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つぎはぎざあんでっど  作者: 風時々風
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夢を見ていた。どんな夢かは思い出せない。そもそも夢という物を覚えていた事なんて今までに一度もない気がする。だが、何か夢を見ていた。それだけは確かな気がしていた。

「しまった。ついつい寝てしまってた」

 公園のベンチでちょっと一休みと思っていただけなのだが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

「うおっ」

 涎がべろりと口の端から垂れていて着ている服の胸の辺りに結構な大きさの染みを作っていた。

「あの」

 不意に頭の上から聞き覚えのない女の声が降って来た。俺は咄嗟に胸の染みを片手で服を握るようにして隠すと胸の染みを見ていた為に俯けていた顔を上げた。

「はい?」

 返事をしながら俺は女を見た。年の頃は三十歳くらいだろうか。顔全体を見た後にさらさらと揺れる長い髪に目が行ったが、すぐに黒い濡れたような瞳が俺を見ている事に気が付くと俺の視線は吸い寄せられるようにその綺麗な黒い瞳に向き、そのまま目と目が合うとじっとこの見知らぬ女と俺は見つめ合ってしまった。

「あら。熱視線」

 女が突然唇だけを動かしてそんな言葉を発した。

「え? あ、ああ」

 俺は急に酷く恥ずかしくなって慌てて視線を女から外すと顔が熱くなって来るのを感じながら熱視線っていきなり何を言い出すんだこの女は? と思いつつ顔を俯けた。

「あの」

 再び女の声が頭の上から降って来た。

「何か?」

 あの黒い瞳で見られたらまた見つめてしまうかも知れない。俺はそう思うと今度は顔を上げずに言葉を返した。

「この辺にキリツギという人がいないか探してるの。あなた、知らない?」

 俺はキリツギという言葉を聞いて心臓をぎゅっと鷲掴みにされた思いがした。

「知らないな」

 そう答えてから、今の言葉は自然に言えていただろうか? 俺の挙動におかしい所はないだろうか? と必死になって考えた。

「そう。知らないんだ」

 女が俺の横に座って来た。

「帰らないと」

 俺は慌てて立ち上がった。

「何よ? もう行くの?」

「買い物の途中だったんだ。早く帰らないと家族が待ってる」

 ちらりと女の方を見ると女が黒い瞳をすっと細めた。

「ちょっと付き合って欲しいんだけれど。話を聞いて欲しいの。なんかあなたを見てたらキリツギの事凄く思い出しちゃったわ」

 この女、まさか俺がキリツギだって気付いたのか? どうする? どうすれば良い? 殺すか? それとも逃げるか? 

「どうしたの? 急に深刻そうな顔して」

落ち着け。きっと大丈夫だ。こんな僅かなやり取りで分かるはずがない。

「大事な、日なんだ。待たせると悪い」

「大事な日? 何? 恋人と何か祝うとかかしら?」 

 女が目を大きく開くと黒い瞳がきらきらと倫子が何かに興味を示した時と同じように輝いた。

「誕生日だ」

 ああ、もう。早く切り上げたいのに何を余計な事言ってるんだ俺は。

「良いわね。それを恋人と?」

「違う。家族だ。といっても」

 義理のだが、と言おうとして俺は咄嗟に口を噤んだ。危なかった。また余計な事を言いそうになってしまった。

「といっても何かしら?」

 女がじいーっと期待を込めた目で見つめて来る。

「頼む。もう帰らせてくれ」

「えー? それはあれ? 早く恋人に会いたい的な?」

 この女はどうしても誕生日を恋人と祝わせたいらしい。あ。そっか。それなら。

「恥ずかしいがその通りだ。もう良いだろ?」

 女が立ち上がった。

「悪かったわね。人の恋路を邪魔すると馬に蹴られるらしいから。もう良いわ。誕生日おめでとう」

 女がにこりと微笑んだと思うといきなり俺の傍に来て俺の額にちゅっと音をたてて口付けした。

「お、お、おい。なんだいきなり」

「良いじゃない。減るもんじゃなし。あれよ。いつも会話を聞かされてる時は嫌だなって思ってたけれど自分でやってみると意外とはまっちゃうかも的な? なんてね。うーんと、なんにしようかな? そうそう。誕生日プレゼント」

 女は俺に背を向けるともう俺がここにいる事などまったく忘れてしまったのかのように一度も振り向く事なく軽やかな足取りで歩き去って行った。

「なんだったんだあの女は」

 俺は額の女の唇が触れた部分を指で拭くように数度擦った。見られてないよな? 誰にも見られてないよな? 倫子に見られでもしたら大変な事になるぞ。

「お兄ちゃん」

 突然、倫子の声が耳に飛び込んで来た。

「倫子?!」

 ぞわっとした悪寒が背筋を駆け抜けた。まさか。まさかあの変な女とのやり取りを倫子に見られていたんじゃあるまいな? 

「倫子。迎えに来てくれたのか?」

 俺は恐る恐る声のした方に顔を向けた。

「あの人は誰ですか?」

 倫子はベンチの後ろにあったコンクリートの壁に半分身を隠すようにして立っていた。

「どこから見てた?」

 俺は倫子の方に向かって歩き出した。倫子がすすっと俺から逃げるように後ろに数歩さがった。

「女の人がお兄ちゃんにキスした所から見てました」

 はっきり言うじゃないかっ。しかもそこからか。よりにもよってそこからなのか。

「聞いてくれ」

 あの女は俺を、キリツギを、探しに来てるらしいんだ、と続けて言おうとしたが倫子のようにどこかで誰かが見聞きしてるかも知れないと思うと俺はその言葉を言わずに途中で黙り込み何をどう言えば良いのだろうかと考えた。

「聞いてます。どうして途中でやめるんですか? 不潔です。マー姉ちゃんと倫子がいるのに。淫行は最低です」

 倫子の目が据わった。この目は絶対にやばい気がする。

「待て。倫子。落ち着け。あれだ。とにかく帰ろう。家に帰るんだ」

 倫子が一人で外出する時は必ず持っている護身用の小型の自動拳銃を腰の後ろのホルスターから抜くと俺に狙いを定めた。

「色々あったけど今日まで幸せでした。犬の後、虫になって魚になってそれからおじいちゃんになって、やっと今のお兄ちゃんになって。たったの三ヶ月だったけど思い出がいっぱいです。なのに。なのにお兄ちゃんが見知らぬ女と淫行です。殺します。殺してまたやり直しです」

 それだけでか? いや。まさか、本気でそんな。というか、虫と魚とおじいちゃん? 犬の話は聞いてたが、そっちの話は今初めて聞いたぞ。

「待ってくれ。俺も思い出だらけだ。お前らと過ごしたこの日々は大変だったけど大切な日々だ。死んだら忘れるだろう? 生き返っても全部忘れちまうんだ。倫子。頼む。殺さないでくれ。俺の、俺の記憶を、お前らと一緒にいたこの三ヶ月間の俺を殺さないでくれ」

 俺は死なない。だが、記憶はなくなってしまう。これまではどうだったかは知らないが、今の俺は今の自分の持つ記憶を失いたくない。

「だったらどうして淫行ですかー」

 どごーんっと銃声が鳴った。

「倫子、だから、撃つなって」

 倫子の撃った弾丸が俺の胸部に命中した。胸を押さえて両膝を地面に突いた俺の傍に倫子が駆け寄って来た。

「お兄ちゃん」

 倫子が銃を握った手を俺の体に回し俺に抱き付いて来た。

「倫子。これからって時だったのに」

 俺は倫子を抱き締め返しながら言葉を出したが言葉が途中で出せなくなくなったのでこれはもう助からないなと思いつつ目を閉じた。

「キリツギ。おい。起きろ。やったぞ。やっとまともな人間になったぞ」

 マリサの声が聞こえて来た。懐かしいな。ん? だが、これは? この言葉は前に一度聞いた事がある気がする。

「キリツギさん。キリツギさん。早く起きて下さい」

 倫子の声もする。これも聞いた事があるような気がする。ああ。これはあれか? 走馬灯? 三か月前のあの日、俺が人として生き返った日の出来事がまざまざと思い出され俺は自分を飲み込むように広がり始めた思い出の世界の中に同化するようにして入り込んで行った。

 俺はゆっくりと目を開けた。

「苦労したんた。その、あ。ああ~。良いや。その死体を用意するの」

 見知らぬ少女の顔が目の前にあり、意味の分からない事を言った。

「マー姉ちゃん。キリツギさんぼけ~っとしてます。駄目です。ちゃんと説明しないと」

 また別の見知らぬ最初に見た少女よりも明らかに年下の幼い少女の顔が俺の目の前に現れた。

「そうだった。こっちは覚えてるからついついそのまま話しちゃう。じゃあ、今日まであーしが記録してたキリツギとの日々の事を話して聞かせるか」

 二人いる少女のうちの年上の少女の方の顔が視界の中から消えた。

「お前らは誰だ?」

 俺は一番最初に頭の中に浮かんだ疑問を言葉にして出した。

「マー姉ちゃん。キリツギさんが喋りました」

「今回の初めての言葉はそれっと。メモメモっと。これにはこれまでのあんたとの事が全部書いてあるんだ」

 年上のマー姉ちゃんと呼ばれている少女が戻って来ると数冊のノートを俺に見せるように顔の前に持って来て扇のように広げた。

「俺との事?」

 俺はお前らは誰だ? と聞いた事ををすっかり忘れマー姉ちゃんの持つノートをじっと見つめた。

俺の名前は、えっと、なんだったか。思い出せない。ああ。そっか。いつもそうだったかも知れない。だがコードネームは覚えている。キリツギ。そう。そうだ。俺は自分をキリツギと呼んでいる。二十歳の男で軍国主義普及委員会の生体兵器実験部隊に所属しそこで与えられた死んでも必ず生き返るという能力を使って実験という名の作戦に参加している。

「なんだ? 今、記憶が。これは? そうか。俺は死んだ後なのか」

 俺は頭の中に浮かんで来た記憶を反芻しながら言葉を漏らした。

「キリツギタイムが来たか。今回は結構速いかも」

 俺は顔を左右に動かして自分が布団の上に寝かされている事に今更のように気が付くと体を起こそうと思った。

「起きて良いか?」

「おお。そうね。良いよ」

「一人で起きられますか?」

「大丈夫だ」

 俺は上半身を起こして布団の上に座ると自分の体を見る為に顔を俯けた。

「今回は二十歳くらいの体。確かキリツギ自身もそのくらいの年だったはずだよね?」

「ああ。そうだ。二十歳だ」

 俺は顔を上げるとマー姉ちゃんの顔を見た。

「さっきのお前らは誰だ? の答え。あーしはマリサ。倫子の姉でマー姉ちゃんって呼ばれてる。年は十五。こっちは倫子。あーしの大切な妹。七歳」

 マー姉ちゃんが自分と倫子を自分の右手の人差し指で指し示しながら自己紹介した。

「俺の事は、知ってるんだよな?」

「もちろん」

「はいです」

 マー姉ちゃんと倫子が笑顔になって頷いた。

「そうだなあ。何から話そっか」

「マー姉ちゃん。キリツギさんの正体を隠す事にしようって決めたじゃないですか」

 倫子がマー姉ちゃんの言葉を遮るように声を上げた。

「おお。そうだったそうだった。じゃあそれから話そう」

 マー姉ちゃんが表情を引き締め真面目な顔になると俺の目を真剣な眼差しで見つめて来た。

「なんだ急に、そんな顔して」

 俺はマー姉ちゃんの雰囲気に気圧されて思わずそう言った。

「キリツギ。ちゃんと聞いて。あんたの所属してたっていう軍国主義普及委員会の事をあーし達調べてみたの。そうしたら凄く有名ですぐにどんな組織か分かった。世界各地で軍事活動や要人誘拐やテロなんかをやってる危険な組織だったの。それと、あーし達の住むこの国に本拠地があるんだって。きっとあんたの事を探してると思う。だからあんたは自分の事、誰にも話しちゃ駄目だからね」

俺はそんなとこで何をやってた? 思い出そうとすると「必ず生き返るという能力を使って実験という名の作戦に参加している」という記憶の中にあった言葉が頭の中に浮かんで来た。

「キリツギの事も何かないかって調べてみたけどそっちは何も分からなかった。でも、たぶんキリツギはそこで戦闘要員として使われてたんだと思う。もちろん、ここだって安全じゃないし危ない事もたくさんあるけど、戦闘要員として生きるよりは良い生活ができるはず」 

 マー姉ちゃんが俺の言葉を促すように口を閉ざした。

「そうか」

 俺はさっき頭の中に浮かんで来た記憶の中にあった言葉とマー姉ちゃんの言った戦闘要員という言葉を結び付け自分の死なないという能力を利用して随分と酷い事をやっていたのかも知れない漠然と思った。

「そうかってそれだけ?」

「ああ」

「ああって。キリツギ、あんたあっちに戻りたいの?」

 マー姉ちゃんが勢い込んで聞いて来た。

「分からない。何も覚えてないんだ。お前らの事だって何も分からないんだ」

「キリツギさんは私達と一緒に暮らすんです。そう決まってるんです」

 倫子がぐっと顔を俺の顔に近付けて来た。

「そうよ。そうだった。あんたには記憶がなくってもそう決まってるんだから。あーしは優しいからついつい油断してあんたの意思を尊重してやろうかなんて思っちゃったけど危ない所だった。あんたに選択権はないんだ。あんたはあーし達と一緒にいる。あーし達の為に働いてあーし達と一緒に暮らす。良い?」

 マー姉ちゃんが目を細めると俺を睨み付けて来た。

「それは、こんな俺の面倒をみてくれるって事なのか? あ、そっか。お前らは俺と違って俺の事知ってるんだもんな。こういう時はどうすりゃ良いんだ? 俺は今までどうしてた? いや。なあ。本当に良いのか? 俺はこんなだぞ? 何も覚えてないし覚えたとしても死んだらまたやり直しになる」

 死んだらやり直しになるって、そうそう死ぬ事なんてないか。待て。あるのか? 今こうしてるんだしな。

「そこが良いの。便利だし。手間は掛かるけど無敵って事だし」

「そうです。メリットの方が大きいんです」

 なんか急に言葉の質が変わったような気が。俺を利用したいだけなのか?

「俺を利用するつもりなのかなんなのか知らないがそんなに役に立つとは思えないぞ」

 変に期待されてもな。

「大丈夫。もう何度も役に立ってるから」

「そうです。キリツギさんは凄いから大丈夫です」

 おかしな感じだな。俺はこいつらの事なんて全然覚えてないのに。そういや、俺はいつもこんななのかな。死ぬ度に全部忘れて。周りの奴らはいつも大変だったろうな。

「ええっとそれでなんの話をしてたんだっけ。ああ。そうだった。それで話を戻すとね。キリツギは今日からマリキになるの。偽名って奴。あーしと倫子で考えたんだ。良い名前でしょ? あーしと倫子の義理の兄で一緒にこの家に住んでるって設定」

「これから私はお兄ちゃんって呼びます」

「いきなり俺がここに住み始めたら変だろ? それに顔とかを見れば俺だってすぐに分かるはずだ」

 マー姉ちゃんと倫子が顔を見合わせた。

「いきなり住んでも良いの。あんたは義理の兄なんだから。それにしてもあんた本当に何も覚えてないのね。ちょっと酷過ぎ。自分の事ぐらいもっと覚えてなよ」

 マー姉ちゃんが俺の方を見ると酷く落胆した様子で言った。

「お兄ちゃんは前のお兄ちゃんとは見た目だけはまったくの別人になってます。使った死体とも似てないんです。お兄ちゃんがキリツギさんだなんて見ただけじゃ絶対に分からないと思います」

 倫子も俺の方を見て言ったがマー姉ちゃんとは違ってとても嬉しそうだった。

「ちょっと待て。俺は生き返る時に死体を使ってるのか?」

 俺は顔を俯けて自分の体のあちこちに視線を走らせた。

「詳しい事は良く分かんない。死んだキリツギを埋めてその近くに何かしらの死体を埋めるとその死体を使ってキリツギは生き返るの。倫子が言ったように生き返ると見た目が変わるから埋めた死体が生き返ったなんて周りが騒ぎ出す事もない。きっとそういう風に、正体が簡単には分からないようにキリツギのその生き返るっていう能力が働いてるんじゃないかと思う」

 顔を上げてマー姉ちゃんの顔を見るとマー姉ちゃんがにやりと笑った。

「今あーしが言った事嘘だと思ってるだろ?」

「ああ」

 俺は反射的に頷いた。

「あんたは犬にもなってんだよ。あの時は大変だった。これ見てみ」

 マー姉ちゃんが右腕を俺の目の前に持って来た。

「これは? 何かに嚙まれたのか?」 

 マー姉ちゃんの右腕には一目見て何かの噛み跡だと分かる大きな傷跡があった。

「その反応。なんとも言えないなあ。これ、あんたのせい。あんたが犬になった時に大型犬に襲われたの。そんで、あんたを助けようとしてがぶっとやられたの」

 俺は噛み跡からマー姉ちゃんの顔に視線を移して、それから倫子の顔を見た。

「本当です。けど、最後はお兄ちゃんが私達を助けてくれたんです。大きい犬の口の中に飛び込んで一緒に窒息死したんです」

 なんというか、凄まじく壮絶な話だな。

「すまん。その傷の事は、なんと言えば良いのか」

 マー姉ちゃんが噛み跡をぴしゃっと叩いた。

「悪いと思うならあーし達の為に働いて。あーし達女二人だから色々大変なの」

「大変なんです」

 俺は二人の顔を交互に見た。

「お前らそればっかだな。よっぽど何かあるのか? 何をすれば良いんだ? 俺みたいな頭の中が空っぽの奴でも役に立つのならなんでもやってやる」

「さすがお兄ちゃんです」

 倫子が大きな声を上げた。

「じゃあこっちはもう端折っちゃって早速仕事の話を」

 マー姉ちゃんが途中で言葉を切ると、手に持っていたノートに視線を落とした。

「あんた、こんな簡単にあーし達の事信じて良いの?」

「疑ってここを飛び出したとしても行く所がない。なにせ何も覚えてないんだからな。それに出て行くって言ったら出て行かせてくれるのか?」

 まあ、こんな子供達二人だ。何かしら裏があったとしても大した事はないだろ。死体云々だって嘘に決まってる。俺を脅そうとしたのかなんなんなのかは分からないが、あんな変な嘘をつくなんてかわいいもんだ。

「分かってるじゃない。それじゃ、外行こっか。色々案内する。そうしないと仕事の細かい話もできないし」

 マー姉ちゃんが持っていた数冊のノートを布団の上に置いた。

「私も行きます」

「マリキ。ほら、あんたも早く立ちな」

 マリキが自分の名前だという事にしばらく気付かず俺はそのまま座っていた。

「あ、ああ。そっか。俺はマリキか」

 二人の視線を感じ、俺ははっとして声を上げた。

「そうだよ。早く覚えて。くれぐれもキリツギなんて呼ばれても返事なんてしちゃ駄目だからね」

「キリツギさん」

「おう? なんだ?」

 倫子とマー姉ちゃんが顔を見合わせた。

「おいー。マリキ~」

「お兄ちゃん~。駄目ですよ~」

 二人がじとーっと睨んで来た。

「そんな顔をするなって。しょうがないだろ。さっき聞いたばっかりだぞ」

「そうかもだけど、いつあんたを探しに来てる奴に出会うか分からないんだ。用心しないと」

「ずっとずっとお兄ちゃんと一緒にいたいです」

 ずっとずっと一緒か。心が温かくなる言葉だ。だがそんな風に言われた事も死んで生き返った時には忘れてるんだろうな。

「分かった。頑張ってみる」

 俺は布団の上で立ち上がった。

「倫子。銃を忘れないで」

「はい。マー姉ちゃんは何を持って行きますか?」

 銃? 今、銃って言ったよな?

「ちょっと待て。銃ってなんだ?」

 銃って拳銃とかのあの銃の事なのか?

「あーし達の住んでるこの町は危ないんだ。スラム街って奴? だから銃とか刃物とか何かしらないとあーし達みたいな女の子は外に出る事もできないの」

 なんだと?

「そんな所に住んでるのか? なんでだ? 早く引っ越した方が良い」

 俺は責めるような口調で言った。

「無理です。お金がなければ一般市民にはなれないんです。私達は下層市民だからここに住むしかないんです」

 なんだそれ? どういう事だ? 

「マリキ。そんな顔するなって。大丈夫。そんなに悪い所じゃない。ただちょっと治安が悪いってだけだ」

 マー姉ちゃんがなんでもない事のように微笑んだ。

「マー姉ちゃん。準備できました」

 倫子が小型の自動拳銃を腰の後ろに装着したホルスターの中にしまった。

「あーしはいつものこれにする」

 マー姉ちゃんが俺の寝ていた布団のすぐ横にあったベッドの下から刃渡りが二十センチくらいのコンバットナイフを取り出した。

「本当に武装するんだな」

 偽物や玩具ではない本物の殺傷能力のあるコンバットナイフや拳銃を手に持ったりホルスターに入れて装着したりしている少女達の姿を俺はじっと見つめた。

「マリキはどうする? 何か得意な武器はある?」

 得意な武器? そうか。俺は戦闘要員だったんじゃないかってマー姉ちゃんが言ってたんだっけ。

「なあ。武器は良いが、そんなもん実際に使えるのか? そんなもん使って相手が怪我したり死んだりしたらどうするんだ?」

「どうもしないよ」

「埋めるか捨てるかするだけです。相手に身内とか仲間がいた時は厄介ですけど」

 いや。そういう事じゃないだろ。罪の意識とかなんというかそういうのはないのか?

それに警察とか軍とかそういう組織に目を付けられたりしないのか?

「そんな事してなんとも思わないのか?」

「うん。そうしないとこっちが殺されるし」

「しょうがないんです」

 こっちが殺される……。

「警察とか軍はないのか?」

「あるよ。上の街ではちゃんと仕事してるけど、ここは別。ここ、マゴットシティの中はなんでもありなの」

「マゴットは蛆虫って意味らしいです」

 なんだそりゃ。

「それじゃ、犯罪者なんかが集まって来るんじゃないか?」

「来るね」

「私とマー姉ちゃんは賞金稼ぎなんです。本当のお父さんがそうだったのでその跡を継いでるんです」

 俺は二人の顔を交互にまじまじと見てから小さく項垂れた。倫子が嘘を言っているとは思えなかった。

「一応確認するが、賞金稼ぎってのはあれだろ? 犯罪者なんかを捕まえてお金をもらうって仕事だよな?」

 自分の事は少ししか覚えてないのにこういう知識は頭の中に入ってるんだな。

「はい。そうです」

 倫子。その良くできました的な目で俺を見るのはやめてくれ。

「ほら。外行こ。これじゃここで話が全部終わっちゃいそうだよ。この町の中のどこに何があるかしっかり見て把握しておかないと。あーし達の仕事は命懸けなんだから。まあ、マリキは死んでも平気だけどさ。それでも簡単には死にたくはないでしょ?」

 マー姉ちゃんがコンバットナイフを背中に装着したナイフホルダーにしまった。

「じゃあ、お兄ちゃんはこれです」

 倫子がマー姉ちゃんの傍から離れたと思うとホルスターに入ったままの大型の回転式拳銃を持って来て俺に向かって差し出した。

「これを俺が持つのか?」

「はい」

 俺は戸惑いを感じながらも受け取るとしばらくホルスターと銃を見つめてからホルスターの装着を始めた。

「マリキ。今、あんた自然にやってたけど、ホルスターの付け方とかちゃんと覚えてんだね」

 俺はそう言われてはっとした。なんだこれ。どれほど繰り返せば体がこんな風に初めて見たホルスターを自然に無意識に装着できるほどに覚えるんだ?

「それは死んだお父さんが使ってた銃です」

 倫子が嬉しそうなそれでいてちょっぴり寂しそうな目で俺の顔を見た。

「俺なんかが使って良いのか?」

「使って欲しいんです」

「大き過ぎてあーし達には使えないんだ。弾もたくさん余ってるし使ってくれるとありがたい。最初に公園行こっか。試し撃ちした方が良いでしょ?」

 倫子が弾の入った箱をマー姉ちゃんに見みせるように持ち上げた。

「じゃあ弾を多めに持って行きます」

「うん。倫子も練習しな」

「はい」

 この子達にはこれが普通なのか? 普通? 普通ってなんだ? おかしな話だ。記憶がないのになんでこれは普通じゃないなんて思ったんだろう。

「良し。行くぞ」

 マー姉ちゃんが先に立って歩き出す。倫子がその後に続き、俺が更にその後に続いた。部屋の隅にあった柵も何もなくいきなり穴のようになっている所から下に向かって伸びている階段に下りると俺達は階下の部屋へ行きその部屋にあったドアから家の外に出た。

「公園はすぐそこだ」

 マー姉ちゃんが目顔で今歩いている道を少し行った所にあるコンクリート製の高い壁を指し示した。

「狭い道だな。それに、この家はなんだ? 繋がってるのか?」

 道の両側にはベランダや窓や玄関などの形は違うが全体的には同じような形をした木造の二階建ての家屋が隙間なくびっしり並んでいた。

「長屋っていうの。繋がってるけど中は壁でちゃんと仕切られてる。うちもその一部だ」

「家の外と中の形は元々は全部一緒だったらしいです。でも、住んでる人が改造するからこんな風に少しずつ違ってて別々の家みたいに見えるようになったらしいです」

 道の両側にある長屋はどちらも古ぼけていてぼろぼろで今にも崩れそうに見える。

「なあ。ここを出るにはどれくらいのお金がかかるんだ?」

 倫子が言っていた事を思い出しながら聞いた。

「途方もない額とだけ言っとく。あーし達じゃどんなに頑張っても無理だね」

「おう。お二人さん。今日も仕事か?」

 ちょうど通り掛かった家の戸口から出て来た髭面の男が声を掛けて来た。

「今日は違う。親戚が今度こっちに住む事になったからここの案内をしてるの」

「ほーう。そっちのあんたが?」

「ああ」

 じろじろと見て来る相手の視線を受けながら俺は小さく頷いた。

「おじさん。お兄ちゃんをそんなに見ては駄目です」

「あ、ああ、すまん。どこから来たんだ?」

「細かい事は聞かないで。こいつも色々あって苦労してんだ」

 マー姉ちゃんの言葉を聞いて男が自分の白髪交じり頭をぴしゃりと叩いた。

「こりゃまたすまん。こんな場所だ。訳ありはお互い様だあな。二人とも良かったな。それほど経たないうちに新しい男手ができて。それじゃ三人とも気を付けてな」

 男が着ている服の中に手を突っ込み腹をぼりぼりとかきながら家の中に戻って行く。

「この辺りの人達は皆あんな感じで付き合いやすい人ばっかりだけど、お金が入ったなんて話なんかはしない方が良い。皆、基本的には良い人間だけど、生活には苦労してるから」

 俺はマー姉ちゃんの方に顔を向けた。

「そんな風に言うって事は盗まれたりした事があるのか?」

 マー姉ちゃんが小さく頷いた。

「うん。どうしてもね。しょうがないんだ。本当に大変な人は手段を選べないでしょ」

 マー姉ちゃんが悲しそうな顔をした。俺はマー姉ちゃんもこんな顔をするんだなと思いながらその顔を見つめた。

「さっきおじさんが言ってた男手の事気になりますか?」

「いや。全然気にならないぞ」

 そういえばそんな事も言ってたな、なんて思いながら俺は倫子に向かって言葉を返した。

「本当に? あーし達が前に一緒にいた男の事だよ?」

 マー姉ちゃんが先ほど見せていた表情とは打って変わって悪戯をしようとする子供がするような表情を顔に浮かべた。

「何が前に一緒にいた男の事だ。父親の事だろ? この銃の持ち主の」

「前の父親はね。あんたが殺したんだよ」

「いきなりなんだ? 何を言ってるんだ?」

 マー姉ちゃんの顔はいつの間にか真剣な顔になっていた。

「そうです。お兄ちゃんがぐさっとやったんです」

 倫子までが真剣な顔になり俺に告げた。

「嘘だろ?」

 そうは言ったが不安になって来ていた。なにせ記憶がないのだ。俺が殺したという記憶も殺してないという記憶も。

「どっちが嘘?」

「殺した事ですか? それとも殺してないという事ですか?」

 おいおいおい。なんだこれ? どんな展開だよ?

「まあ。事実だから。でも、頼んだのはあーし達だし。ちなみに。あんたが殺したのは本当の父親じゃないから」

 マー姉ちゃんがふっと表情を緩めるとにこっと笑った。

「ごめんなさいお兄ちゃん。ちょっとやり過ぎでした。その人は私達に酷い事をしてた人なんです。だから殺されて当然なんです」

 倫子が優しい笑みを顔に浮かべた。からかい半分って事か。だが今更そんな風に言われてそんな顔をされてもな。それにしても本当の父親じゃないとしてもこの子達の父親をしていた人間を俺は本当に殺してるのか?

「なあ。俺は本当にそのお前らの父親をしてたっていう人を殺したのか?」

 なんだろう。殺した事がショックなんじゃない。こいつらの親をしてたっていう人を殺したというのがショックみたいだ。それが例え倫子の言うような殺されて当然な奴だとしても。

「本当だよ。でもそのお陰であーしも倫子も助かったんだ。だから気にしちゃ駄目。マリキはさ。すぐ表情に出るね。それ気を付けな。もしも追手が現れたらすぐにあんたの正体ばれるよ」

 マー姉ちゃんが俺にすっと近付いたと思うと耳元で囁くように言った。

「あー。内緒話です。ずるいです。何を言ったんですか?」 

 倫子がマー姉ちゃんの腕を掴むと俺から引き離すように引っ張った。

「ちょっと倫子。そんなに引っ張ったら危ないって。なんでもないよ」

「教えて下さいー」

 俺はじゃれついている二人を見て優しい気持ちになりながら不思議な子達だなと思った。残酷な事を平然と言ったと思えばこんな風に無邪気な所を見せる。このくらいの子達というのは皆こんな風なのだろうか。

「到着っと。倫子。そろそろ放して。マリキと二人でその辺に落ちてる空き缶とか空き瓶とか的にできそうなもん拾って来な」

 コンクリートの壁と壁の間にあったただの隙間といった感じの出入り口から公園の中に入ると空き地のような何もない空間が広がっていた。

「何もないんだな」

 感想が自然と口からこぼれ出た。

「ベンチはあるよ。でも、そうだね。本当は公園より空き地って言った方が良いのかも。長屋同士の間にこういう隙間みたいのを作っておくと火事の時に良いからあるんだって。本当の父さんが生きてた時に言ってた」

 火が燃え移らないようにって事かな。こういう街だからこその知恵なのかもな。だがこんなコンクリートの壁とか、誰が作ったんだろう。

「昔の住人達が作ったらしいです。今はこんなですけど、昔はもっとちゃんとした街だったらしいです」 

 倫子が俺の考えを読んだように俺の疑問に答えてくれた。

「倫子は鋭いな。俺の考えが分かるみたいだ」

 倫子がとても嬉しそうに微笑んだ。

「お兄ちゃんの考えてる事だから分かるんです」

 倫子は俺の事を本当のお兄ちゃんだと思ってくれてるみたいだ。こういうのって意外と嬉しいもんなんだな。これからは兄らしくしっかりしないとな。

「ほら。二人とも。的を拾って来な」

「はい。お兄ちゃんこっちです」

「ああ」

 倫子に腕を引かれ俺達は入り口付近にマー姉ちゃんを残したまま公園の奥に向かって進んで行った。

「何もないと思ったが結構ゴミが落ちてるんだな」

「はい。ちょっとしたゴミ捨て場にもなってるんです。後は、死体を埋めたりとかです」

 俺は倫子の顔を思わず見つめた。

「まさか、ここなのか? ここに俺も埋められてたりしたのか?」

「はい。埋めました。お兄ちゃんはここからゾンビみたいに出て来るんです。その辺にいつも埋めてます」

 掘り返しているせいか周囲とは明らかに土の色が違っている場所を倫子が指差した。自分のお墓だったって事だよな。なんか、なんとも言えない感じがするな。そうか。俺はここに埋まってたのか。

「人の時はここまで運ぶのが大変でした」

 人の時は? ああ。そういえば犬にもなってたんだっけか。

「なあ、俺はお前らと出会ってから何回死んでるんだ?」

 倫子が空き缶を拾う為に腰を屈めた。

「秘密です。マー姉ちゃんが教えるまでは私はなんにも教えません。はい。お兄ちゃんは持つ係です」

 倫子が拾った空き缶を俺に向かって差し出して来た。

「そんな事言わずに教えてくれ。気になる」

 俺は空き缶を受け取りながら言った。

「駄目です」

 倫子が絶対に教えませんと言わんばかりに急に冷たい声音でぴしゃりと言ってから空き瓶を拾うとまた俺に向かって差し出して来た。

「倫子ちゃんは結構厳しいな」

 俺は怒られたような気になってしょんぼりしながら小さな声を出した。

「倫子です。倫子って呼んで下さい。今すぐです」

 倫子が至極不満そうに言ってから俺の顔を真剣な眼差しでじいーっと見つめて来た。

「わ、分かった。倫子。これで、良いか?」

 俺は倫子の真剣な眼差しに気圧されながら言った。

「はい。なんだか凄く恥ずかしいです」

 倫子が顔を真っ赤にすると俺の視線から逃げるようにさっと下を向いた。

「おーい。早く拾って来いよー」

 マー姉ちゃんの叫ぶ声が聞こえて来た。

「はーい」

 倫子が拾うペースを上げるとあっという間に空き缶と空き瓶が合わせて十個ほど集まった。

「これで良いですか?」 

 マー姉ちゃんの所まで戻ると倫子が言いながら俺の持っている空き缶や空き瓶を見た。

「上等上等。じゃあ、マリキ。あっちに並べて来て」

 マー姉ちゃんが的を拾って来た方向とは別の方向にある十メートルくらい離れた所の壁を指差した。

「並べるのは良いが、本当にここで撃って良いのか?」

「あそこの壁の穴見えないの? 何度もやってるんだから平気」

 言われてから初めて気が付いた。マー姉ちゃんが指を差している壁には無数の大小様々な穴が開いていた。

「壁壊して怒られないのか?」

「あっち側は平気なの。早く並べちゃいな」

 壁をこんなにぼろぼろにして本当に平気なのか? などと思いながら俺は壁の前まで行くと地面の上に空き缶と空き瓶を並べた。

「あ。的載せる台持ってくんの忘れた。まいっか。マリキ。あんた先に撃ちなよ。どんなもんか見てみたい」

「俺はお前らの前で銃を撃った事はないのか?」 

 俺は二人の元へと戻りながら聞いた。

「まだないね」

「お兄ちゃん。私に撃ち方教えて下さい」

 俺は二人の傍まで行くと的の方に体の正面を向けて立った。

「ちゃんと撃てるかどうかも分からないんだぞ。凄いへたかも知れないしな」

 左の脇の下にあるホルスターから回転式拳銃を抜く。

「重いしでかいな」

 こんなもんちゃんと撃てるのか? 

「おお。でも、構え方はそれらしくなってるよ」

「お兄ちゃん格好良いです」 

「そうか?」

 撃鉄を起こすと的の中で一番狙い易そうな太くて長い空き瓶に狙いを定めた。

「撃つからな」

「撃て撃て」

「お兄ちゃん頑張って下さい」

「おう」

 引き金を引いた。轟音と衝撃が俺の体を突き抜けて行った。

「やるじゃん。マリキ」

「お兄ちゃん当たりです。当たってます」

 おお。自分でも信じられない。狙った空き瓶は跡形もなく吹き飛んでいた。

「連続で撃ってみて良いか?」

 撃った時にこの銃がダブルアクションだと気付いた。ん? ダブルアクション? 記憶がないといっても日常の事とかこういう事は覚えてるんだな。前にもこんな事を思ったような気もするが、何回経験してもおかしな感じだ。

「連続で撃ったらさすがに外れるんじゃないの」

「お兄ちゃん頑張って下さい。お兄ちゃんならできるです」

「倫子応援ありがとな」

 的を変えながら三発を連続で撃ってみた。

「全部当たってる」

「凄いです。お兄ちゃん凄いです」

 我ながらこれは驚きだ。

「だが、手が痺れた」

 それに肩とか首とかその他諸々色んな部分が痛くなってる。

「この銃はあまり簡単には撃たない方が良いのかも知れない」

「じゃあ、もっと小さいのあるからそっちにしな」

「駄目です。お兄ちゃんはそれを使うんです。折角撃てるのにもったいないです」

 いや。そう言われてもな。体のあちこちが痛くなるし。

「倫子」

 マー姉ちゃんが優しい笑みを顔に浮かべた。

「おお。そうだった。倫子も撃つんだったよな。交代しなきゃな」

 俺はもうこれ以上撃ちたくなかったのでそう言った。

「なんかわざとらしい。マリキ、もう撃ちたくないだけだろ?」

「もっと撃った方が良いと思います。お兄ちゃんの撃ってる所もっと見てたいです」

 マー姉ちゃん鋭いじゃないか。倫子、今日はもう勘弁してくれ。

「俺はもう良い。ちゃんと撃てるって分かったし。倫子が撃ちな。多く撃った方が銃の扱いに慣れるからな。それにさっき教えて欲しいって言ってよな? ちゃんと撃てたから倫子の気が変わってなければ俺が教えてやる」

 なんかさっきから倫子を利用してるようでずるい気もするがこう言えば撃たなくて済むだろ。俺は言い終えるとすぐにささっと銃をホルスターの中にしまった。

「分かりました。じゃあお兄ちゃん。教えて下さい。お願いします」

「おう」

 倫子。お前は素直で良い子だよ。俺が立っていた場所を譲る為に少し動くと倫子がその場所に入った。

「なあ。ちょっと良いか?」

 マー姉ちゃんが俺と倫子の傍に来た。

「なんだ?」

「なんですか?」

 俺と倫子がマー姉ちゃんの方に顔を向けるとマー姉ちゃんがじろりっと睨むように俺の顔を見た。

「なんで倫子になってんだ?」

 マー姉ちゃんが不満そうな声と声音で告げた。

「いや。倫子がそう呼べって」

「はい。私が頼みました」

「そっか。それなら、良いか。じゃあ、あーしはマリサな。呼んでみ」 

 マー姉ちゃんが的の方に顔を向けた。

「マリサ?」

「なんで疑問形なんだよっ。普通に呼べよ。もう一回」

 確かに疑問形だったな。なんでだろう。

「マリサ」

 マー姉ちゃんが下を向くとくすくすと笑った。

「恥ずかしいな、これ。倫子、恥ずかしくなかったか?」

「私は、えっと、あの、あれです。嬉しかったです」

 俺は倫子の真っ赤になった顔を思い出した。倫子の顔を見ると倫子の顔はあの時のように真っ赤になっていた。

「嬉しかったのか。そうだな。あーしもちょっと嬉しいかも。でも」

 マー姉ちゃんがそこで言葉を切ると俺の方に顔を向けて来た。

「あんまり気安く呼ぶなよな」

 ええ? 何それ。凄く呼び辛くなったんだが。

「あ、ああ。分かった。じゃあ、倫子。撃ってみるか?」

「はい」

「何度か撃った事はあるんだよな?」

「はい」

「じゃあ、いつものような感じでまず撃ってみろ」

「はい」

 倫子が銃を構えて的に狙いを定めてから引き金を引いた。

「外れました」

 倫子の撃った弾は狙っていた的から見事に外れ後ろの壁に新しい穴を作った。

「そうだな。ちょっと良いか?」

「はい。どうぞです」

 俺は倫子の背後に回ると銃の持ち方や頭や首や腕や肩や足や腰の角度などを直接体に触れながら教え始めた。

「なんかいやらしいな」

 マー姉ちゃんがぽそっと言った言葉を聞き、俺は慌てて倫子から離れた。

「ちょっと待ってくれ。これはただ教えてるだけで」

 何も考えてなかったが相手は子供だとはいえ女の子だし確かに触ったりしたのは良くなかったのかも知れない。

「そうか? マリキ、お前、ロリコンじゃないよな?」

「何を言ってる。当たり前だろ。俺は普通だ。ノーマルだ。いや? そのはずだ。今のは、ああっと、あれだ。記憶がないから弱気になっただけで、決してなんというかそういう事ではなくてだな」

 いけない。凄い動揺してしまってる。これじゃまるでごまかしてるみたいじゃないか。

「私は全然平気です。お兄ちゃんにならどこを触られても良いです」

 おい待て倫子。分かってないで言ってるんだろうがその発言はなんか色々おかしいぞ。

「倫子がそう言うなら、まあ、良いけど」

 マー姉ちゃんがしょうがないなという風な感じで言い、あっさりと引き下がった。おーう? なんでそこでそんな態度? なんか俺がロリコンで決まりみたいな感じなってないかこれ?

「倫子。今教えたそのままの姿勢で撃ってみろ」

 そうだ。落ち着け。これ以上狼狽えては駄目だ。余計にロリコンだと思われる。俺は今までの会話など何もなかったかのような体を装うと落ち着いた声を出した。

「ここが、分からないです。さっき途中で終わったから」

 倫子が右手の手首を左手の人差し指で指差した。待ていっ。そこを今までのように教えようとしたら思いっ切り背中から覆い被さるようになるじゃないか。

「そこは、なんというか、こうだ。こう真っ直ぐにだな」

 俺は自分の腕を伸ばすと手首の角度を作って見せた。

「それじゃ分かりません。大丈夫です。触って下さい」

 いや、そう言われてもな。俺はマー姉ちゃんの方に視線を向けた。

「なんだその顔は」

「別にい~。触りたいんなら触ればあ~? 倫子も良いって言ってるしい~。あんたロリコンじゃないんでしょうぅ~? だったらこういう時にはさあ~。逆に触らなきゃ意識してるみたいで変よねえ~」

 マー姉ちゃんがにやにや笑いを顔に浮かべながらねちっこい言い回しで言いやがった。

「どうすりゃ良いんだ。触ればロリコン。触らなくってもロリコンって。俺は普通だ。ロリコンじゃない」

 俺は宣言するように叫んでしまった。そして、きょとんとしている二人の顔を見てからはっとして凄く後悔した。恥ずかしい。何を取り乱してんだ俺は。

「知ってるし。あんたからかうとほんっとに面白いわ」

くうううぅぅぅ。からかってやがったのかよおおおぉぉぉ。殺意が沸くううぅぅぅ。

「気にした俺が馬鹿だった。倫子。そこはな」

 もう相手にせん。俺はマー姉ちゃんがなんかいやらしいな、と言う前の時のように倫子の体に触れると文字通り手取り足取り撃ち方を教えた。

「なあ、倫子の方が終わったらあーしにナイフの使い方を教えてくんね?」

 ふん。誰が教えるか。またいやらしいとかロリコンとか言うくせに。

「すまんが駄目だ。俺はロリコンらしいからな」

 思い切り嫌味を言ってやった。

「なんだよそれ。あーしには冷たいじゃないか」   

 マー姉ちゃんが寂しそうな声を出すとじっと俺の顔を見つめて来た。その瞳は涙で潤んでいるように見える。どうしたんだ急に? こんな反応、なんか全然マー姉ちゃんらしくないじゃないか。

「いや。冷たいとかそんな事はない」

 もしかして傷付けてしまったのか? そう思うと頭の中が混乱して来て俺はそんな言葉だけをなんとか口から出した。マー姉ちゃんが何も言わずに下を向いた。あれ? 本当にどうしたんだこれ。はっ!? らしくないとか何を思ってたんだ俺は。俺はまだこの二人の事を何も知らない。マー姉ちゃんだってまだ子供だ。今までの態度から想像するとかなり疑わしいが、本当に傷付いて寂しくなっているのかも知れない。

「じゃあ教えてくれよ。良いだろ?」

 マー姉ちゃんが顔を下に向けたまま言った。おどおどしてて凄く遠慮してる感じが伝わって来る。俺は酷い事をしてしまっているな。

「悪かった。俺はまたからかわれてのるかと思って。倫子が終わったら教えるよ。ただ倫子にしてしまったように体に触ったりするかも知れない。嫌だったらすぐに言ってくれ」

「ありがとうな。ロ・リ・コ・ン」

 マー姉ちゃんが顔を上げると馬鹿笑いした。ぐ、ぐ、ぐぬう。この野郎。からかってやがったな。やっぱりからかってやがったんだな。

「マー姉ちゃん。やり過ぎです。お兄ちゃんがかわいそうです」

 倫子がぴしゃりと言った。

「倫子。怒ったの?」

 マー姉ちゃんが驚いたような声を出した。

「怒ってないです。でも、あんまりお兄ちゃんをからかうのは駄目です」

「そう、だよな。悪かった。マリキ。ごめん。でもナイフは教えてくれ。それは本気なんだ。全部我流で、まだ誰にも教わった事がなくって」

 倫子には弱いんだな。こうなったら倫子をうまく操って復讐してやる。

「お兄ちゃん。私は二人の事が大好きです。仲良くして欲しいです」

 鋭い倫子出たー。

「そ、そうだな。そうだよな」

 俺も倫子には弱くなりそうだ。

「じゃあ私は一人で撃ってます。分からない事があったらすぐに聞くのでお兄ちゃんはマー姉ちゃんにナイフを教えてあげて下さい」

 おう。と返事をしようとしたが、俺ってナイフなんて使えるのか? という疑問が頭の中にふっと浮かんだ。

「マー姉ちゃん。さっきは勢いで教えるなんて言ったが、俺、自分がナイフを使えるのか覚えてないみたいだ」

「大丈夫よ。あんたがナイフを使えるって事はあーしと倫子が知ってる。それと。マリサだから」

 マー姉ちゃんって呼んだからってそんなに怒らなくても良いじゃないか。違う違う。そんな事はどうでも良い。そうか。俺はナイフも使えるのか。あんな風に銃を撃っておいて今更かも知れないが、本当に戦闘要員だったみたいだな。

「なあ。俺がナイフを使えるってどうして知ったんだ?」

「あの話。例の父親を殺したって時にこのナイフを使ったからさ」

 なんでもない事のように言いマー姉ちゃんがナイフホルダーから抜いたナイフをひらひらと左右に振って見せた。

「そうなのか」

 俺はじっとナイフを見つめた。

「おいおい。顔。表情」

 俺はマー姉ちゃんの顔に視線を移した。

「すまん。また顔に出てたか?」

「うん。全然駄目。何考えてるかすぐ分かる」

 そう言われてもな。やっぱり父親を殺したなんて言われたらな。どんな顔をすれば良いのか分からない。

「あんたは良い事をしたんだ。ここはね、人を殺した事が良い事だったって普通に言える場所なんだ。あーしだって倫子だって人を殺した事がある。あんただってあーしと倫子が殺した人間のうちの一人だ」

 マー姉ちゃんが、いや、マリサがナイフの尖った刃先を俺に突き付けるように向けて来た。

「俺は生き返るから殺したうちには入らない。だが、ありがとう。そんな風に言われるとなんかほっとするよ」

 俺は人を殺したから落ち込んでるんじゃないとは言わなかった。ここまで言ってくれてるんだもんな。うじうじしててもしょうがない。父親殺しの事についてはもう気にするのはやめよう。いや。そんな事は無理だろうが努力はしよう。

「そのナイフ貸してくれないか。本当に使えるのか知りたい」

「はいよ。さっきの銃みたいに体が覚えてるかもって事でしょ。大丈夫だよ。前の時もそんな感じだった。でも、前の時はあれだったな。ナイフを見た瞬間に使えるとか言ってかな」

 見た瞬間に使えるか。今はそんな風には感じないな。俺はそんな事を思いながらナイフを受け取った。

「変な感じだ。なんか柄の感触を手が覚えてるような気がする」

 俺はナイフを握る手を動かしてナイフを色々な角度から眺めた。

「思い出すまで結構かかりそう?」 

 マリサに言われて俺はナイフからマリサの顔に視線を移した。

「どうだろうな。使えるような気はしてるが、これをこのままいじってても駄目そうだ。その辺に棒とか落ちてるよな? それをナイフの代わりに使って二人で戦う真似事みたいなのをしたいんだが付き合ってくれるか?」

 俺は言い終えるとナイフを手の中でくるっと回して持ち直し柄の方をマリサに向けて差し出した。マリサが俺の顔をじいっと見つめ面白そうじゃないかと言うとナイフを俺の手から取り走って棒を探しに行った。

「こんなもんで良いか?」

 マリサが戻って来ると手に持っていたコンバットナイフの二、三倍の長さはありそうな細い棒を折って真っ二つにした。

「ああ。ありがとう」

 俺は差し出された棒を受け取った。

「どうする? いきなりあーしが切りかかるとかで良いのか?」

「いや。最初はこう向かい合って睨み合うとかで良いんじゃないか?」

 マリサが棒を右手で持つと左手の掌をぽんぽんと軽くその棒で叩いた。

「分かったよっと」

 マリサがいきなり切りかかって来た。

「おい。そうじゃないだろ」

 間一髪の所で後ろにさがりなんとか避けた。

「良い反応じゃないか」

 マリサが一瞬にして間合いを詰めて来ると今度は俺の胸目掛けて真っ直ぐに突きを繰り出して来た。

「だからそうじゃないだろって」 

 俺は突きを避けるとマリサの右手首を掴んで腕を捻り上げた。おお。我ながらびっくりな動きだ。凄いな俺。銃の扱いだけじゃなくこんな事まで体が覚えているんだな。

「いたたたた。痛い。痛いって」

「おお。すまん。大丈夫か?」

 俺は慌ててマリサの右手首から手を放した。

「お兄ちゃん凄いです」

 倫子がいつの間にか俺達のすぐ傍に立っていて小さくぱちぱちぱちと拍手をした。

「ちっとも凄くない。今のはナイフ関係ないじゃないか」

 マリサが怒鳴った。 

「いや。これはたぶんナイフの扱いに通じる動きだと思うぞ。それよりいきなり切りかかったり突きとかしたら危ないだろ。こんな棒だってあの勢いで当たったら怪我するぞ」

 俺は自分の持っている棒の尖っている先端を指で触った。

「でも当たらなかったろ。あーしはあんたなら避けるって思ってやったんだ」

「避けられなかったらどうすんだ」

 俺はマリサの顔に真剣な眼差しを向けた。

「どうもしないさ。あんたが怪我するだけだ」

 マリサが睨むように見返して来た。

「酷い事を言うな。まあ。俺は死んでも平気だからな。分かった。じゃあその話もう良い。なあ、マリサ。ナイフはやめた方が良いかも知れないぞ。体格や体力から考えたら銃の方が良い」

「なんだよいきなり」

 マリサの声が今までよりも大きくなった。

「今のやり取りでふっと思ったんだ。それにこんな簡単に俺に負けたんだぞ。俺が本当の敵だったらお前はもう死んでる」

「何それ? 戦う真似だけって話だったろ。まだ本気じゃない」

 俺は少し考えてから棒をその場に捨てた。

「じゃあ、棒なしで本気でやってみよう。ナイフを持ってるつもりで殴りかかって来い」

「棒なしでってナイフいよいよ関係ないじゃないかよ。そんなんできっか」

 マリサが手に持っていた棒を地面に叩き付けるようにして投げ捨てた。怒らせてしまったか。だが、マリサに、こんな女の子にナイフは無理だ。

「マー姉ちゃん。私もお兄ちゃんの意見に賛成です。銃は相手が強い大きな男の人でも当てる事ができればナイフより簡単に殺せます」

 加勢してくれるのは嬉しいが倫子みたいな子供の口からそんな言葉出て来るとはな。

「なんだよ倫子まで。いつもはあーしがナイフを持ってても何も言わないじゃないか」

 倫子が顔を微かに俯けた。

「いつも心配してたんです。でも言えませんでした」

「悪かったな。けど、あーしはこのナイフが好きなんだ。倫子にそんな風に思われてたなんてな。全然知らなかった」

 マー姉ちゃんがふっと俺達に背を向けると歩き出した。

「マー姉ちゃん?」

「ちょっと買い物だ」

「おい。マリサ。悪かった。だが、俺も倫子もお前の事が心配なんだ。いきなりナイフはやめろだもんな。そりゃ怒るよな。だが、俺もいきなりなんだ。俺の体が覚えてる、いや、俺の体は変わってるから何か別の中身とかなのかな。とにかく俺のどこかに染み付いてる戦闘に対する感覚みたいな物が急にそう思わせたんだ。普段ならたぶんこんな事は思わなかったと思う。だが、倫子もナイフよりは銃が良いって言ってたからな。誰でも思う当たり前の事なのかも知れないが」

「なんだよ? べらべらべらよ。何言ってるか分かんねーよ。あーしは今いらついてんだ。はっきり言えよ」

 マリサが俺の言葉を途中で遮るようにして怒鳴ると振り返り俺の方を向いた。

「とにかく悪かった。お前が一人で行くと倫子がかわいそうだ。だから一緒にいてくれ」

 マリサが目を細めるとぎろりと音がしそうなほどの勢いで俺を睨んだ。

「はあ? ナイフの話はどうなったんだよ? もう良いのかよ? あーしはそうやって考えを変える奴が一番嫌いなんだ」

 マリサが何を思ったのかナイフをナイフホルダーから抜いた。

「おい。なんのつもりだ?」

「勝負だよ。あんたがあーしに勝ったらナイフはやめてやる。銃でもなんでもあんたの決めたもんを使ってやる」

 本物を使う気か。無茶苦茶だな。だが。他の奴ならともかく俺ならこういう無謀な勝負もできるか。

「分かった。勝負をすれば良いんだな?」

「やるんだな?」

 俺は小さく頷くとファイティングポーズをとった。

「その構え、格闘技もやってたのか? 敵にすると厄介極まりない野郎だな」

 マリサが右手に持ったナイフの刃先を俺に向けながら間合いをゆっくりと詰め始めた。

「お兄ちゃん。マー姉ちゃん」

 倫子が不安そうに心配そうに俺とマリサの名を呼んだ。

「大丈夫だ。心配するな」

「殺しても生き返るんだ。こんな奴の事気にすんな」

 まったくマリサの奴、酷い事を言う。それにしてもナイフによほどのこだわりがあるんだな。その辺りの事を聞いてから話せば良かったのかも知れない。

「考え事かよ」

 マリサが風切り音を鳴らして俺の喉の辺りを水平に切るようにナイフを素早く振った。

「本気で殺す気か」 

 俺は後ろにさがってそれをかわすとホルスターから拳銃を抜いた。

「銃を使うのか?」

 言われて自分が銃を抜いた事に初めて気が付いた。

「すまない。体が、いや、俺の中の何かが勝手にやった事だ」

 俺は銃をホルスターに戻した。

「使わないのかよ?」

「銃の有効性を示すのには使うのが一番だとは思うが、危ないからな」

 マリサが馬鹿笑いした。

「はんっ。随分と余裕だな」

 マリサが間合いを詰めて来ると今度は俺の右手の手首を狙って来た。速い。本当にさっきは本気じゃなかったようだ。これはまずいかも知れない。意識して避けたり反撃したりする事ができそうにない。俺の中身が覚えている反応というか反射というかそういう物だけでどこまでできるのだろうか。

「逃げてばかりで良いのかよ?」

 ナイフの刃先が俺の右腕をかすめた。

「お兄ちゃん」 

 倫子が悲痛な声を上げた。

「マリサ。今更だが、やめないか? 倫子にあんな声を出させてしまってる」

 自分の怪我とか命とかはどうでも良いと思える。だが、倫子の悲痛な声は別みたいだ。ぐさりと胸に突き刺さった。失敗した。何か他の方法を考えれば良かった。勝負なんてしなければ良かった。

「あーし達の事は気にすんな。あんたは元々いなかったんだ。それにさ。悲しいったって少しの間の事だけだろ。あんたはまた生き返るんだから。まあ、この戦いを長引かせるのは倫子がかわいそうかもな。終わりにしてやる」

 マリサがそう言うと後ろに飛びさがった。

「何をする気だ?」

「勢いをつけるんだよ。あんたの言う通りの所もある。力が弱いからさ。こうやって助走をつけないとな」

 マリサが腰を屈め力を溜めた思うとたたたっと数歩走り引き絞られた弓から放たれた矢のように飛んだ。今までよりも更に速い。来ると分かっていたのに避けられなかった。

「悪かったな。大丈夫だ。また必ず生き返らせてやる。だけど、次は、ナイフの事は言うな。違うか。あーし達が言わせないように気を付ける」

 俺の胸の辺りに額をぐっと押し当てながらマリサが小さな声で囁くように言った。

「ありがとうな。だが、大丈夫みたいだぞ。刺さってない。ナイフはホルスタ―の中だ」

 戦闘要員だった頃は相当な訓練を受けていたんだろう。俺はマリサの突き出して来たナイフを服の胸の部分を切られながらもなんとか避けていて、その刃を銃のホルスターを利用して受け止めていた。俺はホルスターの外側から中に入っている銃を掴むようにしてナイフの刃をホルスターと銃とで挟んで押さえていた。

「まじかよ?」

 マリサが目を大きく見開き驚きで震える声を出した。

「まじみたいだ」

 俺は空いている方の手でマリサの右手首をぐっと握った。

「あ。油断した」

 ぽそっと呟くようにマリサが言いあっさりとナイフから手を放した。

「お兄ちゃん。凄いです」

 倫子が俺に飛び付いて来た。

「偶然だ。俺も何が起きたのか実は良く分かってない」 

 そう言ってからすぐに俺はその場に座り込んだ。

「わわ」

 倫子も俺に引っ張られすとんと座った。

「ごめん。倫子。大丈夫か?」

「はい。ちょっと驚いたけど大丈夫です。お兄ちゃんこそ大丈夫ですか?」

「どうした?」

 倫子が言い終えたのほとんど同時にマリサが言った。急に体から力が抜けていた。これは腰が抜けたって奴なのか? 

「少し休めば大丈夫だと思う」

「なんだ? どっか怪我でもしたか?」

 マリサが俺の顔を覗き込んで来た。

「情けない話だが腰が抜けたのかも知れない。急に力が抜けた」

 マリサが天を仰いだ。

「なんだそりゃ。あーしはこんな奴に負けたのか」 

 マリサがその場にどかっと座った。

「マー姉ちゃん。ナイフはやめてくれますか?」

 倫子が俺から体を離すとマリサの方を向きおずおずと聞いた。

「やめない」

「ええ!?」

 倫子が驚きの声をあげた。俺は何も言わずにマリサの顔を見た。うーん。そう来たか。これ以上何か言ったりやったりするのもな。どうしたもんだろ。

「けど、銃は持つ。両方いつも持つようにする」

 マリサがにこりと微笑みながら倫子の顔を見た。

「はい」

 倫子も微笑んだ。

「あんたもこれで納得だろ?」

 マリサが立ち上がると俺に向かって手を差し伸べて来た。

「ああ。両方持つのが一番良い」

 俺はマリサの手を握り立ち上がろうとした。

「おう!?」

「ちょ、ちょっと」

 どうして座っていたのかをすっかり忘れていた。まだ本調子に戻っていなかった俺はマリサに引っ張られた勢いを殺す事ができず体のバランスを崩し倒れそうになったので咄嗟にマリサの肩を掴んでしまった。俺とマリサは縺れ合うようにして倒れ込んだ。

「マリサ。すまない」

マリサが俺の下敷きになっていた。俺は慌てて手を地面に突き上半身を起こそうとした。

「あっ。こら。どこ触ってんだ」

 むぎゅっと柔らかい何かを押し潰したような感触が掌から伝わって来た。

「どこ? どこって」

 俺は自分の手が触れている、というか押し込んでいる物を見た。

「ひゃへあ」

 変な声が出た。俺はあろう事かマリサの胸を思い切り掌で。きいやあああ。

「なんだその声は。あーしの胸、何かおかしいのかよ?」

 マリサが睨み付けて来る。

「え? いや、それは」

 こんな時、なんて答えれば良いのか分からない。

「普通の感触だろ?」

 普通の感触ってなんだよ。俺は女の子の胸を揉んだ事なんてないんだぞ。いや。揉んだ事があったとしても何も覚えてないんだぞ。どんな感触かなんて知るか。

「なんだよ? 顔真っ赤だぞ? 恥ずかしいのか? あ。ああ。そうだな。うん。離れろ」 

 マリサの顔も真っ赤になった。

「ああ、うん」

 ええっと、あれだよな。まずは手を動かして。

「何してんだよ。さっきより手の押す力が強くなったぞ。早く離れろって」

「違う。だって、離れるには立たないと」

「知るか。あれだ。あれだよ。さっさと手をどけろ」

「ええ? ああ。分かった」

「なんでもう片方の手をもう片方の胸の上にのせんだよっ」

 殴られた。思いっ切り右ストレートを顔面に食らった。

「ぼげら」 

 さっきとは種類の違う変な声をまた出しながら俺はどさりと地面の上に倒れ込んだ。

「わざとか? あーしを。あの、ええっと、狙ったのか?」

 マリサが立ち上がると俺を見下ろし恥ずかしそうにしながらしどろもどろになりながら叫ぶように言った。そんな風に恥ずかしそうに言うんじゃない。俺まで更に死にそうなほどに恥ずかしくなって来たじゃないか。

「お兄ちゃん。大丈夫ですか?」

 倫子が倒れている俺の傍に来て座った。

「倫子? それは? 何を、してるのかな?」

 倫子が俺の右手をそっと優しく両手で包むように握るとなぜか自分の胸の方に引っ張って行きぐいっと押し当てた。

「私のおっぱいなら揉んでも怒りません。どうぞです」

「こら倫子。何やってんだ」

 マリサが怒鳴った。

「あふあじょほえじょあら」

 自分でもまったく何を言ってるのか分からない意味不明な言葉を叫びながら俺は凄まじい速さで倫子から離れた。なんなんだ一体? 何がどうしてこんな状況になってんだ? 

「お兄ちゃんが望むなら私はなんでもしてあげます」 

 うわーうわーうわー。なんか凄い宣言出た。

「倫子」

 マリサが困ったような声を出した。

「ささ。お兄ちゃんどうぞです」

 倫子がぐいぐいと俺に迫るようにして近付いて来た。俺は助けを求めるようにマリサの方に顔を向けた。

「倫子。やめとけ。こいつが付け上がる」

「付け上がっても良いです」

 倫子がマリサの方に顔を向けた。

「駄目だ。また前みたいなっても良いのか?」

 マリサが言ってからしまったというように目を伏せた。

「それは」

 倫子がぽつりと言って口を噤んだ。二人が黙ったまま何も言わなくなり沈黙が俺達三人の間に降りて来た。

「あー。あの。倫子。銃の練習、見てやろうか?」

 俺は立ち上がると黙り込んでしまった二人に声を掛けるようにして言葉を出した。

「おお。そうだな。いや。もう、やめよう。町を案内してやる」

 マリサが伏せていた目を上げた。

「そっか。そんな話もしてたもんな」 

「マー姉ちゃんごめんなさい」 

 倫子が小さな声で言った。

「良いんだ。あーしも悪かった。変な言い方した」

「お兄ちゃん。聞いて下さい」

 倫子が真剣な表情で俺の顔を見上げて来た。

「倫子。言わなくて良い」

「でも、そうしないとまた前みたいになってしまいます」

 倫子が顔を俯ける。

「ならない。マリキはそんな奴じゃない」

 マリサが倫子の肩にそっと優しく手を置いた。倫子が顔を上げてマリサの顔を見た。

「さっきのは咄嗟だったからああいう言い方をしちゃったんだ。悪かった」

 マリサが倫子を自分の方に引き寄せ包むようにして抱くと倫子の額に自分の額をくっ付けた。

「悪かった」

 マリサがもう一度言った。

「マー姉ちゃん」

 倫子が目を閉じると涙の雫が頬を流れた。

「おーい。二人ともここにいたか。来てくれ。商店街で流れ者が悪さをしてるんだ」

 公園の入り口の方から男の叫ぶ声が聞こえて来た。

「なんだ?」

 俺は声のした方に顔を向けた。

「あーし達を呼んでんだろ。あーし達用心棒もやってんだ。この近辺で何かあると声が掛かる」

「もう何度も揉め事を解決してるんです」

 お。倫子が元気になった。

「そうか。じゃあ、俺も手伝おう」

「手伝おうじゃない。手伝うのが当たり前だ」

「お兄ちゃんありがとうです」

 公園の中をこっちに向かって走って来ている中年の男の元へ俺達も駆けて行った。

「相手は何人?」

「二人だ。すぐ来られるか?」

「任せろ」

「こっちだ」

 マリサとの短い会話を終えると男が先に立って走り出す。公園を出るとマリサ達の家のある方向の反対側に向かって男は走って行った。

「なあマリサ。用心棒ってお前達がやらないと駄目なのか?」

 俺は走りながら頭の中に浮かんで来た疑問を口にした。

「駄目とかじゃない。悪さをする奴らが賞金首とかって事が多いんだ。それでやってる」

「なんでそんな事聞くんだ?」

 少し間を空けてから思い出したようにマリサが言葉を付け足した。

「いや。なんというか、前を走ってる男の方がお前らよりは戦えそうだろ。わざわざ子供二人に用心棒なんてなんでさせるんだろうって思ってな」

「なるほどな。大丈夫だよ。あーし達はこの街の人達にかわいがられてる。あーし達みたいな平気で人を殺したりするガキをここの人達は仲間だと思ってくれてんだ」

「お金の為と優しくしてくれる事へのお返しの為です」

 倫子が口を開いた。

「そうか。二人とも偉いな」

 俺は前を行く男の背中を見つめた。二人の言っている事が本当なのか知りたいと思った。それから、すぐにどうして俺はそんな事を知りたいと思ってるんだろう? とも思った。公園を出てしばらく道に沿って真っ直ぐに行くと長屋は長屋だがそのすべてが商店という場所に着いた。

「さっきは佐々木んとこにいちゃもん付けてやがったんだ」

男が種々雑多な商品を所狭しと店前に並べ軒を連ねている商店の一つを指差した。

「マリキ。あーしが様子を見て来る。やばそうだったら呼ぶからここで待ってて。倫子。あんたは今日は何もしなくて良い」

 佐々木食料品店と黒一色の板に赤一色の文字で大きく書かれている看板の出ている店にマリサが歩いて近付いて行く。

「舐めた事言ってんとぶっ殺すぞ」

 凄い色使いの看板だななどと思っていると怒声が店内から聞こえ店の出入り口の横にある商品の並んでいる棚が内側から壊され棚の上にあった商品が路上に飛び散った。

「おい。なんて事するんだ。この商品を集めるのにどれだけ苦労したか」

 店の中からマリサ達を呼びに来た男と同じ年くらいの店主らしい男が飛び出て来ると路上に散乱している商品を拾い集め始めた。

「佐々木のおじさん。あーしも手伝うよ」

 マリサが普段とまったく変わらない気負いのない様子で商品を拾っている男に声を掛けた。

「ああ。マリサちゃん。来てくれたのかい? すまない。本当にすまない」

 佐々木のおじさんと呼ばれた男が顔を上げると商品を拾う手を止めて何度も頭を下げた。

「なんだ? 随分とかわいいお客じゃねえか」

 店の中からぼろ布のような服を纏った身長が二メートル以上はありそうな大男がゆっくりと店の天井に頭をぶつけないようにと腰を屈めながら出て来た。

「そりゃ良いな。兄よ。飯は後にしようぜ」

 大男に続いて店の中に良く入る事ができたなと思うほどに太ったまん丸い男が濁声を出しながら店の出入り口の所に現れた。

「あんたらひょっとしてカンゾ兄弟?」

 二人の男達の姿を見たマリサが唐突に大声を上げた。

「おお? なんだお前。俺らを知ってんのか?」

 太った男が店の出入り口の横にある壊れていない方の棚に腹の肉を擦り付けながら無理矢理といった感じで中から出て来ると大男を押し退けながらマリサに近付いた。

「知ってる知ってる。高額賞金首だもん」

 太った男と大男が顔を見合わせると大声を上げて笑った。

「笑える事言うじゃねえか。良く知ってんな」

「兄よ。俺らは無敵だからな。賞金は上がるばかりだもんな」

 二人が得意気に言いながらまた大きな笑い声を上げた。

「サインとかもらえる? 結構ファンなんだよね」

 二人がまた顔を見合わせた。

「ファン?」

「俺らのファン?」

マリサが頷きながら背中のナイフに手を伸ばした。まさか、いきなり切り掛かるつもりか? 相手はマリサのナイフに気付いていないようだし完全に油断しているようだから奇襲は有効だとは思うが、二人ともあの体躯だ。一撃で急所を確実に突けなければマリサでは絶対に勝てない。俺はいつでもマリサのフォローに入れるようにと身構えながらマリサの行動を少しでも読もうと思いマリサの一挙一動に注目した。マリサがゆっくりとナイフを抜き始めた。おかしい。切り掛かるのであればあんな風にゆっくりは抜かないはずだ。

「このナイフの刃の所にお願い」

 マリサがそんな言葉を口にしながら二人の前にナイフを差し出した。

「ほおー。物騒なもんを持ってんな」

「兄よ。俺らの事を知ってるくらいだ。このお嬢ちゃんも悪さが好きなんだろうよ」

 マリサがにこりと微笑むと大きく頷いた。

「うん。好き。だから早くサインちょうだい」

 太った男がマリサのナイフに向かって手を伸ばした。

「書くもんがないな。おい。店主。何か書くもんを貸せ」

 ナイフをマリサから受け取ると太った男が佐々木のおじさんの方に顔を向けた。マリサと男達のやり取りを不安そうに見守っていた佐々木のおじさんはマリサの顔を見つめしばらくの間じっとしていたが分かったと小さな声で言うと店の中に入り黒いサインペンを持って戻って来た。

「カンゾ弟、と。兄よ。俺は書いたぞ」

 太った男がナイフとサインペンを大男に渡した。

「カンゾ兄、と。お嬢ちゃん。これで良いか?」

 大男がナイフを誇らし気にマリサに見せてから刃の方を自分で持つと柄の方をマリサに向かって差し出した。

「ありがとう」

 マリサがナイフを受け取り俺や倫子がいる方に顔を向けて来た思うと眩しそうな物でも見ているように目を細めてから儚い今にも消えてしまいそうな笑みを顔に浮かべた。

「マー姉ちゃん」

 倫子が突然叫び拳銃を抜いた。

「おい。なんだあのガキ」

 倫子に気付いたカンゾ弟が叫びながら脇の下に吊っている大型のホルスターからサブマシンガンを抜いた。

「サインのお礼」

 マリサがすっとカンゾ弟の懐に入ると喉にナイフを突き立てた。

「うぶぶう」

 カンゾ弟が痰がからんだ時のような声にならない声を上げ喉の傷口と口から血を吹き出しながらその場に崩れ落ちた。

「弟」

 カンゾ兄がぼろ布のような服の中からポンプアクション式のショットガンを出した瞬間、俺と倫子は拳銃の中にある弾丸をすべてカンゾ兄に撃ち込んだ。カンゾ兄がその場に両膝を突くと最後の力を振り絞ってショットガンの銃口をマリサの方に向けた。俺はマリサを守ろうと走り出した。カンゾ兄の引き金に掛かっている指が痙攣するようにびくんと動いた。乾いた銃声の音が鳴った。マリサの体が散弾に撃ち抜かれ血塗れになりながら吹き飛んだ。

「マリサ」

「マー姉ちゃん」

「マリサちゃん」

「マリサちゃん」

 マリサの体がどさっという音をたてながら地面の上に落下した。

「女子供によってたかって殺されるとは、絵になる最後じゃねえか。なあ弟よ」

 カンゾ兄がかすれた声で言うとうつ伏せに倒れ絶命した。

「マー姉ちゃん」

倫子が倒れているマリサに飛び付くようにして抱き付いた。俺はその傍まで行き何もできずにただ立ち尽くした。マリサの体はあちらこちらを散弾に穿たれぼろぼろになっている。助からない。マリサはこのまま死ぬ。俺の中にある冷静な部分がそう告げていた。

「マリキ」

 血を吐き出しながらマリサの唇がゆっくりと動き、小さな吐息のような声が漏れ出た。

「お兄ちゃん。お兄ちゃん」

 倫子が顔を上げ俺に訴えるように呼び掛けて来た。

「ああ」 

 俺は喉の奥から絞り出すようにそれだけを言うとその場にしゃがみ込みマリサの顔に顔を近付けた。

「ノート。見てくれ」

 途切れ途切れになりながら言い終えるとマリサの顔が微笑んでいるように歪んだ。

「マー姉ちゃん」

「マリサ」

 マリサの体から力が抜けた。

「マー姉ちゃんマー姉ちゃんマー姉ちゃん」

 倫子が狂ったように叫びながら泣きじゃくり始めた。

「すまない。二人ともすまない」

 佐々木のおじさんが俺達の傍に来て必死に何度も何度も頭を下げ始めた。

「ちょっと良いかい? おい。おい。こっちを向いてくれ。話があるんだ」

 泣きじゃくる倫子と死んでしまったマリサの姿をただ茫然としながら見つめていた俺に俺達を呼び来た男が声を掛けて来た。俺はのろのろと振り向くと男の方を見た。

「男達とマリサちゃんの死体を早く家に持って帰った方が良い。賞金首の事が分かったら人がたくさん集まって来ちまう。俺達も手伝うから」

 こんな時に何を言ってるんだ。倫子はまだ泣いてるし、マリサが、マリサが、死んだんだぞ。

「しっかりしろ。この子達の兄貴なんだろ? これからはあんたが一人で倫子ちゃんの面倒をみるんだろ?」

 男の言葉を聞いて俺は何かに頭を殴られたような衝撃を受けた。俺が一人で倫子の面倒をみるだって? 俺は何も言葉を返せずに倫子の方に顔を向けた。倫子はマリサの体から流れ出ている血で体中を赤く染めながらまだマリサの名を叫びながら泣いていた。

「なんだこれ」

「大変じゃねえか」 

 近隣の商店から数人の男達が出て来ると俺達の周りに集まり始めた。

「倫子。行くぞ」

 俺は奥歯を思い切り食い縛るとマリサの死体と倫子を一抱えにして持ち上げた。

「マー姉ちゃんマー姉ちゃんマー姉ちゃん」

 倫子の叫び声が俺の耳朶を激しく打った。

「こっちの死体は俺達が責任を持って運ばせてもらうよ」

 佐々木のおじさんの言葉を背中越しに聞きながら、俺は家のある方向に向かって歩き出した。

 酷い思い出だ。こんな走馬灯ってあるのかよ。こんな悲しい事を思い出しながら俺は死ぬのか? 急に目の前が真っ暗になり俺は自分が倫子に撃たれ死に掛けていて走馬灯を見ている事を思い出していた。

「お兄ちゃん。お兄ちゃん。マー姉ちゃんが呼んでます」

 倫子の声がした。俺はその暖かく優しい呼び声に意識を引っ張れるようにしてまた走馬灯の世界の中に引き込まれて行った。

「今日はお兄ちゃんとマー姉ちゃんと私の三人で町の中をパトロールですか? はい。すぐに支度します」

 倫子が俺と誰もいない場所を交互に見ながら言った。

「ああ。分かった。俺も支度しよう」

 マリサが死んでからも倫子はマリサが生きていて俺達の傍にいるように振舞っていた。俺は最初のうちこそ戸惑ったが、そうさせている事が、そのままにしておいてやる事だけが倫子の為に俺ができる唯一の事だと考えると倫子に合わせてマリサが生きているという架空の世界の現実を生きる事にした。

「マー姉ちゃん待って下さい」

 倫子が誰もいない場所に向かって言いながら先に立って歩き出す。

「二人ともそんなに急いで行くなって」

 俺は笑いながら倫子を追いかけた。家を出ると俺と倫子は並びなら歩き出した。

「今日は良い天気です」

「ああ。そうだな。なあ倫子。あの話なんだが」 

 俺がそう話を切り出すと倫子がちょっと怒ったような顔になった。

「またそれですか? 私は二人と一緒にいたいって何度も言ってるじゃないですか」

 俺は押し黙ると倫子の横顔をじっと見つめた。マリサが死に際に言った「ノート。見てくれ」という言葉。俺はあの言葉に従ってノートのすべてに目を通していた。ノートには日記のような感じで俺の事だけでなく倫子やマリサ自身の事が時には楽しそうに時には悲しそうに短い付き合いしかなかった俺でも実にマリサらしいと思えるような調子で書いてあった。ノートにはそれだけでなくマリサの遺言らしき物も書いてあった。それを読んだ時、マリサが一番見て欲しかったのはこれだったのだろうと思った。マリサは、いや、正確にはマリサと父親は倫子をこの街から出してやるつもりだったのだ。俺にはあーし達じゃどんなに頑張っても無理だねなどと言っておきながらその為に倫子に内緒でずっとお金を貯めていたらしい。カンゾ兄弟と出会った時のマリサはきっと心の中で大喜びしていたのだろう。カンゾ兄弟に懸けられた賞金を手に入れる事ができれば倫子を一般市民にする事のできる金額が揃うのだから。あの時の、カンゾ弟を刺し殺す直前のマリサの顔を思い出す。マリサはあの時やり遂げたと思ったんじゃないだろうか。

「お兄ちゃん。ちゃんと周りを見て下さい」

「ああ。分かってる」

 倫子が声を掛けて来る。俺は一度顔を前に向けてから空を見上げた。

 マリサと倫子は血が繋がってはいなかった。倫子の両親はマリサの父親が追っている最中の賞金首が殺してしまった。マリサの父親はその事に責任を感じて倫子を引き取り自分の娘として育てていた。倫子は何も知らず、マリサだけはその事を父親から聞いていた。倫子をいつか一般市民にしてやりたいという父親の願いとともに。マリサはどんな思いを抱きながらこの倫子の幼い横顔を見ていたんだろう。

「何を見てるんですか?」

 倫子に言われ、俺は倫子の横顔から目をそらした。

「マリサや親父さんの気持ち分かってやれ。二人はお前にはちゃんとした生活を、人生を送って欲しいと思って頑張って来たんだ」

 倫子がまた怒ったような顔になった。

「一人は嫌です」

「施設に入るんだろ。友達がすぐにできるさ。それにいつだってこっちに会いに来られる」

 倫子が悲しそうな顔になると目を伏せた。

「お兄ちゃんは私といるのが嫌なんですか?」

 俺は慌てて否定する為に首を大きく左右に振った。

「そんな事はない。俺はマリサ達の気持ちを大切にしてやりたいだけだ。マリサはお前を行かせる為に」

 俺はそこで口を噤んだ。無茶をして死んだんだと言おうとしていた。

「行かせる為になんですか?」

 倫子が聞いて来た。俺は倫子の目を見ようとした。だが倫子は目を伏せたままだったので見る事はできなかった。

「頑張ってんだろ。マリサだって行けっているはずだぞ。俺もマリサもお前の事が大好きだ。だから行けって言ってるんだ」 

 倫子が顔を俯けた。

「ずるいです。そんな言い方されたら断れなくなります」

 倫子が顔を上げた。倫子がこんな風に言ったのは初めてだった。俺はこれはひょっとして行く気になったのか? と期待しながら勢い込んで口を開いた。

「それじゃ、行く気になったか?」

 倫子が唇を尖らせた。

「凄く嬉しそうです。お兄ちゃん。一度死んでみますか? そうすればその事を忘れるはずです。そうしたらもう私にこんな風に言わなくなると思います」

 うげげっ。なんでそうなった。

「そんな物騒な事言うな。大体俺が忘れたってマリサがいるだろ。なあ。マリサ。お前からも何か言ってくれ」

 俺は誰もいない場所に向かって助けを求めるように話し掛けた。

「ええ!? マー姉ちゃん。それは、酷いです。でも、でもです。私は離れたくないです。はい。でも、はい。でもでも、うう。はい。分かったです」

 倫子が誰もいない場所を見つめながらそこに本当にマリサがいるかのような調子で話をし、それを終えると酷く落ち込んだ様子で黙り込んだ。

「日取りは実はもう決めてある。来週の月曜。お前の誕生日の次の日だ」

 俺は倫子だけに見えているマリサに感謝しながら当てずっぽうでそんな風に言ってみた。日取りは本当は決まってはいなかったが、手続きなどは既に終えてある。この日程なら倫子の方の準備などもじゅうぶんに間に合うだろう。

「でも、でも、すぐに会いに来ます。嫌な事があったらすぐにこっちに帰って来ます」

 倫子が必死に訴え掛けるようにして叫んだ。やっと行く気になってくれたんだな。

「会いに来るのは良いがすぐに帰って来るのは駄目だ。ちゃんと頑張って来い。それでも、どうしても嫌になったら帰って来い。俺達はずっとここにいる」

 俺はマリサが死んでからの倫子と二人だけで暮らした日々の事を思い出し、自分の目が涙で潤むのを感じた。

「なあ。マリサ。これで良いよな? 今までお前がいるようなつもりで振舞っていたが、このおかしな、不自然な生活は、まあ、なんというか結構楽しかった。倫子がいなくなって俺一人になったらお前は消えてしまうんだろうな。だが、これで良いよな? 倫子の為だもんな」

 俺は涙を堪えながら心の中でマリサに向かって語り掛けた。

「あんがとな。これであーしも安心して成仏できるってもんだ。あの世で待ってるからな。いつか、でもあれか。あんたは死なないから無理か」

 マリサのそんな言葉とあの馬鹿笑いが聞こえたような気がした。

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