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つぎはぎざあんでっど  作者: 風時々風
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 ノートをすべて読み終わってからもしばらくはその場から動けなかった。そこにはどう考えても創作や嘘や冗談ではないマリサと倫子という人間の生きて来た姿が書かれていた。そして。最初に見た数行の文字は俺が俺に宛てて書いていた文の一部でその前後にはマリサがなぜ死んだのかという事とここに書いてある事をすべて信じろと書いてある事も分かった。

「倫子をこの街から出して、あのマリサが誰なのかを突き止めて」

 俺はこれから為すべき事を言葉にして口から出してみた。どうしようもない悔しさが込み上げて来た。くっそう。なんだって俺はこんな風に記憶を失ってしまうんだ。それになんだって肝心な時に死んでしまったんだ。そうだ。これからは死なないように行動しなくては。死んでしまったら元も子もない。俺はなんとしても生き続けなければと思いながら立ち上がった。まずは家に帰ろう。家に帰って倫子にそれとなくノートを見たと伝えよう。それで倫子がどんな反応をするか見てみよう。後は、あのマリサだ。悪い子じゃないようだが得体が知れない。じゅうぶんに気を付けないと。

「そうだ。帰る前にこのノート」

 このノートはちゃんと隠しておこう。もしもまた。俺は駄目だな。もう自分がまた死んでしまってもこのノートがあればなんとかなるなんて思ってる。だが、俺がどう頑張っても死んでしまう可能性だってある。俺が死んでしまってもこのノートを読めばまた今みたいにマリサの遺言の事を知りここに書いてある事を信じる事ができるはずだ。このノートには人の記憶というか思いというか何かそういう目には見えない物の力が宿っている気がする。俺はビニール袋の中にノートを戻しまだ粘着力の残っていたテープでしっかりと封をするとビニール袋を穴の底に戻した。これで良い。土を戻してノートを埋めると顔を地面からゆっくりと上げた。

「お兄ちゃんよーい。何をしてたんだい?」

 佐藤と名乗っていた中年の男が大きな声を上げつつ公園の出入り口から姿を現した。

「ああ。穴を埋めてたんだ」

 こいつは本当に倫子の知り合いなのか? 俺は佐藤が最初に俺達の前に現れた時の事を思い出していた。このノートを読む前だったら何も思わなかったのだろうが、このノートの中に書かれていた倫子の姿が俺にそう思わせていた。

「ちょっと聞きたい事があるんだが良いか?」

 探ってみるか。

「なんだい?」

 佐藤が俺の方に向かって歩いて来る。佐藤に警戒している事を悟らせないように何事もない風を装いながら俺も佐藤に向かって歩いて行った。

「佐藤さんはあの二人と長い付き合いなんだよな?」

「あ? ああ。そうだない」

 佐藤がすっと目を伏せた。

「残念だない。もそっと今のお兄ちゃんとこのごっこ遊びを続けたかったない」

 無警戒な状態の俺だったら何を突然言ってるんだ? などと考えただけで反応する事すらできなかっただろう。

「避けるとはやるない。体はしっかりと戦い方を覚えているようだない」

 佐藤は言葉を出しながら刃渡りが十五センチくらいのジャックナイフを俺の喉元目掛けて振るっていた。

「お前は何者だ?」

「そう聞かれて答える奴は、はあ、いないだろうない。でもない。教えてやる。あんたは死ねば記憶がなくなるからない。生き返っても関係ないからない。しかしおかしな話だない。普通は殺せばそれで終わりなのにあんたにはまだそれからがある。はあ。記憶がなくなるから死んでるのと変わらないのかも知れないけどない」

 佐藤がナイフを構えている手を下ろした。俺は佐藤の動きを目で追いながら佐藤の次の言葉を待った。

「俺はこれでも軍国主義普及委員会の上級戦闘要員でない。あんたよりは階級は上だ。これで俺が何者かは分かったない?」

「ここで何をしてる? 目的はなんだ?」

「こういう物語のワンシーンみたいなやり取りは初めてだない。そう聞くんだったら最初から聞けば良い。あんたは何者で目的はなんだってない」

「こっちは殺されそうになってんだ。そんな風に考えてる余裕はない」

 佐藤がにやっと下卑た笑いを顔に浮かべた。

「少しずつ心と体が慣れて来てるんじゃないのかい? この状況によ。記憶がなくても戦えるってのはどんな感じなんだろうない。あんたはそんな風に作られてるらしいからない」

「俺の事を随分知ってるみたいだな。だが、今は俺の事は良い」

「そうだったない。目的はない。おお。ないってのは俺の口癖でない。ないって意味じゃない」

「大丈夫だ。それくらい分かる」

 佐藤の言う通り心と体が慣れて来ているのかも知れない。こんな状況なのに笑いそうになっていた。

「目的は実験だない。あんたがここにいると分かってからあんたの近辺を探ったらなんだか面白い事になってると分かってない。それを知った上の連中がこの実験を思い付いた。死んでも生き返る能力を持った人間が普通の、はあ、ここの連中は普通でもないけどない、そんな連中と生活をしたらどうなるのか見てやろう、というような感じの話しだない」

 実験だと?

「いつからだ? まさか、マリサが死んだ事にも関係してるんじゃないだろうな?」

 言葉の途中から体が怒りでぶるぶると震え出した。思い出も何もないただ文章でしか知らないマリサの事を思い胸が張り裂けそうなほどに酷く苦しくなった。

「そんなに怒るない。あれは偶然だ。実験はあんたが倫子に化けたアクレイギアに殺された時からだない。はあ。あのマリサという子の死は良い切欠にはなったけどない」

 アクレイギアが化けた倫子? なんだそれ? 

「化ける?」

「そうだ。アクレイギアっていう仲間がいてない。あんたみたいな能力持ちだ。色々な物に変身できるっていう現実離れした能力を持ってるんだ。はあ。生き返るっていう能力もじゅうぶん現実離れしてるけどない」

 変身? そんな事ができるのか? だが、俺の事もある。それにそんな能力があるとすればマリサの事も納得できる。

「ぴんと来たようだない。あのマリサちゃんだ。今のマリサちゃんはアクレイギアが化けてるんだ」

 そういう事だったのか。

「なあ。ここは引き下がってくれないか? 俺は倫子をこの街から出さないといけない。それが終わったら俺はどうなっても良い。殺すなりなんなり好きにしてくれ」

「お兄ちゃんよ。ノートはどこにある?」

「教えたら引き下がるか?」

「それは無理だない。お兄ちゃんの記憶は消せるからない。ノートさえ処分できれば何もなかった事にしてやり直せるからない」

 佐藤がジャックナイフを持つ手を上げるとファイティングポーズをとった。

「今度は不意打ちはしないんだな」

「また避けられても困るからない」

 佐藤がナイフを素早く真っ直ぐに突き出して来た。俺はそれを体を横にずらして間一髪で避け佐藤のナイフを持つ手を取ろうとした。

「やるない」

 佐藤がもう片方の手も突き出して来た思うと横に薙いだ。俺は後ろにさがってそれを避けた。

「これも避けるとはない」

 横に薙いだ手の方にもいつの間にかジャックナイフが握られていた。

「なあ、一本こっちにくれないか?」

「お兄ちゃんは面白いない。こいつは職人の手作りでない。人にやるほど安くはないんだ」

 佐藤がすっと音もなく一瞬で間合いを詰めて来た。

「これで終わりだない。また後で会おう。もっともその時はお兄ちゃんは俺の事を忘れているだろうがない」 

 佐藤の二本の腕が別々の生き物のように蠢きながら襲い掛かって来た。避け切れない。そう思った俺は左腕を失う覚悟でガードしようとした。

「好い加減にしな」

 マリサの声と一発の銃声が重なって聞こえ佐藤の足元の地面が爆ぜた。

「マリサちゃん」

 佐藤が手を止めるとマリサの声と銃声のした方に顔を向けた。

「ナイフを捨てるんだ」

「おいおい。マリサちゃん。どういうつもりだい?」

 佐藤がそう言いながら二本のナイフを地面の上に落とした。

「キリツギに手を出す奴をあーしが許すはずないだろ」

 マリサが銃の引き金を引いた。銃声が三度鳴り佐藤の体に三つの穴が穿たれた。

「おいおい。はあ。まいったない。俺は生き返ったりはしないんだない。ここで終わりとはない。物語のワンシーンに出て来る脇役みたいだない」

 佐藤が崩れ落ちるようにして倒れた。

「キリツギ。大丈夫?」

 マリサが俺に近付いて来た。

「こいつはお前の仲間じゃないのか?」

「は? 何言ってんの?」

 マリサが心底こいつは何を言い出すんだ? と思っているというような顔をした。

「俺はもう全部知ってる。お前はマリサじゃない。アクレイギアって奴が変身してるんだろ?」

 マリサが銃を腰のホルスターにしまった。

「あーあ。あんた馬鹿じゃないの。なんでそんな事言っちゃうかな。あーしがこうやって芝居してるんだからそのまま知らない振りして合わせてとけば良いのに。あーしは今のこの生活がそこそこ気に入ってんだ。あんたが今まで通りにするんなら今あった事は忘れても良い」

 俺はマリサの真意を探ろうとじっとマリサの目を見つめた。

「うふ。熱視線」

 いきなり何を言ってんだこいつは。

「俺は倫子をこの街から出してやりたい。協力してくれるか?」

 マリサが俺に近付いて来た。

「無視かよっ。まあ良いよ。それはあんた次第。あんたがあーしの言う事を聞いてくれるなら協力してやる」

「何をさせる気だ?」

 マリサがいきなり抱き付いて来た。

「お、おい。何をやってんだ」

「抱き付いただけ。そんなに驚くなよ。あーしがたまにこうやってスキンシップしたくなったら黙ってやられる事」

「そ、そんな事、無理だ」

「なんで?」

「なんでって、お前のそれは過剰過ぎだし、恥ずかしいし、俺はお前の事をそういう事をする相手だと思う事はできない」

「どうして? 魅力ない?」

 マリサが俺から離れたと思うと自分の体をじろじろと見始めた。

「結構良いと思うけどな。ああ。もっと大きい方が良い? おっぱいとかお尻とか」

 そういう事じゃないっ。

「とにかく無理だ。頼む。今の生活が気に入ってるんだろ? だったら何も言わずに協力してくれ」

 俺は深く頭を下げた。こいつならなんとか分かってくれるんじゃないかと思った。

「うーん。そうだなあ。じゃあさ。あーしが別の姿になったらどう? もっと大人の女とかにさ」

 まだ言うのか、しつこい奴だと思いながら俺は頭を上げた。

「それから離れろ。俺はそういう事に興味はない。大体お前は良いのか? 俺は忘れるんだぞ? 次に死んで生き返ったらお前に会っても、もう誰だか分からないんだ。そんな状況になってお前は耐えられるのか?」

 マリサがしょうがないなというような顔をした。

「あーしはね。もう何度もそんな目にあってんだ。あーしの事どこまで知った?」

「お前がアクレイギアという奴で軍国主義普及委員会の一員で変身する能力を持ってるって事は知ってる」

 マリサが横を向くと遠くを見るような目をした。

「あーしがあんたを殺した事は聞いてないの?」

「聞いた。だが今はそんな事どうだって良い。俺は倫子をこの街から出してやりたい。それさえできれば良い」

「なんでそんな事にこだわるの?」

「ノートに遺言があった。あのノートを読んで俺はマリサという子の思いを知ったような気がした。それは何よりも重く大切で尊い物のような気がする。俺はそういう物を託されたんだ。死んでも生き返ったり、死んだら記憶がなくなったりするおかしな俺にそんな物を託してくれたんだ。理由はそれだけでじゅうぶんだ」 

 マリサがいきなりの俺の顔を拳で殴った。

「びょふ。お前、いきなり何してんだ」

 びょふってなんだよ。変な声が出たじゃないか。

「あんたが酷い事言うからだ。もっとぼこぼこにしてやりたいくらいだ」

 マリサが俺をまた殴ろうとして拳を振り上げた。

「次やったらいくらお前が女だって容赦しないからな」

 俺は身構えながら怒鳴った。

「き、き、君の馬鹿」

 俺の言葉を聞いたマリサが酷くショックを受けたような顔をしたと思うと声を震わせながら叫び振り上げていた拳を下ろしつつ顔を俯けた。

「な、なんだよ馬鹿って。しかも急に君って」

 マリサの声から深い悲しみが伝わって来たので俺は思わず労わるような気持ちになって言葉を返していた。

「だってそうじゃない。アクは何度も君に忘れられてて。その度にその辛さを味わってて。それでも君の事が好きだから何度でも何度でも我慢してて。それなのに全然知らない初めて会った女の事そんなに大切にしててさ。アクはどうすれば良いの? こんなに頑張ってるのに、君は酷いよ」

 俯いているマリサの、いや、アクレイギアの、ああー、こんがらがるからマリサで良いや、の目から涙の雫が落ち地面の上に小さな染みをいくつか作った。

「えっと、なんていうか、なんか、悪い。俺は、こんなだから。人の気持ちとかも、良く分からないんだ。今だってこんな風に言ってるが、それはお前の事を知ってる人間だから言ってるんじゃない。目の前で女の子が悲しそうにしてるから言ってるんだ。そうだ。きっと、上辺だけなんだ。だから。きっと、俺のさっきのあの遺言に対する思いもそんなもんだなんだと思う。だから、そんな風に泣いたりしないでくれ。俺は軽い空っぽの何もない、なんというか、取りに足りない奴だから」

 マリサが顔を上げた。

「そんな君が好きなんだもん。しょうがないでしょ」

 マリサが飛び付くようにして抱き付いて来た。

「お、おい」

 マリサが俺の顔を見上げて来る。その瞳が涙に濡れて光っていた。

「何?」

「なんでもない」

 俺は顔を横に向けてマリサの顔を見ないようにした。

「君の馬鹿」

 マリサが俺の胸にぎゅっと顔を押し付けて来た。

「お、おい。ちょっと何を」

「我慢しろ。やっと会えたんだぞ。君が行方不明になってからアクがどんな気持ちでいたか考えた事あるか? ないだろ? だって君はアクの事なんかなんにも覚えてないもんな。あの時、倫子に変身して殺したのは悔しくて憎かったからだ。アクを放っておいて楽しそうにして。君の馬鹿馬鹿馬鹿」

 なんだろう。これは。俺の事をこんな風に思ってくれている奴がいるなんてな。俺は何も覚えてないのに。

「分かった。多少の事なら我慢する。だが、家でやったようなのはなしだ。良いな?」

「何が良いな? だよ。偉そうに。それくらいじゃ全然喜んだりなんかしないんだから」

 マリサが俺の胸から顔を放すと、両目を両手で擦りながら唇を尖らせた。

「そう言ってる割には声が嬉しそうだぞ」

「どこがよ。勝手な事言ってると撃ち殺すよ?」

 やばい。前例があるみたいだからな。こいつは本当に撃ちそうだ。

「分かった。撃たないでくれ。今は死ねない。倫子の事を」

 は!? 余計な事を言ってしまったか?

「あの子をこの街から出すんでしょ。良いよ。協力する。あの子がいなくなったらこの実験はたぶん終わると思うから。この生活ができなくなるのはちょっと残念だけどさ。でもそうしたら君は前みたいにアクと一緒に任務をする事になる。こうなったらとっととあの子を街から出してやる」

「ありがとう。そう言ってくれると助かる」

「何、その顔と声」

 そう言いながらマリサが嬉しそうに微笑んだ。

「あ、そうだ。倫子はどうしてる?」

 マリサの笑顔が眩しかったのでとぼけるように聞いた。

「家で寝てる。家出して疲れたみたい」

「じゃあ、帰るか。起きて一人だったら寂しがりそうだ」

「すっかり本当のお兄ちゃんみたい」

 お兄ちゃんか。この記憶もきっと忘れてしまうんだろうな。俺達はどちらともなく歩き出した。

「あ。でも、倫子は駄目。倫子ちゃんって呼んでたでしょ。なんで急に呼び捨て?」

「え? いや、頭の中ではずっと呼び捨てだ。本人がいないから今はそれが口から出ただけだ」

「あの子の事、絶対呼び捨てになんてしないで。それはアク、あーっと、あーしだけの特権なんだから」

 何を嬉しそうに言ってんだまったく。

「ねえ。キリツギはどうしてあーしの事、最初からマリサって呼び捨てにしたの?」

「どうしてだっけ。ああーっと。そうだ。あの時は状況が状況だったからな。いきなりあんな事して来る奴の事をマリサちゃんなんて呼べないだろ」

「それって、駄目な呼び捨てって事?」

「呼び捨てに駄目も何もないと思うぞ」

「あるね。駄目じゃない方の呼び捨ては昇格だよ。愛だよ。他人から親しい人に変わった証拠だよ」

「ああ。なるほどな。それはあるかもな」

「でしょ。じゃあ今は? 今の呼び捨ては?」

 マリサが俺の腕に自分の腕を絡めて来た。

「お前、そういう事は」

「殺すよ?」

 ううう。

「分かった。だがあんまりくっ付くなよ」

「ねえ。今は? 今の呼び捨ては?」

 なんだろう。なんかくすぐったくて困るな。俺は記憶がなくなるからこういうのはやめた方が良いのに。

「普通?」

「普通? 普通って何?」

 普通の呼び捨て。親しくもなく駄目でもない。普通の呼び捨てってあるよな?

「なんの感情もないけど呼び捨て?」

「なぜに疑問形? キリツギ。死にたい?」

「お前の死にたいも疑問形じゃないか」

「あーしは良いの。あーあ。でもこの姿だもんな。呼び捨てにされても愛されても何をされても今のあーしはアクじゃないからな」

「そんな風に悲観する事もないと思うぞ。俺には記憶がない。お前がマリサだと思って接してはいたが、それはマリサという人物を知ってて接して来たんじゃないからな。俺は姿形を認識して接して来たんじゃないんだ。中身のお前と接して来たんだ」

 んん? ちょっと自分でも何が言いたいのか分からなくなって来た。

「君」

 マリサが至極嬉しそうに弾けるように言いながら足を止めたので腕を引っ張られた俺も必然的に足を止めた。マリサが目を閉じ唇を突き出しむーとか言いながら顔を俺の顔に近付けようとして来た。

「お前、何やってんだ。駄目だ。そいうのは駄目だ。殺されるのは困るがそういうのは駄目だ」

「ちぇっ。キリツギのケチ」

 マリサがその仕草をやめると歩き出した。俺も腕を引っ張られてまた歩き出す。

「ねえキリツギ。あーし良い事思い付いちゃったんだけど」

「なんだ? さっきみたいな事じゃないよな?」

「違うよ。倫子の事。うちの組織に頼んじゃおっか? 一般市民と下層市民とか面倒そう」

「どういう事だ?」

「うちの組織ってそれなり力とかあるからさ。たぶん倫子をこの街から出すのだって簡単にできると思う」

「それは駄目だ。犯罪組織の手は借りられない。俺達で、お前が嫌なら俺だけでやる」

「なんだよ。そういう言い方されると傷付くな。嫌とかじゃない。その方が楽で早いかなって思って言っただけ」

 そういえば倫子をこの街から出す為に具体的に何をすれば良いのかはマリサの日記には書いていなかった。

「倫子を一般市民にする方法の事、何か知ってるのか? マリサの日記には具体的な方法の事なんかは何も書いてなかった」

「知らないけど、役所とかに行けば良いんじゃない?」

「そうか。そういえば役所の場所も知らないな。まずはそこからか」

「そうだね。二人で頑張ろう」

「ああ。頼むな」

「え? うん。分かった」

 マリサが一瞬きょとんとした顔をしてから慌てて大きく嬉しそうにしながら頷いた。家に到着し二階に行くと倫子はベッドの上で静かに寝息を立てていた。

「こう見ると普通のどこにでもいるような女の子なのに、この子も本当にかわいそうな子」

 マリサが倫子の傍に行くとそっと優しく倫子の頭を撫で始めた。

「本当にな。心まで壊れてしまってる」

「あーしの事本当のマリサじゃないって分かってるのにそれを絶対に認めないようにしてて、マリサだって思い込むようにしてる。今日みたいなのはたまにあってね。あーしがこの子のこうだって思ってるマリサと違うような事をするとおかしくなるんだ」

 俺はマリサの顔から倫子の顔に視線を移した。

「こんな状態で街から出して良いのかな」

「何言ってんの? さっきまでは絶対にやるって言ってたのに」

「やるさ。だが、ちょっと不安になってな」

「環境を変えた方が良いんだよ。記憶ってのは時間が経つと段々薄れて行くもんだからね。そりゃ薄れない記憶もあるけどさ。それでも、やっぱり少しずつ、本当に少しずつだけど、時間が解決してくってあると思う。だからこの子はここから離れた方が良い。あーしが言うんだから間違いないよ」

 俺はマリサの顔を見た。倫子の顔を遠くを見るような目でマリサは見つめていた。

「何かそういう記憶があるのか?」

「うん。ある。まあいつか機会があったら話したげる」

「もったいぶるじゃないか」

「そんな簡単に言えない事って生きてるとあるもんなの。記憶がなくなるあんたには分からないでしょうけどね」

 マリサが意地の悪そうな笑顔を作ってから舌をちょろっと口から出した。

「記憶がなくなるってのは便利なんだか不便なんだか分からなくなるよ」

「あーしはどんな事でも忘れたくない。けど、しょうがないとも思う。そう思ってもさ。生きてると辛い事あり過ぎだし。忘れたくないけどさっき言ったみたいに薄れてくれて助かる事もあるからさ」

 マリサが倫子の頭を撫でていた手を止めた。

「役所の事はネットで調べれば良いでしょ」

「ネット環境なんてこの家にあるのか?」

「あーしを誰だと思ってんの? あーしはマリサである前にアクなんだよ。アクの方はなんでも周りにある環境で生きてんの。ちょっと出て来る。佐藤の事もあるから。報告ついでに調べて来る」

 マリサが歩き出し俺と倫子から離れて行く。

「ちょっと待った。平気なのか? 佐藤の事」

「心配してくれんだ?」

 マリサが足を止めて振り向くと俺に向かって両手を広げながら抱き付こうとして飛んで来た。それを俺は横に動いて避けた。

「気を付けてな。それと役所の事調べたら、一般市民にする方法も調べておいてくれ。きっと案内みたいのが出てるだろ」

「ちょっと。冷たくない?」

「おかしな事するからだ」

「あーし、帰って来ないかもよ? 裏切ったとかで殺されるかも」

「俺は本気で心配してるんだぞ。それなのにそんな風に抱き付こうとなんかして」

「良いじゃない。普通だよ」

 マリサがまた抱き付こうとして来た。俺もまた避けた。

「普通じゃない」

「嬉しいからやってるだけなのに。それに君は多少の事なら我慢するって言った」

「そういうのは今はなしだ。倫子の事もある」

 俺は倫子の方に目を向けた。倫子がぱっと目を開けた。

「倫子。起きたのか?」

 俺は少し狼狽えながら声を掛けた。

「じゃあ、あーしは行って来る。遅くなるかも知れないから、その時は適当に二人で過ごしといて」

 マリサが逃げるように部屋から出て行った。

「マー姉ちゃんはどこに行ったんですか?」

 倫子がゆっくりと上半身を起こしながら言った。

「役所の事を調べに行った。倫子ちゃんの一般市民の件だ」

「お兄ちゃん。どうしそれを知ってるんですか?」

 俺はノートを全部読んだ事を話した。

「そうですか。ノート見たんですか。良かったです。でもここから離れたくないです」

「マリサの気持ちを大切にしてやって欲しい」

 倫子が優しい笑みを顔に浮かべてからゆっくりと目を閉じると顔を俯けた。

「お兄ちゃん。ごめんなさい」

「どうした急に?」

「あのノートと一緒に置いてあったメモがあるんです。でもお兄ちゃんに読まれたくないから隠したんです」

「そうか。何が書いてあったか聞いて良いか?」

 倫子がベッドから下りると、マットレスとベッドの床板の間に手を入れた。

「これです」

 倫子が一枚の紙片をマットレスの下から取り出した。

「見ても良いのか?」 

 俺は倫子の持つ紙片を見ていた目を上げて倫子の顔を見た。倫子が真っ直ぐに俺の目を見つめて来ると小さく頷いた。

「はい」

 俺は倫子の手から紙片を受け取ると、そこに書いてあった文字を目で追った。

「倫子ちゃん。メモを見せてくれてありがとう」

 メモを読み終えた俺は言いながらメモから視線を上げた。

「いつですか?」

 メモには既に倫子を一般市民する手続きや必要な金額の入金などは終わっていて後は倫子を役所の担当の職員の手に渡すだけになっていると書いてあり渡す日の日付らしき物も紙片の端の方に書いてあった。

「この日付の日はもう過ぎてるんだよな?」

「はい。お兄ちゃんが死んでる間に過ぎました」

「そうなると早い方が良いとは思う。だが、倫子ちゃんの気持ちの事もある。倫子ちゃんはいつが良い?」

 このメモを隠すほどだからよほど嫌だったんだろう。本当はすぐにでも行かせたいが、無理強いはできない。

「倫子です。なんでマー姉ちゃんは呼び捨てにして私は倫子ちゃんなんですか?」

 倫子が急に怒り出した。

「急にどうした? それは、あれだ。マリサはちょっと変だろ? あんな奴の事をちゃんなんて付けて呼びたくない。倫子ちゃんの方はちゃんと認めてるからな。だからちゃんって付けて呼んでるんだ」

 余計な事を言ったか? 認めてるってなんですか? なんて聞かれたらまずいな。

「認めてるって何をですか?」

 そう来たか。そう来るよな。だが、何も考えてないぞ。

「それは、ほら。倫子ちゃんはしっかりしてるだろ? 俺の事も凄く良く気遣ってくれるしな。だから、ああーっと、尊敬かな。そう。尊敬。認めてるって言い方が良くなかったのなら尊敬って置き換えても良いな」

 倫子がじいーっと音が聞こえて来そうなほどに俺の顔を見つめて来た。俺はゆっくりと倫子の視線から逃げるように少しずつ少しずつ横を向いて行った。

「目をそらしました」

「ああ~。今のは凄く見つめられたからだ。さすがにそれだけ見られるとな。なんだか、恥ずかしくなる」

 俺は倫子の方に顔の向きを戻した。倫子がくすっと小さく笑った。

「お兄ちゃん。できるだけ早く行きたいです。けど、行く前に一つだけお願いがあります」

 倫子の表情がぱっと何かを思い詰めているような真剣な物に変わった。

「それで良いのか?」

「はい。時間が経つと行きたくなくなってしまいます」

「そうか。分かった。それでお願いってのはなんだ? 俺にできる事ならなんでもしてやる」

「なんでもですか?」

 倫子の表情が緩み瞳がきらきらと輝いた。

「おう。なんでもだ」

 たぶん、もう二度と会えないからな。なんでもしてやりたい。

「じゃあ、ちょっと考えます」

「ああ。待ってるからゆっくり考えろ」

 倫子がベッドの端にとすんと小さな音をたてて座った。俺は真面目な顔になって黙考している倫子の姿をじっと見つめながら、マリサが戻って来たらメモの事を話し役所に行って倫子を引き渡す日を改めて決めなければならないと思った。

「お兄ちゃん」

 倫子が言いながら立ち上がった。

「なんだ?」

 俺は自分でも驚くほどに優しい声を出していた。

「お願い決まりました。マー姉ちゃんとこれからもずっと一緒にいてあげて下さい。これが私のお願いです」

 そんなお願いをされるとは思ってもいなかった。俺はすぐにはどう返事をして良いのかが分からず倫子の顔を黙ったまま見つめた。

「嫌ですか?」

 倫子が唇を尖らせ、少し批難するような声色で言った。

「嫌じゃない。だが、難しい。マリサの気持ちもある。それにお前は本当にそのお願いで良いのか? お前の事じゃないじゃないか」

 頭の中に浮かんで来た言葉をそのまま口から出した。倫子が笑顔になりながら頷いた。

「はい。それで良いです。マー姉ちゃんはお兄ちゃんの事が大好きです。だからマー姉ちゃんの気持ちは平気です。後はお兄ちゃんの気持ち次第です」

「倫子ちゃん」

 この子は本当にマー姉ちゃん、マリサの事が好きなんだ。

「倫子と呼ぶんです」

「悪い。つい」

 俺が言うと倫子がかわいらしい笑い声を上げた。

「私は持って行く物の用意をしてしまいます。前に一度途中までしたんですけど、それは元の場所に全部戻してしまったんです」

「そんなに慌てなくても良いぞ。一度役所に行って話をして来るからその後で良い」

「でも、やっちゃいます。さっきも言ましたけど、行きたくなくなると困りますから」

 倫子を無理に追い出そうとしているような気持になって来た。俺は正しい事をしているんだろうか。そんな思いが頭の中に浮かんで来て消す事ができなくなった。

「ただいま」

 一階からマリサの不機嫌そうな声が聞こえて来た。

「帰って来たな」

 俺はマリサの声を聞いて階段の方に向けた顔の向きを倫子の顔の方に戻しながら言った。

「はい」

 倫子が嬉しそうに微笑んだ。

「マー姉ちゃん。お帰りなさい」

「マリサ。どうだった?」

 マリサが階段から上がって来るとすぐに俺と倫子は声を掛けた。

「倫子。ただいま」

 マリサが倫子の傍に行き倫子の頭をそっと数回優しく撫でた。

「くすぐったいです」

 倫子が嬉しそうにしながら子猫が人に甘えるようにマリサに抱き付いた。

「キリツギ。ちょっと下行こ。倫子。ごめん。あーし達大事な話をしなきゃいけないんだ」

 倫子が顔を上げるとマリサの目を何かを訴えるような眼差しでじっと見つめた。

「ここで良いです。私は何を聞いても平気です」

 マリサが困ったなというような顔になってから俺の方をちらっと一瞬だけ見た。

「でも、これはちょっとね。倫子。とりあえず先にキリツギだけに話をさせて。後で倫子にも言うから」

 倫子がマリサから離れた。

「分かりました。じゃあここで待ってます」

「ありがと」

 マリサが愛おしそうに倫子の頭をまた数回撫でてからキリツギ行くよと言って階下に向かった。

「倫子。すぐに戻る」

 俺はベッドの端にちょこんと座った倫子のはいという声を聞きながら歩き出した。一階に行くとマリサが食事の時に使っている木製のぼろいテーブルとセットになっているプラスチック製のやっぱりぼろい椅子に座りながらもう一つあるこれもやっぱりぼろいプラスチック製の椅子を俺にすすめて来た。

「大事な話ってなんだ?」

 俺は椅子に座るとすぐにそう切り出した。

「倫子の一般市民の事だけど、あれは、嘘みたい。マリサ達は騙されてたっぽい。ネットで調べたら何も出てなかった。それから役所の方にも行ってみたんだけど、そっちにも何もない。何人かの職員に聞いてみたらちょっと嫌な話を聞いた」

「そんな馬鹿な。お金を入金して手続きだって終わってるってメモがある」

 思わず大きな声が出た。

「その手続きなんだけどさ。担当してたっていう職員は死んでんだ。それはまあ、ちょっとした事情があるから良いんだけど、他の奴ら何も知らないの。そもそもそんな手続き自体がないみたい」

「事情ってなんだ? お前、何か知ってんのか?」

 俺はかなりきつい口調で言った。

「その職員を殺したのあーし達なの。その時は倫子の一般市民の事は知らなかったんだ。ただこの家の事を詳しく知ってそうだったから。今のこのあーしが入り込んでる状態を作るのに邪魔になると考えられたの」

「なんで殺したんだ。そいつが何か知ってるかも知れないじゃないか」

「それはないと思う」

「どうしてそんな事が言えるんだ?」

「それは」

 マリサが言い淀んだ。

「それはなんだ? 何を知ってる?」

「そういう詐欺をやってる職員達がいた。本人達を見付けて聞いたの。だから間違いない」

 マリサが俯きながら言った。

「じゃあ倫子を一般市民にするっていう嘘で騙されてマリサはお金を取られただけって事か?」

 そんな馬鹿な。マリサはそのお金を得る為に死んだんだぞ。

「うん」

「ふざけるな」

 俺は役所に行って直接職員達に話を聞こうと思うと椅子から立ち上がった。

「どこ行くの?」

 マリサが顔を上げ大きな声を出した。

「役所だ。話を聞きに行く」 

「行ってどうするの? 話を聞いてその後は? そいつらをそのままにできる? 殺したくなるんじゃないの?」

「それは」

 どうすれば良い? 俺に何ができる?

「キリツギ。落ち着いて」

 マリサがじっと俺の目を見つめて来た。

「落ち着いていられるかよ。くっそう。なんでこんな事に」

 体がぶるぶると震え出し目から涙が溢れ出て来た。悔しくてやりきれなくて悲しかった。佐藤相手にマリサの事で頭に来た時と似ていた。思い出も何もないはずなのにマリサの事を思うと死にそうなほどに胸が痛くなった。 

「とにかく行って来る」

 殺すとか殺さないとかそんな事はどうでも良い。行こう。このままここで何もしないでいるなんて無理だ。

「じゃあ、あーしも行く。良いよ。どうせあいつらはどいつもこいつも悪人なんだ。行って皆殺しにしちゃおう」

 マリサも立ち上がった。俺はマリサの殺意に燃えてギラギラと光る目をみつめた。

「ああ。そうだな。行こう」

 それならそれでも良い。全員殺してしまえばマリサと同じような被害者をもう出さないで済む。

「お兄ちゃん。マー姉ちゃん」 

 玄関に向かって歩き出してすぐに階段の方から倫子の声が聞こえて来た。

「倫子? どうした?」

 俺は足を止めると必死になんでもない風を装いながら階段の方に顔を向けた。

「私も行きます」

 倫子は階段の途中に立っていた。倫子は小型の自動拳銃の銃把を右手で握って持ちながら両手で抱えるようにしてホルスターに入った大型の回転式拳銃とコンバットナイフとを持っていた。

「話聞いてたの?」

「はい。大きな声が聞こえたので気になって途中から階段の上の所で聞いてました」 

 倫子が階段を下りて来ると俺の前に立った。

「倫子。お前は駄目だ。家で待ってろ」

 倫子が嫌々をするように首を左右に激しく振った。

「嫌です。行きます。行って殺すんです」

 倫子がコンバットナイフと大型の回転式拳銃の入っているホルスターを俺に向かって差し出して来た。

「この銃はお兄ちゃんが使った事のある銃です。こっちのナイフはマー姉ちゃんのナイフです」

 俺は倫子の手からホルスターとコンバットナイフを受け取った。

「その銃もこっちに渡すんだ」

 空いている片手を倫子に向かって伸ばした。

「渡しません。私も行くんです」

 マリサが俺の傍に来ると俺の持っているコンバットナイフの柄を握りすっとコンバットナイフを鞘から抜いた。

「良いじゃない。一緒に行かせてあげよう。あーし達はいつも一緒だ。家族だもん」

「駄目だ。分かった。俺は行かない」

 俺はテーブルの傍に行くと銃の入っているホルスターとナイフの鞘をテーブルの上に置いた。こんなやり取りの最中におかしな話だが俺は倫子に感謝した。倫子のお陰で怒りに狂っていた頭が冷めて冷静になる事ができていた。

「そう。じゃあ、あーしもやーめた」

 マリサがそう言うとナイフを投げてテーブルの天板に突き刺した。

「お兄ちゃん。マー姉ちゃん」

 倫子が顔を俯けた。

「倫子。銃を。何か別の方法を考える。殺すとかじゃなく何か別の、法律にかなってるようなちゃんとした手段で詐欺をしている奴らに自分達の犯している罪の重さを思い知らせてやろう」

 俺は倫子の傍に戻った。

「嫌です。私は許せません」

 倫子が突然天井に向かって銃を一発撃つと玄関のドアに向かって駆け出した。

「倫子」

「倫子」

 倫子が銃を撃った為に俺とマリサの反応は遅れた。倫子を止めようとしたが俺達の腕をすり抜けるようにして倫子は家から出て行ってしまった。俺とマリサは倫子を追う為に駆け出した。

「こっち」

 玄関を出るとすぐにマリサが声を掛けて来た。

「嘘だろ。もうこんなに離されてるのか」

「あの子、結構足速いのね。ちょっと意外かも。でも大丈夫。これくらいならすぐに追い付く」

 マリサの走る速度がぐんっと上がった。

「道を知ってるのは大きいな。お前が役所に行っててくれて助かった」 

 前を行くマリサの背中を頼もしく思いながら言葉を出した。

「もっと感謝して。あーしがいなかったら今頃キリツギは役所の場所が分からなくって一人で途方に暮れてるはずなんだから」

 十数メートル前方を走っていた倫子が急に右に曲がったと思うと道に沿うように建っている長屋の中に入って行った。

「なんだ? どこに行くつもりだ?」

「きっと近道か何かだと思う」

 俺達は倫子が入って行った長屋の前まで行くと足を止めた。

「どうする?」

 ドアが開いていて家の中が見えた。家の中は真っ暗で誰も住んではいないようだった。

「やめとこ。あーしの知ってる道で行った方が良い。余計な事して道に迷ったら困るでしょ?」

「そうだな」

「早く行こ」

「ああ」

 俺達は再び走り出した。

「追い付くなんて言ってたのに、ごめん。着いちゃった。ここ。ここが役所」

 木造の長屋ばかりの街にそぐわない近代的な建築の五階建てのビルの前でマリサが足を止めた。

「途中で見付けられなかったって事は倫子はもう中にいるって事か?」

「たぶんね」

「この中のどこかか」

 俺はビルを見上げた。

「あーしがさっき来た時に話を聞いた奴らのいる部屋だったら分かる」

 マリサが歩き出しビルの入り口の自動ドアの中に入ったので俺も後に続いた。

「なんの用ですか?」

 すぐに守衛らしき服装した二人の男が現れ俺達の前に立ちはだかった。

「あーしの顔忘れた?」

「お前。また来たのか」

「今度はなんだ?」

 男達が驚き狼狽した。

「小さな女の子が一人ここに来なかった?」

 マリサが言うと男達が一瞬目を合わせてから口を開いた。

「いや。見てない」

「帰ってくれ。ここには誰も来てない」

 マリサが俺の顔をちらり見て来た。

「お前ら嘘ついてるだろ。倫子はどこだ?」

 俺は男達のうちの一人に詰め寄った。

「な、なんだ? やる気か?」

 俺に詰め寄られた男が怯えながらも強がった。

「あんたら、あいつらの仲間なんだ。あーし達今急いでんだよね。さっきは脅しただけだけど、今度は殺す」

 マリサがどこから出したのかいつの間にか手にしていた大型の自動拳銃の銃口を俺と相対している男に向けた。

「ひいぃぃ。や、やめろ。撃つな」

 銃口を向けられた男が頭を抱えて座り込んだ。

「やめろ。銃を下ろせ」

 もう一人の男が腰に付けているホルスターから小型の回転式拳銃を抜きマリサの方に向けた。

「はい? 何? やるの?」

 マリサが不機嫌そうに脅すような口調で言うと持っている銃の銃口を自分に銃を向けて来た男の方に向けた。

「こ、こっちに銃を向けるな。銃を下ろせ」

 男が叫んだ。俺はマリサに意識を集中している為に隙だらけになっているその男に近付くと銃を持つ腕を取り捻り上げながら銃を奪い取った。

「あー。キリツギずるいよー。あーしの獲物なのにー」

「おい。腕を折られたくなければ倫子がどこに行ったか言え」

 捻り上げている腕を更に捻り上げる。

「う、上だ。そこの女が前に来た時に行った部屋だ」

「このー。死ね。死ね」

 座り込んでいた男が腰のホルスターから小型の回転式拳銃を抜きいきなり撃って来た。

「これだから素人は。どうしようもない」

 マリサの持つ銃が火を噴き、銃を撃って来た男の額に赤黒い穴が一つ開いた。

「マリサ。なんで撃った」

 俺は腕を捻り上げている男をその場に座らせながら怒鳴った。

「何それ。たまたま弾が外れたから良いけど撃たれてんだよ? こいつは悪人だ。あいつらの仲間なんだ。死んだって良い。そんな事よりさ。早く行った方が良いんじゃないの? 倫子が危ないと思うけど」

「そうだが、何も撃つ事は」

「はいはい。こっち。早くしな」

 マリサが俺が座らせた男の側頭部を銃把で思い切り殴ってから走り出した。

「やり過ぎだぞ」

 俺はマリサに殴られ倒れた男が生きている事を確認してから後を追った。

「はいはい。ねえ。この建物の中にいる奴らが全員敵だったりして?」

「まさか」

 俺はマリサとともに乗り込んだエレベーターの階数表示を見つめながら言葉を返した。

「上の奴らにあーし達が来た事気付かれてないと良いけど、銃撃っちゃったし無理かな。詐欺みたいな小汚い事をやる奴らって大抵鼻だけは利くしね」

「倫子が無事だと良いが」

「たぶん、捕まってると思う。人質にされたらどうする? 倫子ごと撃つ?」

 俺は何を言ってるんだと責めるようにマリサの顔を見た。マリサは俺の視線を受け止めるとにこっと微笑んだ。

「怖い顔。嘘。冗談。ジョーク。倫子は守るよ。家族だもん。ねえ、キリツギ。死なないでよ。ここで死んで記憶がなくなったら最悪だから」

「冗談で良かった。お前なら本気で倫子も殺しそうだ。もし俺が死んだら後の事は頼むな。お前だけでも生き残って倫子をみてやってくれ」

「何それ。無責任過ぎ。あのさ」

 マリサがそこで言葉を切って押し黙った。

「どうした? あのさの続きは?」

 俺が聞いて来た事に満足したような笑みをマリサが顔に浮かべた。

「ねえ。もしもだよ? もしもだけど、記憶がなくならないようにできるとしたらどうする? しかも、今までの失ってた記憶も全部取り戻す事ができるとしたら」

「急に何言ってんだ? そんな事できるはずないだろ」

「死なない人間を作ったり変身する人間を作ったりできるんだよ。本当にできないと思う?」

「なるほど。そう言われるとできるのかも知れないって思えて来るな。もしも、できるとしたら」

 俺はどうするんだろうか?

「できるとしたら?」

「記憶を戻してもらって、記憶がなくならないようにしてもらうかな」

「なんでそう思ったの?」

「あのノートを読んで倫子と短い間だが一緒に過ごしたからじゃないか」

「それだけ?」

「それだけだと思う」

「あーしは?」

「そこでどうしてお前が出て来る?」

「あーしの気持ちとかあんたの気持ちとか。あーしの事忘れても良いの?」

 マリサの瞳が微かに揺れた気がした。

「良くはないかな。お前の事も忘れたくない」

「本当に?」

「ああ。本当にだ」

「でもさ。失ってた記憶も戻るんだよ。嫌な事たくさん思い出すかも。それでも良い?」

「じゃあそっちはキャンセルだ。選べるんだろう?」

「無理。ワンセットだから。どうする?」

 俺はどうするんだろう?

「また黙り込む。思い出すの嫌なの?」

「怖い気はする。マリサが死んだ時の事も思い出すって事だろ?」

「そうだね。それにもっと辛い事も思い出すかも」

「もっと辛い事? そんな事あるのか?」

 マリサがいきなり肘打ちを俺の脇腹に入れて来た。

「いった。お前、今の本当に痛いぞ。いきなりなんだ?」

「ちょっとむかっと来てつい」

 俺はマリサから離れた。

「なんで離れるの?」

「こんな事されて近くにいられるか」

 マリサが近付いて来た。

「離れたら殺すから」

 銃を俺の頬に突き付けて来た。

「お、おい。銃を下ろせ」

「嫌だね。さっきの続き。もっと辛い事も思い出すかもよ」

「あのな。銃を突き付けられたままで話なんてできるか」

「あーし。やめた。アクはね。知ってるの。キリツギの過去を。だから過去の事を思い出したらキリツギはきっと辛い思いをする事になる」

 マリサの持つ銃がかちゃかちゃと鳴った。何事かとマリサの手を見ると、マリサの手は小さく震えていた。

「どうした?」

「怖いんだ。キリツギが全部思い出したらと思うと怖くてたまらない」

「なんだそれ? 大丈夫だ。お前に迷惑は掛けない。怖がる事なんてない」

「こっちこそなんだそれ、だよ。分かってないんだから。でも、ここに来て良かったのかもね。キリツギは変わった。記憶が欲しいと思うようになった」

 俺はマリサの持つ銃をそっと手で掴んだ。

「そろそろ本当に下ろせ。いつか撃たれそうで気が気じゃない」

「嫌だ。こうしてないとこんな話できないもん」

「意味が分からないぞ。あのな。記憶の話はあくまでも仮定の話なんだろ? 何をそんなに本気になってんだ」

「できるんだよ。本当はさ」

「あんまりからかうな。もしもって言ってただろ。話が変わり過ぎだ」

 エレベーターの動きが止まり目的の階に到着したという事を知らせるぽーんという音が鳴った。

「からかってなんてない」

 俺は目を細めてマリサを睨むとマリサの持つ銃を掴んでいる手を動かし少し強引に横にずらすようにして頬から離した。

「話は終わりだ。倫子の所へ案内してくれ」

「その前に、ねえ。本当に記憶を戻して記憶がなくならないようにして良いんだよね?」

 俺はマリサから視線を外し開いた扉から蛍光灯の照明で眩しいくらいに光って見えている廊下のクリーム色の壁に目を向けた。

「好きにしろ。行くぞ」

 俺は廊下に出た。

「じゃあ好きにする。今の言葉忘れないで」

 マリサがぴょんっと飛ぶようにして俺の前に出るとそのまま先に立って歩き出した。

「あそこ。二つ目のドア」

 マリサが銃を持つ手を動かして右側の壁に等間隔で並んでいるドアの一つを指し示した。

「俺が先に行く。お前は様子を見て後から来てくれ」

「なんで?」

「そんな風に銃を持ってる奴を先に行かせられるか」

「ああ。そっか。キリツギを囮にすれば良いって事ね」

 俺は足を速めるとマリサを追い抜いた。

「あのな。何が囮だ。いきなり撃つなよ。倫子の安全が第一だ」

「アクの腕、信じてないの?」

「今はアクじゃなくてあーしだろ。俺の前でだけなら構わないが倫子の前で言うなよ。それとな。信じるも何も悪いが俺は何も覚えてないんだ」

「知ってる」

「だが、お前の腕は信じても良いかも知れないって今の俺は思ってたりはしてる」

 マリサが俺の横に並んで来ると俺の顔を覗き込むように見て来た。

「何それ? 何その言い方。でも、なんで?」

「なんとなくそう思うんだ。お前になら俺の背中を預けても平気だろうって」

 俺はマリサの顔から視線を外した。

「照れてやんの」

 マリサが嬉しそうにうふふふと笑った。

「到着だ。くれぐれも撃つなよ」

「それって撃てっていう事でしょ?」

「好い加減にしろ」

「うへーい」

 俺はマリサの気の抜けた返事を聞きながら警備の男から奪った銃を持っている右手を背中に回して隠すと左手を伸ばしてドアを開けた。

「すいません。ちょっと聞きたい事があって来たんですけど」

 視線を右端から左端へと走らせ倫子の姿を探しながら部屋の中にいる人間の人数と配置の確認をして行く。

「倫子みーつけた」

 マリサの声がしたと思うと俺の背後から銃声が連続して鳴った。俺がマリサを止める間もなくマリサは部屋の中にいた連中全員を撃っていた。

「お兄ちゃん。マー姉ちゃん」

 倫子が声を上げながら俺達の方に駆けて来た。倫子の服や顔には赤黒い血がべったりと付いていた。

「倫子。怪我してるのか?」

 俺は愕然としながら叫んだ。

「違います。この血はマー姉ちゃんが撃った人の血が付いただけです」

「そうか。良かった。本当に良かった」

 俺は傍に来た倫子を抱き締めると倫子の服や顔に付いている血を懸命に自分の服を使って拭った。

「お兄ちゃん。ごめんなさい」

「あーしにも謝んな。まったく。困った子なんだから」

 マリサが優しく言った。

「はい。マー姉ちゃんもごめんなさい」

 倫子が俺の腕の中から抜け出ようとしたので腕を開くと飛び出すようにして抜け出てマリサに抱き付いた。

「こら。ちょっと、倫子。まだ駄目。ちゃんと撃った奴らの確認しないと」

 マリサが嬉しそうに声を上げた。

「その通りだ馬鹿が」

 部屋の中から男のかすれた低い声がした。咄嗟に俺が倫子とマリサを庇うように動くと銃声が連続して二度鳴った。

「お前、まだまだ殺さない」

 マリサが急に冷酷な声を出すと俺と倫子から離れて部屋の中に入って行った。

「あー。いってー」

 俺は強がってできるだけ軽い感じで言いながらその場に座り込んだ。

「お兄ちゃん」

 倫子が飛び付くようにして俺の傍に来た。

「倫子。ごめんな。ちょっと、これは駄目そうだ。一発で良い場所撃たれてる。俺がいくら生き返るからってこれはないよな。もう少し外せっていうの」

 銃弾は俺の背中から入り見事に心臓を射抜いていた。

「お兄ちゃん。ごめんなさい」

「俺は生き返るんだ。そんなに悲しそうな顔するな。なあ倫子。何もかも忘れてる俺をまたお兄ちゃんって呼んでくれるか?」

 倫子が顔をくしゃくしゃにしながら大きく頷いた。

「はい。私は絶対にお兄ちゃんの事を忘れません。だから、大丈夫です」

「倫子。ありがとうな。生きてるとさ。辛い事ばかりだが、きっと良い事もあると思うから。だから、またな」

 視界の端が暗くなって来た。俺はまた死んでしまう。

「キリツギ。記憶の事。なくさないようにして昔の事も全部思い出すようにするからね」

 薄れて行く意識の中にマリサの声が飛び込んで来た。

「まだそれを言うか。だが本当にできるなら頼む。俺はお前らの事を忘れたくない」

 もうこの言葉がちゃんと口から出ているのかは分からなかった。俺はまた死んでしまった。


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