから。あ。それとも三人でしちゃう?」

 倫子が動きを止めた。

「三人、ですか? できるんですか?」

 は? 何その反応? 

「あらら? ひょっとして倫子、一緒にしたいの?」 

 倫子が先ほどよりも更に顔を赤く染めると恥ずかしそうにしながら俯いてしまった。

「馬鹿野郎。何言ってんだ。好い加減にしろ。えっと、倫子、ちゃん。お前もおかしくなってんじゃない。しっかりしろ。そんな事したら駄目だ」

 倫子がばっと顔を上げ俺達から離れると部屋の隅にあった箪笥の所へ行き一番下の引き出しを開け中から小型の自動拳銃を取り出した。

「マー姉ちゃんお願いです。お兄ちゃんから離れて下さい」

 倫子が自動拳銃の銃口をマリサに向けた。

「おいおーい。倫子。本気? あんた今何やってるか分かってる? お姉ちゃんに銃を向けてんだよ?」

 マリサが上半身を起こすと倫子の方を見た。マリサの手がどけられ拘束が解かれた俺はすかさずマリサの体を押し退けて立ち上がると倫子に近付いた。

「ああ! こらキリツギ」

「倫子ちゃん。それは本物じゃないのか? どうしてそんな物を、いや、今はとにかくそれを下ろすんだ。助けてもらっておいてこんな事を言うのは酷いとは思うがそんな物を人に向けては駄目だ」

「お兄ちゃん」

 倫子が銃を下ろした。

「お兄ちゃんじゃない。倫子、こんな事してどうすんのさ」

 マリサが怒鳴りながら俺と倫子の間に割り込んで来た。

「マー姉ちゃん。ごめんなさい」

 倫子がしゅんとしながら自分の手の中にある銃に視線を落とした。

「マリサ。倫子ちゃんは俺を助けようとしてやったんだ。そんなに怒らないでくれ」

 俺はマリサの方を向くと宥めようとした。

「あんたは黙ってて。何も分かってないくせに。いくらなんでも銃をあーしに向けるなんて」  

 マリサが右手を大きく振り被った。

「やめろ」

「うるさい。かわいがってる妹に、何よりも大事にして来た妹に、銃を向けられたあーしの気持ちがあんたに分かるか」

 マリサの叫びでマリサの手を止めようとした俺の動きが一瞬遅れた。倫子の頬にマリサの平手が当たり、倫子がその場にすとんと座り込んだ。

「倫子ちゃん」 

 俺は倫子に駆け寄った。倫子がすっと立ち上がったと思うと突然走り出し部屋の隅の階段のあるという場所に行き階下に続く階段を駆け下りて行ってしまった。

「ほっとけ」

 マリサが吐き捨てるように言い、その場にどかっと座った。

「ほっとけるか。あの子、銃を持ってったんだぞ」

 そう言ってからはっとした。

「そうだ。なんで銃なんて持ってるんだ? しかもあれは玩具なんかじゃない本物だろ?」

 俺はマリサの顔を見つめた。

「ああ。それね。まだ話してなかったっけ。ここは物騒な街でね。銃とかナイフとかそんなもんはどこにでもある。あーしの親が死んであーしと倫子だけになってからもあーしはずっと倫子を本当の妹だと思って守って来たつもりだったんだ。さっきはさ、キリツギに無理やり迫ったあーしが悪かったとは思うよ。けど。あの子。あんな風にされたらあーしだって本気で怒るよ」 

 言葉の途中から顔を俯けて行っていたマリサが言葉を切ると急に顔を上げ俺に真剣な眼差しを向けて来た。

「キリツギ。ごめん。倫子の事頼んで良いかな?」

 今までとは違う弱々しい声で短く言ってからマリサが泣きそうな顔をし、それを隠すように下を向いた。

「物騒なら余計に急がないとな。行き先に心当たりはあるか?」 

 銃の事なんて聞いている場合じゃなかったと後悔しながら俺は聞いた。

「たぶん公園だ。家を出たら一本道になってるからそれを右に行って。長屋の切れ目に公園がある」

「分かった」 

 俺は階段のあるという場所に走って行き四角い穴のようになっている所から階下に続く階段に足を踏み入れた。階段を駆け下りながら玄関の場所を探すと玄関はすぐに見つかった。唯一置かれていた男物の靴に足を入れるとサイズが少し大きかった。俺は構わずにそのままドアを開けて外に出た。記憶がないのがもどかしい。覚えていればここまでの間だけでも随分と時間を短縮できたはずだ。

「倫子ちゃん」 

 もしかしたら近くにいるかも知れないと思い俺は周囲を見ながら倫子の名を叫んだ。倫子の姿はどこにもなく倫子からの返事もない。俺はマリサに言われた通りに右に向かって走り出した。公園らしい場所はすぐに見付ける事ができた。コンクリートの壁の隙間から中に入ると俺は倫子の名を叫びながら倫子の姿を探した。

「いた」

 公園の中にあるベンチの一つに倫子がちょこんと座っている姿を見付けた俺は良かった良かったと何度も呟きながら倫子の元へと急いだ。

「倫子ちゃん」

 倫子の傍に行った俺は荒くなった息を整えながら俯いている倫子に声を掛けた。

「お兄ちゃん」

 倫子が涙で濡れた両目を擦りながら顔を上げた。

「帰ろう」

 こういう時にどんな言葉を掛ければ良いのかが分からなかったのでとりあえず俺は頭の中に浮かんだ言葉をそのまま口にした。

「嫌です」

 倫子が大きな声を出し顔をまた俯けた。

「倫子ちゃん」

 俺は掛ける言葉が見付からず俯いている倫子の姿をじっと見つめたまま黙り込んだ。

「この頃のマー姉ちゃんはおかしいんです。前はあんな事しなかったです。お兄ちゃんにあんな事したのは今日が初めてです。私の事をぶったのも初めてです」

 倫子が小さな震える声で言った。

「そうか」

 倫子が言いたい事をもっと言えるようにと俺はちゃんと聞いているという気持ちを強く込めて相槌を打った。

「たまにマー姉ちゃんが別の人になったみたいな感じがするんです。マー姉ちゃんは変わってしまったんです」

 俺もマリサの事を倫子ほどではないにしろ知ってるはずなのに何も覚えてない。まったく便利な能力だ。

「何かあったのか? マリサが変わってしまうような出来事が」

「はい。何かあったと思うんです。けど、思い出せないんです。お兄ちゃんもその時一緒にいたはずなんです。でもお兄ちゃんは死んでしまったからしょうがないです」

 しょうがないか。すまないな倫子。

「何があったのかが分かっても俺達には何もできないかも知れない。だが、それが分かればマリサの事を少しは分かってやれるかも知れない。マリサと仲直りしたいよな?」

 ずるい聞き方だ。

「どうすれば良いですか?」

 倫子が顔を上げた。倫子の涙で濡れた瞳が俺を見つめて来た。

「本人に聞くってのは駄目だろうな。ほっとけとか大きなお世話だとか言われそうだ。そうすると、そうだな。誰かあいつの友達とかいないのか? そういう人間なら何か知ってるかも知れない」

 倫子が記憶を手繰るようにしばらくの間沈黙してから口を開いた。

「マー姉ちゃんはいつも私と一緒にいてくれました。マー姉ちゃんに友達はいないと思います」

 それって倫子の事を凄く大切にしてたって事だよな? 銃を向けられたのは相当なショックだったんだろうな。だが、倫子の事がそんなに大切ならなんであんな事をしたんだ。

「なあ、お前ら二人が困った時に頼る人とかっていうのはいないのか? そういう人なら何か知ってるんじゃないのか?」

 倫子が悲しそうな笑みを顔に浮かべた。

「お兄ちゃんが全部忘れる事は知ってます。けど、こんな風になってみるとその事がとっても悲しいです」

 俺は今までどうやって生きて来たんだろうか? 記憶がなくなるって事はこんなにも大変な事なのに。

「ごめんな」

「お兄ちゃんのせいじゃないです。私こそごめんなさいです。変な事を言ってしまいました。困った時に頼る人はいません。私達のお父さんは賞金稼ぎだったんです。お父さんが死んだ後はマー姉ちゃんがその仕事を代わりに始めたんです。私はその手伝いをしてます。私達は二人だけで、今はお兄ちゃんがいるので三人だけで生きているんです」

 頼る人がいないのか。こんな子供二人だけで生きてるなんて。うん? ちょっと待て。倫子はマリサと血が繋がってない事を知らないって事なのか? あーしの親が死んであーしと倫子だけになってからもあーしはずっと倫子を本当の妹だと思って守って来たつもりだったんだ、とマリサは言ってた。だが倫子は今私達のお父さんと言ってた。いや。血が繋がってない事を知りながら私達のお父さんと倫子が言っててもおかしくはないか。俺が変に考え過ぎてるのか? それにマリサの言い方がおかしかっただけで二人が本当の姉妹って事だってじゅうぶんにあるもんな。はっきりと二人の血が繋がってないと言われたわけじゃないんだ。だが一応この事にはもう触れないようにしておいた方が良いのかも知れないな。俺はこの事については何かしらを知っていたんだろうか。もどかしい。どうして俺は何も覚えてないんだ。

「身近に聞ける人はいないって事か」

「はい」

 俺も倫子も黙り込んだ。公園の外から人の声が聞こえて来た。何やらがやがやと楽しそうに話をしていた。

「近所の人とか商店街の人とかになら聞けます。皆私達には良くしてくれてるんです」

 倫子の言葉を聞いて俺は公園の外の声のした方に顔を向けた。

「聞きに行ってみるか」

「でも私達がマー姉ちゃんの事を人に聞いている事をマー姉ちゃんが知ったらマー姉ちゃんが怒るかも知れません」

 確かにそんな事をされてると知ったらマリサじゃなくたって良い気持ちはしないだろう。

「理由を話せばマリサなら分かってくれるとは思うが近所の方はやめておいて商店街の方だけで聞くっていうのはどうだ?」

「なんでですか?」

「近所よりはマリサに知られ難いだろうと思ったんだ。マリサに隠しておけるなら隠しておいた方が良い。理由を知ってマリサが怒らなかったとしても嫌な思いをするのに変わりはないんだ」

 倫子がすっと立ち上がった。

「じゃあ商店街に行きましょう。もしマー姉ちゃんが知って怒ったらお兄ちゃんが謝って理由をちゃんと説明して下さい」

 倫子がにこっと微笑んだ。倫子の目を濡らしていた涙はもうすっかり乾いていた。

「まったく。しっかりしてるな。分かった。マリサが怒ったら全部俺が勝手にやった事にして俺が謝ろう」

 あれ? 全部俺が勝手にやった事にするって意外と名案じゃないか? マリサや倫子が俺の事をどう思っているのかはともかく俺は二人の事をまだ全然知らないからな。酷い事を言われたりされたりしたとしてもそれほどは傷付かない。こういう時は記憶がないってのも悪くはないのかもな。

「お兄ちゃん。急に黙ってどうしたんですか?」

「悪い。ちょっと考え事だ」

「こっちに行きます」

 倫子が遠慮がちに恥ずかしそうにしながら俺に向かっておずおずと手を伸ばして来た。

「ああ」

 俺は一瞬考えてから握れって事なんだろうなと判断するとその手を取った。二人連れだって公園を出ると倫子達の家のある方とは反対の方向に向かって俺達は歩いて行った。

「ここが商店街です」

 道の両側にずらっと商店が軒を連ねている場所に着くと倫子が足を止めた。

「二人は結構な有名人みたいだな」

 来る途中道端で出会った人々が皆倫子に声を掛けて来ていた。

「この街の用心棒みたいな事もしているのでそのせいだと思います」

 用心棒? ああ。そう言えば賞金稼ぎをしてると言ってたな。その関連なんだろうがそんな危険な事をなんでこんな子供達にやらせるんだろうか。

「どうしますか?」

「そうだな。どこか特に親しい店とかってのはあるのか?」

「どこも同じくらい親しいです」

「じゃあ、端から手当たり次第に聞いて行くか」

「はい」

 倫子が俺の手を引いて歩き出す。

「もう手は放しても良いんじゃないか?」

「なんでですか? 嫌ですか?」

 倫子が足を止めるとじいっと俺の目を上目遣いで見つめて来た。なんだろう倫子のこの反応。ちょっとびっくりした。

「いや。嫌じゃないが」

「じゃあこのままです。お兄ちゃんが私を連れ回してるんです。そういう演出の一環なんです」

 そういう演出の一環ってさっきの俺が勝手にやった事にする云々の事か? それなら俺が倫子を引っ張って行かないと駄目なんじゃないか? 

「早くこっちです」

倫子が俺の手を引いて歩き出す。俺が引っ張って行くっていっても何も知らないんだから無理だよな。良いか。このままにしとこう。俺達は商店街の右側の一番端の商店の前に行くと店の中に向かって声を掛けた。

「収穫はなしか」

「はい。でも、何人も人の死ぬ事件があった事なんて知りませんでした」

 一番端から五件目の商店までを連続して一気に聞いて回った俺達は六件目の商店だった場所の前で足を止めていた。

「ここがその事件の現場だって言ってたな」

「はい」

 そこは看板だけを残して中は空っぽの商店の廃墟と化していた。

「詳しい事を知る人間が誰もいないってのはなんか変な話だな」

「佐々木食料品店」

 倫子が顔を上げると看板に書かれている文字を読んだ。

「倫子どうした?」

 倫子の手が小刻みに震え出していた。

「なんかおかしいんです」

 倫子がその場にしゃがみ込む。

「体調でも悪くなったか?」 

 俺もしゃがみ込むと倫子の顔を覗き込むように見た。

「お兄ちゃん。頭が痛いです」

「家に帰るか? 歩けるか?」

「家には帰りたくないです」

 俺は周囲を見回した。

「どこかの店の人に頼んで家を使わせてもらうか?」

「ここにはいたくないです。ここにいると気分が悪くなるみたいです」

 倫子が不意に立ち上がると今にも倒れそうなほどにふらふらとしながら歩き出した。

「おい。どこへ行くんだ」

 俺も立ち上がると倫子の肩を抱くようにして支えた。

「公園です。公園に行きたいです」

「公園? そこまで行くなら家に帰った方が良いんじゃないか?」

「家は嫌です。公園です。公園に行くんです」 

 倫子が急に驚くほどに力強く動くと俺の腕の中から抜け出ようとした。

「分かった。連れて行くからじっとしてるんだ」

「公園です。お願いです」

 倫子の体からふっと力が抜けたと思とその場で倒れそうになった。

「どうしたっていうんだ?」

 俺は倫子を抱きかかえると公園に向かった。

「公園の奥です。そこにいるんです」

 俺の腕の中でぐったりし目を閉じている倫子が譫言のように呟いた。

「いる? 何がいるんだ?」

「マー姉ちゃんです。マー姉ちゃんがいるんです」

 なんだ? 何を言ってるんだ?

「マリサに会いたいのか?」

「会いたいです。でも会えないんです。もうマー姉ちゃんには会えないんです」

「家にいるんじゃないか? いや。今は公園にいるのか?」

 倫子が閉じていた目をぱっと開いた。

「マー姉ちゃんは公園にいるんです」

 倫子の両目の瞼が痙攣するように動いたと思うと倫子の両目が閉じられた。 

「なんなんだ一体?」

倫子が今一瞬だけ見せた目。その目が妙に気になった。倫子の目からは何かを必死に伝えようとする強い意志のような物が感じられた気がした。公園に着いたので倫子を一番近くにあったベンチの上に寝かせた。倫子を寝かせたベンチの端に残った僅かなスペースに尻を少しだけ乗せて座り目を閉じている倫子の顔を見つめた。

マリサの姿は見えないがどこにいるんだ? そもそも本当にマリサはここにいるのか? 俺が覚えていないだけで倫子が何かの病気にかかっているとしたら? このまま家に連れて帰った方が良いのだろうか? 俺がそんな風にあれこれと考え込んでいると倫子がゆっくりと目を開いた。

「公園に着いたんですか?」

「公園には着いたが体調の方はどうだ? なあ倫子ちゃん。何か病気とかじゃないよな?」

 一番重要だと思ったのでその事を聞いてみた。

「こっちです」 

 倫子が辛そうにしながら上半身を起こし、周囲を見回してから言った。

「そんな事より辛そうじゃないか。もう家に帰ろう」

「こっちにいるんです」

 倫子が緩慢な危なっかしい動きでベンチから下りると公園の奥にある何もない場所に向かって歩き出した。

「危ない」 

 倫子がいきなり何かに足を躓かせて転びそうになったので俺は慌てて倫子が転ばないようにと手を貸した。

「マリサの姿もどこにもない。もう帰ろう」

 少し強引にでも連れて帰った方が良いのかも知れない。倫子の様子を見ていて不安が募って来た俺はそう思うと倫子の体を先ほどやっていたように抱きかかえようとした。

「やめて下さい。ここにいるんです。ここにいるんです」

 倫子が突然悲鳴のような叫び声を上げた。俺は驚いて手を止めた。倫子が歩いて俺から離れて行く。俺は倫子の姿を何もせずにただじっと見つめていた。公園の奥の何もない場所の一番端にあるコンクリートの壁際の所まで行った倫子がしゃがみ込んだ。倫子がその場所の土を掘り始めた。マリサがここにいる。倫子はそう言っていたがマリサの姿はどこにもない。倫子は今なぜか公園の端で土を掘っている。なんだこれは? 何がなんだかまったく分からない。

「何をしてるんだ?」

俺は倫子の傍に行った。

「ここにいるんです」

 倫子の手がどんどん土で汚れて行く。止めなければと思ったが倫子がまた叫び声を上げたりしたらと思うとすぐには声が出せなかった。

「俺が代わりに掘る」

 この方法なら叫んだりはしないだろうと思い付くと俺は倫子の隣にしゃがみ込み土を掘り始めた。

「お兄ちゃん?」

 倫子が驚いたように言った。

「俺一人でやった方が早い。倫子は休んでろ」

 俺は倫子に土を掘らせないようにする為にわざと邪魔するように大きく手と体を動かした。

「お兄ちゃん。ありがとうございます」

 倫子が手を止め立ち上がると静かに泣き始めた。土で汚れた手で倫子が頬を伝う涙を拭った。倫子の顔が土で汚れた。

「なんて顔をしてんだ。帰ったらすぐに顔を洗うんだぞ」

 俺は笑顔を作りながら言った。

「え?」

「土だ。顔に付いてる」

「はい」

 倫子が涙声でそう言った。

「何も出て来ないな」

 掘り返した事があるのか意外なほどにこの場所の土は柔らかかった。手で掘っていてもかなりの深さまでそれほどの時間を掛けずに掘る事ができた。

「そんなはずはないです。埋めたんです。ここに埋めたんです」

「何を埋めたんだ?」

「マー姉ちゃんです」

 俺は倫子の顔を見上げた。

「何を言ってるんだ?」

「ここにマー姉ちゃんを埋めたんです」

 俺は倫子の顔をまじまじと見つめた。

「マリサなら家に」

「家にもいます。けどここにマー姉ちゃんを埋めたんです」

 倫子が俺の言葉を遮って言った。思考が一瞬停止した。再び思考が動き出した時最初に頭の中に浮かんだ事は、この倫子という少女は頭がおかしいのではないか? 狂っているのではないか? という事だった。

「倫子ちゃん。一度家に帰ろう。これ以上掘るのは無理だ。きっと、もっと深く掘って埋めたんだろう。何かスコップとかそういう道具を持って後でもう一度来よう」

 しばしの間どうすれば良いのだろうか? と考え、この子と長い間暮らしているマリサならこの状況をなんとかできるだろうと考え付くと倫子をマリサの所に一刻も早く連れて行こうと思いそう言った。

「倫子ちゃんにそっちのあんたは同居し始めたっていうお兄ちゃんだったかな? こんなとこで何してんだい?」

 不意に声を掛けられたので驚きつつ声のした方を見るといつの間に近付いて来ていたのかどこにでもいそうなこれといって特徴の見出せない見知らぬ中年の男が俺達の背後に立っていた。

「俺達の事を知ってるのか?」

「ああ。俺は近所に住んでる佐藤ってもんだ。どうかしたのかい倫子ちゃん?」

 男が倫子の顔を覗き込むように見た。

「えっとおじさんは、誰ですか?」

 倫子が男の方を見ると口を開いた。

「おいおい倫子ちゃん。おじさんの事忘れちゃったのかい? 近所に住んでる佐藤だよ。ついこの前だって一緒に買い物行ったばかりじゃないかい」

 倫子が佐藤さんですか? と呟きながら不思議そうな顔で男の顔をじいーっと見つめた。

「倫子ちゃん、ひょっとしてまた」

 男が心配そうな顔になりながら俺の方に顔を向けて来た。

「またって何か知ってるのか?」

「あんたは知らないのかい。じゃあこの子の事、話してやるよ。ここじゃあれだからちょっとこっち来ない。倫子ちゃんちょっとお兄ちゃん借りるよ。ここで待っててくれるかな?」

「お兄ちゃんですか? お兄ちゃん行くんですか?」

「ちょっとだけ良いか?」

「分かりました」

 倫子がそう言うと土を掘り始めた。

「倫子ちゃん、掘るのは俺がやるから」

「良いから少し放っときない。すぐに話は終わるから」

「だが」

「そういう時間がもったいないんだ。知りたいんだろ? この子の事?」

「知りたいがこのままにしておくのは心配だ」

「大丈夫だ。こうなった時は毎度の事だよ。早く済ます為にも、もそっとこっち来ない」

 男が倫子からほんの数メートル離れるとここらで良いだろと言って足を止めた。俺は倫子の姿を見つめながら男の傍に行った。

「そうやって見てれば平気だ。土を掘ってるだけだから怪我なんてしないさ。あんたも掘ったんだろ?」

「ああ」

「土、柔らかかったろ?」

 なんで知ってるんだ? と思った俺は男の顔をじっと見つめた。

「そんな怖い目で見るなって。倫子ちゃんが何度も掘ってるんだよ。だから土が柔らかくなってんだ」

「倫子ちゃんは何か病気なのか?」

「精神的にちょっと駄目らしいんだよ。なんでも両親が目の前で殺されとかでない。それからああなったらしい。マリサちゃんの親父さんがどこからか連れて来てない。面倒をみてたんだ。ずっと平気だったんだよ。だけど、マリサちゃんの親父さんが死んじまってからかない。精神的にショックな事があったりすんとあんな風になっちまう時があるんだ」

「元に戻すにはどうすれば良い?」

 倫子の方を見ると倫子は懸命に土を掘っていた。

「俺達には無理だよ」

「なんでだ?」

「マリサちゃんにしかできないんだ」

「マリサはいつもどうしてるんだ?」

「ぐっと抱き締めてよ。大丈夫大丈夫って何度も優しく言うんだ。まるでこの子の本当の母親みたいにだ。あんたにできるかいそんな事?」

この子の本当の母親みたいに……。倫子の事を何も覚えていない俺にそんな事ができるのか? だが記憶がなくっても俺だって倫子の事が心配なんだ。俺は倫子に向かって足を踏み出した。

「悪い事は言わないよ。マリサちゃんを呼んできない。あんたがやってもっと症状が悪化したらどうすんだ?」

 俺は足を止めた。そうだ。この公園に来たばかりの時、倫子を抱きかかえようとして叫び声を上げられたではないか。どうする? ここで焦って余計な事をして倫子の症状がより悪くなってしまったら。

「早くマリサちゃんを呼んで来ない」

「分かった。倫子ちゃんを頼む」

 俺は駆け出した。だがすぐにはっとしてまた足を止めた。

「どうしたい?」

「マリサと倫子ちゃんは今喧嘩してるんだ。それで倫子ちゃんが家から飛び出て行ってしまって。すっかり忘れてた」

「それでこの有様かい。かー。そりゃ困ったない。マリサちゃんが来たら余計に症状が悪化するかも知れねえない」

 男が心底困ったというような顔になりながら倫子の方を見た。俺も男の顔の動きにつられるようにして倫子の方を見た。倫子は黙々と土を掘っていた。

「とにかくこのままにはしておけない。土を掘る事だけでもすぐにやめさせないと」

 俺は倫子の傍に行った。

「お兄ちゃん。話は終わったんですか?」

 倫子が掘る手を止めて顔を上げた。

「終わった。倫子ちゃん、一度家に帰ろう」

「嫌です。ここに埋まってるんです。会いたいんです」

 倫子が土を掘り始める。

「とにかく一度やめるんだ」

「嫌です。掘るんです」

 これくらいなら大丈夫だろう、いや、大丈夫であってくれと願いながら俺はしゃがみ込むと倫子の両手を両手で掴んで止めた。

「お兄ちゃん?」

「倫子ちゃん。お願いだ。俺の言う事を聞いてくれ。必ず後でまた掘るから今はやめてくれ」

「お兄ちゃん」

 倫子が小さな声で呟いた。

「分かりました」

 倫子が小さく頷いた。言う事を聞いてくれた。俺はやったと思いながら男の方を見た。

「これは。こんな事になるとはない」

 倫子の事を見つめていた男が独りごちた。

「お兄ちゃん。思い出した事があるんです」

「なんだ?」

「その前にぎゅっとして下さい」

「ぎゅ?」

「こうやって、ぎゅ、です」

 倫子が俺の両手の中からそっと自分の両手を抜くと俺に抱き付いて来た。

「えっと、これは?」

 俺はどうして良いか分からず戸惑いおろおろしてしまった。

「ぎゅっと抱き返してやんない」

 男が右手を上げるとサムズアップした。何が抱き返してやんないだ。無責任な奴だな。抱き返したりなんかして大丈夫か? まあ、この子はまだこんな年だし。さすがにマリサみたいにはならないよな? 駄目だ。マリサの事が完全にトラウマになってる。

「ぎゅ、してくれないんですか?」

 倫子が不安そうな声で呟いた。

「分かった」

 俺は恐る恐る倫子の華奢な小さな体に手を回すと軽く触れるような感じで抱き締めた。倫子が俺の耳元に顔を寄せて来た。

「ノートがあるんです。お兄ちゃんとの生活の事を書いたノートです。マー姉ちゃんが書いてたんです。マー姉ちゃんが駄目だと言っていたので私は中身を一度も見た事がないですけど、それを見れば何か分かるかも知れないです」

 俺は顔を横に向け、倫子の顔を見ようとした。

「遅いと思って来てみれば。あんたら何やってんの?」

 不意にマリサの不機嫌そうな声がしたので俺は反射的に飛び上がるようにして倫子から離れた。

「マリサ、いつ来たんだ?」

 マリサが睨むように俺を見た。

「なんか文句あんの?」

 なんでマリサはこんなに不機嫌なんだ? それになんだって俺は倫子からこんなに焦って離れたんだ?

「おーい。マリサちゃん。喧嘩は駄目だよ。倫子ちゃんと早く仲直りしない」

 男がマリサの傍に行った。

「あんたか。見ててくれたの?」

「この二人がそこで穴を掘ってたからない」

「穴を?」

 マリサが穴の方に顔を向けた。

「ちゃんと見てないと駄目だない。お兄ちゃんが凄く心配してて見てらんなかったよ」 

 男がにやっと下卑た笑いを顔に浮かべると俺達に背を向けて歩き出した。

「で、なんで抱き合ってたの?」

 歩き去る男など眼中にない様子でマリサが言った。

「マリサ。その話は後だ。倫子に謝ってやれ」

 マリサが一瞬凄まじく不愉快そうな顔をしてからふっとその表情を緩めると泣きそうな顔をした。

「倫子。ごめん。あーし何やってんだろ。本当にごめん」

「マー姉ちゃん」

 倫子が立ち上がるとマリサの傍に行った。

「倫子」

 マリサが倫子を抱き締めた。倫子もそれに応えるようにマリサの体に腕を回した。

「もう大丈夫だな」

 俺は二人の姿を見つめながら立ち上がると小さく安堵の息を吐いた。

「倫子。キリツギ。家に帰ろう」

「お兄ちゃんは穴を埋めてから帰って来て下さい。お願いします」

 ええ? 倫子?

「ちょっと。なんで? 俺?」

「倫子ナイスアイディア。キリツギよろしくなー」

「よろしくです」

 マリサと倫子が体を離しお互いの体に回していた手を放すと手を繋いで並んで歩き出した。

「いや、あの、ええ?」

マリサはともかく倫子のあの様子はなんだ? さっきまでとは全然違うじゃないか。

「どういう事なんだ?」

 心の声が口からぽろっと出た。

「何がよ?」

 マリサが振り返ると怪訝な目を俺に向けて来た。

「いや。なんでもない」

 反射的にそう言ってしまった。

「ならさっさと埋めて帰って来な」

「帰って来るんです」

 まあ、良いか。二人が仲直りしたんならそれで良いな。俺は穴の傍に行くとしゃがんでから穴の横に山のように積まれている土の一部を穴の中に落とした。ざざーっというビニール袋か何かに土が当たる音が穴の底から聞こえて来た。

「おう? なんだ?」

 俺はぼそぼそと呟きながら穴の底を見た。だが暗くて良く見えない。そういえば倫子はマリサが埋まっていると言ってたな。まさか? いやいや。マリサは生きてたじゃないか。じゃあ一体何が埋まってるんだ? 俺は両手を穴の縁に突くと顔を穴の中に入れた。

「おわっ」

 両手に体重がぐぐっとかかった途端に片方の手を突いていた穴の縁が崩れた。俺は頭から穴の中に落っこちてしまった。そうだった。この辺りの土は柔らかかったんだ。少し考えればこうなるだろうと予想できたはずなのにまったく何をやってんだ俺は。自分の馬鹿さ加減と頭や肩から感じる痛みとに泣きそうになりながら体の向きを変えようと穴の底に両手を突いた。片方の手の掌全体にビニール袋のような物の感触があったと思うとがさがさと音が鳴った。

「これか」

 俺はビニール袋らしい物を片方の手で掴みながら体の向きを変えた。頭が穴の中から出たのでビニール袋らしい物をがさがさと音を鳴らしながら持ち上げて行ってみると、それが白色のビニール袋だと分かった。白色のビニール袋を穴の外に置き自分も穴の中から出た。穴から少し離れた所までビニール袋を持ったまま行くとビニール袋の透明な厚手のテープで止められている部分をはがし中を見た。

「これは」 

 五冊のノートがビニール袋の中には入っていた。五冊のノートの表紙を見てみると四冊にはこの年月日からこの年月日までというような感じの年月日が書き込まれていてそれらのノートが一冊のノートに書かれていた一番古い年月日から順番に続けて書かれている事が分かった。だが他の四冊のノートに書かれていたどの年月日よりも新しい年月日が最初に書かれていた一冊のノートだけは後の方の年月日が書かれてはいなかった。俺はその場に座り込むとその最初の年月日が一番新しく後の方の年月日が書かれていない一番新しいであろうノートの適当な場所のページを開いた。ノートのページに書かれていた数行の文字を読んで、俺は見てはいけない物を見た気がしてしまい慌ててノートを閉じた。きっとこのノートは倫子が言っていたノートだ。俺は手の中にある五冊のノートを見つめた。だが、これは一体どういう事なんだろうか? そんな思いが頭の中に浮かび頭の中を埋め尽くして行った。俺は自分の見た物が本当に書かれていたのか信じられなくなって来たのでもう一度さっき見たノートの先ほど見たページを探して開いてみた。そこにはしっかりとさっき見た物と同じ数行の文字が書いてあった。俺はまたノートを閉じると空を見上げて途方に暮れた。

「なんだってこんな事を」

 独り言だって出てしまう。俺が見たページには「倫子の為に死んだマリサの代わりに俺が倫子をこの街から出してやらなければならない。倫子は俺や生きていると思い込んでいるマリサから離れるのを嫌がっているがこれは倫子の為だからしょうがない。俺だって寂しいし倫子とは離れたくない。だが、俺は死んだら記憶を失ってしまうんだ。そうなったらまたすべてを忘れてしまうだろう。そうなる前に倫子をこの街から出してマリサの遺言を実行してやるんだ」と書いてあった。これはきっと俺が書いたんだ。だがなんでこんな事を書いた? 生き返った俺に向けて嘘や冗談を言ってなんの意味がある? ここに書いてある事は真実なんだろうという思いがあったがその思いをすぐには信じる事ができず、信じたくないという思いも生まれて来ていて俺は懊悩した。俺はここにある五冊のノートに書いてある事をすべて読めば今俺が読んだ物が真実であると信じる事ができるようになるのではないかと思った。一番古い年月日が書かれているノートを重ねて持っているノートの一番上に持って来るとそのノートの最初のページを開いてみた。俺はそこで初めて自分が読みたくないと思っている事に気が付いた。読みたくないしこんな事信じたくない。俺はそう思っている。マリサが死んでいて、倫子はマリサが生きていると思い込んでいて。それが本当だったら今はとても酷い状況なんじゃないのか? だが、もしも、そうだとして、それが真実だったとして。そうなるとあのマリサは誰だ? 倫子だってマリサと呼んであんなに懐いている。いや。待て。マリサが二人いるとしたら? マリサは双子とかだったとしたら? だがさっき読んだ部分にはマリサが死んだと書いてあった。二人いるなんて一言も書いてなかった。あ。そもそもなんで俺はさっき読んだ部分を俺が書いたなんて思い込んだんだ? 誰が書いたかなんて分からないじゃないか。頭の中が疑問やら様々な思いやらでぐちゃぐちゃになって来た。とにかく全部読もう。読まなければ始まらない。読みたくなくても信じたくなくてもこの頭の中に生まれてしまった物を処理するには読まなければ駄目だ。俺は半ば自棄になりながらノートに書かれている文字を目で追い始めた。


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