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政略結婚の旦那様、私の家出についてこないでください  作者: 星舟能空


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第07話 私の名前で呼んで

 広場の踊りに、招待状は要らなかった。

 必要だったのは、輪へ入る少しの図々しさと、踏まれても惜しくない靴だった。

 私の茶色い靴は、両方の条件のうち後者を満たしている。

 前者は、隣の夫に任せるつもりだった。

 夫は、私に任せるつもりらしかった。

 私たちは果実酒の杯を手に、広場の端へ立っていた。

 すぐ隣では、絵描きが客の横顔を描いていた。

 薄い板へ紙を留め、黒い木炭を走らせる。椅子へ座るのは一人ずつで、待っている間に、描き終えた絵を見ることができた。

 鼻の大きな男は、絵の中でも鼻が大きい。

 男が文句を言うと、絵描きは本人の鼻を見て、紙を見て、肩をすくめた。

 私は笑ってしまった。

「描いてもらうか」

 夫が尋ねた。

「今、あのやり取りを御覧になって、そう思われるのですか」

「よく似ている」

「似すぎるのは、困ることもあります」

 夫は私を見た。

「あなたは、困らないと思う」

 私は杯へ目を落とした。

 何でもない顔で、こういうことを言う。

 聞き流すのは難しかった。

「あなたもでしたら」

 私が答えると、夫は少し驚き、それから頷いた。

 椅子が二つ並べられた。

 絵描きは二人を一枚へ収めると言った。

 私は背筋を伸ばし、顎を少し引き、膝の上で両手を重ねた。

 婚礼の肖像画で、何度も直された姿勢だ。

 絵描きが私を見て、手を止めた。

「何か、悪い知らせを待ってるのかい」

「いいえ」

「じゃあ、肩を下ろして」

 私は下ろした。

「旦那さんも」

 夫も下ろした。

 絵描きは頭を掻いた。

「二人とも、同じ先生に叱られた子みたいだ」

 私は夫を見た。

 彼もこちらを見ていた。

 二人で笑った。

 木炭が動いた。

「今の顔で」

 絵描きが言った。

「私を見なくていい。お互いを見ていて」

 私は夫へ顔を向けた。

 夫もこちらを見る。

 急に、笑いにくくなった。

 灰色の目が近い。夕方の光を受けて、いつもより明るい。

「何か、お話を」

 私は小さく言った。

「何を?」

「笑えることを」

 夫は考えた。

「鶏に負けた」

 私は吹き出した。

「それは、存じております」

「足には自信があった」

「鶏のほうが、おありでしたね」

 夫も笑った。

 絵描きが、よし、と言った。

 少しの間、私たちは小さな失敗の話をした。

 閉まった宿。金貨一枚で買えなかったパン。昨夜二人で断ると思われて、二部屋の鍵を差し出されたときの顔。

 最後の話で、私は黙った。

 夫が私を見た。

「私は、少し残念だった」

 声が低かった。

 絵描きは紙を見ている。

 楽師たちの音が、周りを埋めていた。

 私にだけ聞こえる言葉だった。

「私も、少し」

 私は答えた。

 夫の目が、ほんの少し変わった。

 絵描きが木炭を置いた。

「動かないでって言うより、話させるほうが早かったな」

 紙を渡される。

 そこには、見知らぬ夫婦のような二人がいた。

 服は簡単な線で、宝石も紋章もない。

 夫は私を見て笑っている。

 私も笑っている。

 口元を隠さず、礼儀のために整えずに。

「似ていますか」

 私は尋ねた。

「よく」

 夫が答えた。

 私はもう一度、自分の顔を見た。

 こんな顔をしているのか。

 彼といるときの私は。

 夫が代金を払い、絵を受け取った。

「私も、半分を」

「では、額を頼めるか」

 私は顔を上げた。

「飾るのですか」

「あなたが嫌でなければ」

 嫌ではなかった。

 むしろ、他の誰にも渡したくないと思った。

「私たちの部屋へ」

 私は言った。

 夫は頷いた。

 私たちの部屋が、どこになるのかはまだ決まっていなかった。

 でも、そこへ飾るものが先にできた。

 夫は紙を傷めないように挟み、鞄へしまった。

 私はその丁寧な手つきを、いつまでも見ていたくなった。

「賑やかですね」

「ああ」

「皆様、お上手です」

「そうだな」

 楽師の弓が動き、靴音が石畳を叩く。少女の裙が広がり、青年の手がそれを追う。宮廷の舞踏とは違って、順番も組み合わせもよく変わった。

 私は夫の足を見た。

「踊り方を、御存じですか」

「知らない」

「私もです」

 そこで会話が終わった。

 宮廷なら、一曲目の種類は決まっている。扇の合図と、礼の深さと、相手の手を取る高さを知っていればよい。

 ここでは、楽しそうな人が楽しそうに入っていく。

 それが一番難しかった。

「踊んないの?」

 昼間、紐を張っていた青年が来た。

 彼は頬を赤くして、夫の肩を軽く叩いた。夫が一瞬驚く。王都でその肩へ気軽に触る人は、いないのだろう。

「やり方を知らなくて」

 私が答えると、青年は目を丸くした。

「歩いて、回るだけだよ」

「それは、どの踊りもそうです」

 青年が笑った。

「じゃあできる。来なよ」

 私たちの杯を近くの卓へ置き、青年は女友達を呼んだ。

 明るい金髪の娘が、私の手を取った。

「あたしの隣。旦那さんはこっち」

 いきなり輪の中へ入った。

 足を出す。

 戻す。

 隣へ移る。

 夫が逆へ進んだ。

 私たちの肩がぶつかった。

「失礼」

「こちらこそ」

「謝ってると、次も間に合わないよ!」

 娘が笑った。

 私は次の拍で、夫の足を踏んだ。

 謝る暇はなかった。

 夫が私の腰を軽く支え、輪から押し出されないよう引き寄せる。

 身体が近づいた。

 私たちは夫婦なのに、こんなふうにぶつかりながら踊ったことはない。

 夫の手が離れる。

 次の相手へ回される。

 太った男が笑いながら私を回し、私はまた夫の前へ戻った。

「生きていらっしゃいますか」

「足以外は」

「申し訳ありません」

「今ので二回目だ」

「数えないでください」

 夫が笑った。

 その笑い顔に気を取られて、三回目を踏んだ。


 一曲終わるころには、息が上がっていた。

 私たちは輪を出て、広場の井戸の縁へ座った。

 夫が水を買ってくる。

 私の分も。

 もう、いちいち財布を出すのはやめた。

「借りは増えますね」

「何が?」

「水のお代です」

「魚の一匹と合わせておいてくれ」

 私は杯を受け取った。

 夫も隣へ腰を下ろす。

 肩が触れそうな距離だった。

 私は昨日まで、夫と二人きりで何を話せばよいのか分からなかった。今は話したいことが多すぎて、一つに決められない。

 何も話さなくても、困らなかった。

 青年たちが、広場の反対側で手を振った。

「マティアス! 次はもう少し遅いやつだよ!」

 夫が片手を上げた。

 私の胸の奥が、妙な具合に動いた。

 マティアス。

 他人の口から、夫の名だけが呼ばれる。

 私はいつも、様を付けている。婚礼の前からそうだったし、変える理由もなかった。

 夫は私を、イレーヌと呼ぶ。

 対等でないというほど大きな話ではない。

 ただ、その小さな違いが、今は急に気になった。

「お名前で、呼ばれるのですね」

「教えたからな」

「ええ。そうでしょうね」

 何を聞いているのだろう、私は。

 夫がこちらを向いた。

「あなたも呼べばいい」

「呼んでおります」

「様をつけずに」

 彼は分かっていた。

 それが少し悔しかった。

 私は水を飲んだ。

「急には難しいです」

「半年、つけていたからか」

「初めてお会いしたのは、もっと前です」

「覚えている。叔父上の誕生日だった」

 私は顔を上げた。

「覚えていらっしゃるの?」

「あなたが、招待客の忘れた贈り物を、急いで包み直していた」

 忘れていたのではない。

 別の家へ贈るはずの紋章入りの品を持参してしまった客がいて、私は中身を飾りのない花瓶へ取り替えたのだ。

 夫は、そんな場面を覚えている。

「あのときも、働いていましたね」

「私も、客の名を読み上げていた」

 私たちは顔を見合わせた。

 初めて会った日から、お互いに忙しかった。

 婚姻しても、それが続いただけなのかもしれない。

「では、私も練習します」

「何を?」

「お名前です」

 夫は少しだけ背筋を伸ばした。

 余計に呼びづらい。

「そんなふうに待たないでください」

「分かった」

 彼は前を向いた。

 わざとらしいほど真面目に、楽師を見た。

 私は息を吸った。

「マティアス」

 小さな声になった。

 夫がこちらを向く。

「ああ」

 それだけの返事だった。

 ただ、目がとても優しかった。

 私は、広場へ来てよかったと思った。


 二曲目は、確かにゆっくりだった。

 私は夫の手を取り、向かい合った。

 最初の数歩で、夫が気づいた。

「これなら知っている」

「私も」

 宮廷の古い踊りによく似ている。田舎の音楽から宮廷へ入ったのか、その逆なのかは知らない。

 ただ、身体が覚えていた。

 私は肩の力を抜いた。

 夫の手が、私の動きに合わせて少し上がる。

 回る。

 裙の裾が足首へ触れる。

 靴が石畳を滑る。

 夫を見上げると、こちらを見ていた。

 宮廷の舞踏なら、私たちは周りも見なくてはいけない。高位の方の進路を避ける。誰が誰と踊っているか、失礼がないか、次に誰へ挨拶をするか。

 ここには、その仕事がなかった。

 夫の顔を見ていてよい。

 そう思ったら、急に照れた。

「また踏みますよ」

「今は、踏んでいない」

「見ないでください」

「どこを見れば?」

 私は答えられなかった。

 夫が少し笑う。

 ずるいと思った。

 こういう顔をするなら、もっと早く見せてくれればよかったのに。

 曲の途中で、広場の端から大きな拍手が起きた。青年と金髪の娘が、見事に転んだらしい。二人は笑いながら立ち上がった。

 私も笑った。

 夫の手が、私の背に一瞬近づいた。

 支える必要はない。

 分かっていて、触れたのだと思った。

 その一瞬が、曲の最後まで消えなかった。


 宿へ戻る道は静かだった。

 楽の音が少しずつ遠くなる。

 夜風が頬を冷ました。

 夫は私の手を離さなかった。

 私も、離してほしいとは言わなかった。

 橋の柵には、相変わらず立入禁止の札が掛かっている。川の流れは朝より遅く見えた。

「明日は渡れるといいですね」

「ああ」

「今日も、悪くありませんでした」

 夫がこちらを見た。

「魚と踊り」

「それから、新しい靴」

「足は?」

「大丈夫です」

 彼は握っている私の手を少し持ち上げた。

「こちらは?」

 私は自分の手を見た。

 夫の手の中にある。

 指の長さも、爪の形も、掌の温度も、今日はよく分かった。

「大丈夫です」

 私は答えた。

 同じ言葉なのに、別の意味だった。

 魚籠亭の前へ着くと、女将が扉を閉めるところだった。

「いい晩だったかい」

「はい」

 私が答えると、夫も頷いた。

 階段を上がる。

 向かい合わせの扉の前で、手を離す。

 指先が急に涼しくなった。

「おやすみ、イレーヌ」

 夫が言った。

 私は鍵を持ったまま、彼を見た。

「おやすみなさい、マティアス」

 今度はちゃんと、聞こえる声で呼べた。

 夫の表情が変わった。

 近づいてきたら、私は逃げなかったかもしれない。

 でも彼は、少しだけ頭を下げて、自分の部屋へ入った。

 私も扉を閉めた。

 椅子へ座ってから、握られていた手を膝の上へ置く。

 川の音が聞こえる。

 私は今夜も一人だった。

 昨日よりも、一人であることがよく分かった。

 それが寂しいだけではないことも。


 翌朝、食堂へ降りると、見覚えのある背中があった。

 淡い茶色の上着。革の筒。端がぴんと跳ねた口髭。

 宮内府の使い、オスカーだ。

 私へ気づくなり、彼は立ち上がった。

「フェルディン夫人。ようやく」

 その呼び方で、広場の夜が一瞬遠くなった。

 夫が私の後ろから降りてくる。

 オスカーは彼を見て、あからさまに安堵した。

「旦那様も。よかった。至急、お戻りいただきたく」

 私は階段の最後の一段で止まった。

 夫は私を追い越さなかった。

「朝食は、もう頼んでいる」

 彼が言った。

「話は座って聞こう」

 私は彼を見上げた。

 夫は椅子を引いた。

 私のための椅子だった。


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