第08話 奥様の旦那様
オスカーは、使い走りの仕事が長い。
だから食堂の真ん中で私を叱ったりはしなかった。
ただ、困り果てた顔で革の筒を開け、封書を二つ、食卓の端へ置いた。
私へ一つ。夫へ一つ。
女将がその間へ、焼いたパンの籠を置く。
「紙を食べるんじゃないなら、先にこっちをどうぞ」
私は、危うく笑うところだった。
夫が礼を言って籠を取った。
「オスカーも食べてくれ。いつ着いた?」
「夜明け前です。ミレンヌで足取りを尋ねまして」
「私たちからの手紙とは、行き違いか」
「おそらく」
彼の靴は泥だらけだった。
私たちの家出で、彼まで雨に降られた。
そのことは申し訳なかった。
だからといって、戻る理由にはしたくなかった。
私は封を切った。
叔父の字だった。
イレーヌ。
思いがけぬ外出に驚いている。
体調でも優れぬのかと心配したが、御主人も同行なさっていると聞いて安堵した。
明日の庭園の昼食会は、お前が引き受けるものと皆が思っている。
先方にも失礼となる。早急に帰京しなさい。
御主人には、あまり御負担をお掛けしないように。
私は最後の一行を、二度読んだ。
夫へ負担をかけないように。
私が我儘を言い、夫が収めるためについてきた。
叔父の中では、もうその話になっている。
「何と?」
夫が尋ねた。
「お見せしても、腹を立てませんか」
「読まなければ分からない」
私は手紙を渡した。
夫は読んで、眉を寄せた。
オスカーが小さくなった。
彼の責任ではない。
「私が自分で来たことは、伝えてあるはずだが」
夫が言った。
「ロベールからの御連絡は、宮内府にも届いたと存じます」
「では、そう返事をする」
夫は手紙を私へ戻した。
私はそれを畳んだ。
「あなたの御用は?」
「西の公国の使節が、予定を早める可能性がある。迎えの案内役を頼みたいと」
「本来の御担当は」
「セルナン子爵の甥だ」
知っている人だった。
若く、感じがよく、よく遅刻する。
彼の代わりに夫が客人を待たせないよう話を繋いでいるところを、私は二度見たことがある。
「では、甥御さんがなさるのでは」
「私も、そう思う」
オスカーが咳払いをした。
「ただ、土地の話など、旦那様でなければ分からないことがあるとか」
「資料は渡した」
「現場でお答えいただくほうが早いというお話で」
夫は黙った。
答えの早い人へ仕事を渡せば、渡す人は早く終わる。
私たちがいつも忙しい理由は、複雑ではなかった。
夫はパンを半分に割った。
「橋が開くまで、この町からは出られない。返事は書く」
オスカーは頷いた。
それ以上急がせなかった。
彼も疲れている。
女将が温かい汁を彼の前へ置くと、ようやく肩を落とした。
朝食のあと、夫は手紙を書くため部屋へ戻った。
私は庭へ出た。
魚籠亭の庭には、古い洗い桶が三つ並び、雨水が溜まっている。白い花が咲いた木の下で、年配の女が外套を繕っていた。
彼女は私を見ると、隣の椅子を顎で示した。
「顔が曇ってるね。空は晴れたのに」
「座っても?」
「そのつもりで呼んだのさ」
私は座った。
女の膝には、男物の外套が載っていた。袖の縁が擦り切れている。
「御主人のものですか」
「そう。新しく買えって言うのに、まだ着られるって聞かなくてね」
「直して差し上げるのですね」
「私がみっともないのを隣に連れたくないんだよ」
言葉とは裏腹に、針目は丁寧だった。
私は見覚えのない種類の親しさを感じた。
宮廷の夫婦は人前で欠点を言うとき、嫌味になるか、わざとらしい惚気になる。この女の言葉は、そのどちらでもなかった。
「お二人は、どちらへ?」
「北へ帰る。娘のところからね。孫が生まれたんだ」
「おめでとうございます」
「ありがとう。あんたたちは新婚旅行かい」
私は返事に詰まった。
「結婚して半年ですが」
「じゃあ、そうだ」
「家出です」
女の針が止まった。
私は自分がそんなことを言ったのに驚いた。
女は私を見た。
「二人で?」
「私が出たら、夫がついてきました」
女が声を上げて笑った。
「悪くないね」
「そうでしょうか」
「帰れって言ってるのかい」
「いいえ」
「じゃあ、悪くない」
単純だった。
私にはまだ、そんなに単純に考えられない。
夫は優しい。でも帰ったら、きっとまた呼ばれる。私は待つ。彼の仕事が大切だと知っているから、何も言えない。
女が縫い目を確かめる。
「あれも若いころは、私の話をろくに聞かなかったよ」
「今は?」
「耳が遠くなった」
私は吹き出した。
女も笑った。
庭の反対側から、夫らしい男がやってきた。
「何の話だ」
「あんたが若い頃、女に人気があったって話」
「嘘を教えるな」
男は聞こえていたらしい。
女は針を布へ刺し、外套を差し出した。
「ほら。破れたのはここだけだから、肘で壁を擦らないでおくれ」
「擦ってない」
「じゃあ壁が来るんだね」
男は何も言い返さず、外套を受け取った。
そしてもう片方の手に持っていた、小さな紙袋を女の膝へ置いた。
「胡椒煎餅だ」
「歯に硬い」
「薄いやつにした」
女は袋を開けた。
一枚を割って、半分を夫へ渡す。
私はその何でもない動作を、見つめてしまった。
「あんたも食べるかい」
「ありがとうございます」
受け取った煎餅は、本当に薄かった。
胡椒がぴりっとした。
女は立ち上がり、腰へ手を当てた。男がその肘を支える。
「行くよ。川を見てくる」
「さっき見た」
「今は変わってるかもしれないだろ」
二人は並んで庭を出た。
歩く速さは同じだった。
どちらが合わせているのか、分からなかった。
夫は部屋の窓際で手紙を書いていた。
ノックをすると、すぐ返事があった。
私は扉を開けたまま立った。
「少し、よろしいですか」
「もちろん」
ペンが置かれる。
それだけで、胸のどこかが緩んだ。
私は中へ入った。
「帰ってほしいと思っていらっしゃいますか」
夫は私を見た。
「思っていたら、そう言う」
「宮廷へは、どうお返事を?」
「資料の場所と、先方が質問しそうなことをいくつか。案内役本人が説明できるように」
「それを書くために、午前中を使われたのですか」
「まだ半刻だ」
半刻。
その小さな単位が積み重なって、いつも一日になる。
私は窓の外を見た。
「叔父の手紙へは、私が返事を書きます」
「ああ」
「あなたに連れ帰られる、という話にしないでください」
「しない」
「それから、私があなたをお連れした、という話にも」
夫は少し笑った。
「私が勝手についてきた」
「はい」
「今は、許されたと思っていたが」
私は彼を見た。
問いかける目だった。
手紙の内容より、そちらの答えのほうが大事なのだと分かった。
「……許しました」
夫の口元が緩んだ。
「では、そう書いておこう」
「書かないでください。叔父に読ませるものではありません」
彼は声を出して笑った。
私は椅子を借り、紙を一枚もらった。
叔父へ返事を書く。
叔父様。
休暇の届けは出しております。
昼食会の代役をお引き受けした覚えはございません。
夫は、自分の意思で同行しています。
予定どおり戻ります。
書き終えて、私は最後の一行を見た。
予定どおり。
川の水位も知らないのに。
線を引いて消し、帰着日は改めて知らせます、と書き直した。
夫が横から見ていた。
「十日ではなくなったのか」
「まだ分かりません」
「そうか」
「海を見ないまま帰るのは、嫌ですから」
夫は頷いた。
書き直した箇所を、私は恥ずかしいと思わなかった。
ただ、封筒へ入れる前に一度だけ深く息を吸った。
昼過ぎ、橋が開いた。
町の鐘が鳴り、人が動き始める。
オスカーは返書を受け取り、王都へ戻る支度をした。
見送りに出た私へ、彼は少し困った顔を向けた。
「実は、奥様の御休暇について、私は存じ上げませんでした」
「届けは出しました」
「はい。ただ、出発前に承りました説明では、御家庭の行き違いがあって、御旅行へ出られたと」
私は立ち止まった。
夫もこちらを見た。
「誰から?」
夫が聞いた。
「セルナン子爵の御部屋で、そう伺いました。御帰宅いただければ済むと」
家庭の行き違い。
何となく腹を立てて外へ出た妻。
迎えに行けば済む。
届けを出した十日間の休みは、どこへ消えたのだろう。
「控えを確かめてもらえるか」
夫が言った。
「ロベールが持っている」
「承知いたしました」
オスカーは頭を下げた。
私は彼へ礼を言った。
彼が去ったあとも、しばらく道を見ていた。
夫が隣へ立つ。
「イレーヌ」
「私は、ちゃんと知らせました」
「分かっている」
「勝手に、なかったことにはされたくありません」
夫は頷いた。
「それは、私もだ」
同じ怒りが、隣にあった。
昨日の甘さとは違う熱だった。
私はそれを、心強いと思った。




