第06話 渡し守の休日
ルーセへ着いたときには、橋が閉じていた。
白い橋桁の手前に柵が置かれ、川の水が、その下ぎりぎりを濁って流れている。
渡し舟も休みだった。
「明日、晴れて水が引けばね」
渡し守は、道の端に置いた椅子で靴紐を結び直していた。
私は川を見た。
次に橋を見た。
それから手帳を開いた。
ルーセには一泊。明日の午前中に南岸へ渡って、ラヴェルへ向かう馬車を捕まえる。そう書いてある。
「明日の何時ごろでしょう」
「川に聞いてくれ」
渡し守は顔を上げずに答えた。
夫が私の手帳を覗いた。
「今日は、こちら側へ泊まろう」
「宿は向こう岸に」
「見えているな」
そう。見えている。
黄色い壁の宿。小さな旗が揺れている。窓には暖かそうな灯りが点いている。
あそこに私の一日が用意されているはずなのに、川が一本あるだけで、辿り着けない。
「北岸にも宿はあるよ。魚籠亭なら、今朝何人か帰った」
渡し守がようやく顔を上げた。
「南へ行くのかい」
「オーブへ」
「なら、急いで沈むことはない。海は逃げないから」
その言い方に、少しむっとした。
十日しかないのだ。
帰ったあとの予定もある。休んでいる間に積み上がる用事を思えば、最終日を延ばすわけにはいかない。
海は逃げなくても、私の休みはなくなる。
それを説明する前に、夫が手帳を閉じる私の指を見た。
「今、決められるのは宿までだ」
彼は静かに言った。
私は頷いた。
正しい言葉が、いつも嬉しいとは限らない。
魚籠亭には、二部屋空いていた。
女将がその事実を告げたとき、私たちは二人とも返事をしなかった。
「お二人ともお泊まりで?」
「はい」
「じゃあ、こちらとこちら。向かい合わせだから」
鍵が二つ置かれる。
夫は一つを取った。
私はもう一つを取った。
昨日の晩は枕で境界を作った。今夜は壁がある。
望みどおりのはずだった。
夫が濡れた外套を脱いだ。
「身体を冷やさないうちに、着替えたほうがいい」
「あなたも」
「ああ」
私たちは別々の部屋へ入った。
扉を閉めると、雨の音だけになった。
静かだった。
私は鞄を置き、椅子へ座った。
やっと一人になれた。
そう思ってよいはずなのに、向かいの部屋から椅子を動かす音がすると、耳がそちらを追った。
私は手帳を開いた。
明日の予定へ、雨天延期、と書く。
その下は空白になった。
何を入れるべきか、思いつかなかった。
翌朝、雨はやんでいた。
川の水は引かなかった。
食堂でその知らせを聞いた私は、パンを割る手を止めた。
夫は向かいで、魚の燻製を食べている。
「午前中は渡れないって。午後も、どうだろうねえ」
女将が湯を足した。
「この辺りで、馬車を借りることはできますか」
「借りても橋は渡れないよ」
「上流へ回れば」
「丸一日かかるね。上の橋も閉じてるかもしれない」
私は地図を出した。
夫が杯を置いた。
「待とう」
「二日続けて、予定が崩れています」
「雨を責めても変わらない」
「責めていません」
「そう聞こえた」
私は地図を畳んだ。
少し乱暴だった。
女将が私たちを見比べ、空いた皿を持って離れた。
夫は何も言わない。
私も、何も言いたくなかった。
昨日はあんなに助け合えたのに、朝になるとまた、知らない人と座っている。
「この旅を、ずっと楽しみにしていました」
ようやく言った。
「分かっている」
「分かっていらっしゃらないと思います」
夫の目が、私へ向いた。
私は続けた。
「私はいつも、変更する側ではなく、変更されたものを引き受ける側です。どなたかが休めば代わりに出ます。どなたかが遅れれば、その間のお相手をします。だから自分のことくらい、書いたとおりにしたかったのです」
言ってしまうと、子どもじみて聞こえた。
雨にまで、私の予定を守ってほしいと要求している。
夫は地図へ視線を落とした。
「私がいるから、余計にそう思うのか」
私は答えられなかった。
少しは、そのとおりだった。
夫が来なければ、宿の失敗も靴擦れも、自分だけが知る失敗だった。誰にも見せず、帰ってから楽しかったとだけ言えた。
「あなたを責めたいわけではありません」
「ああ」
「でも、正しいことを言われると、恥ずかしくなります」
夫は驚いた顔をした。
それから、小さく息をついた。
「それは、知らなかった」
「今、初めて申し上げました」
「そうだな」
夫は自分の皿を少し横へ動かした。
「今日は、私は魚を食べに行こうと思う」
「今、召し上がっています」
「違う魚を」
私は彼を見た。
夫は真面目だった。
「川沿いに、揚げた小魚を売る店があった。昨日、荷車の男が美味いと言っていた」
「そうですか」
「あなたも行くか」
予定を決められたのではない。
誘われた。
私は畳んだ地図を見た。
空白の一日は、どこにも行けない日ではないのかもしれない。
「午前中から揚げ物ですか」
「昼にしよう」
「では、参ります」
夫が頷いた。
それから残っていたパンを取った。
朝食はまだ、温かかった。
ルーセの北岸には、細い運河が何本も走っていた。
橋が閉まっていても、町は動いている。女たちが軒先へ洗濯物を出し、魚屋が桶の水を替え、子どもが泥に棒で線を引いて遊んでいた。
私たちは川沿いを歩いた。
新しい靴はよく働いた。
夫は昨日までより少しゆっくり歩いている。気づいて、私は同じ速さへ足を合わせた。
「急がなくていい」
夫が言った。
「合わせてくださっているのでしょう」
「私も脚が痛い」
そうだった。
私は彼の顔を見て、笑うのを我慢しなかった。
「軟膏は効きませんでしたか」
「効いたが、万能ではなかった」
「宮廷へお戻りになるまでには、治りますように」
「椅子の多い場所だからな」
川の角に、揚げ物の店があった。
軒先で大きな鍋が煮え、油の匂いが漂っている。紙に包んだ小魚を買い、二人で石の段へ腰掛けた。
今度は夫が銅貨で払った。
「代金を」
私は財布を出した。
夫は少し考えて言った。
「一匹ずつ、交互に取れば同じになるだろうか」
「割り切れない数でしたら?」
「最後の一匹は、あなたに」
「それでは借りになります」
「次に返してくれ」
私は財布をしまった。
次がある、という言い方が、妙に嬉しかった。
魚は熱かった。
舌を焼きかけ、私は慌てて息を吹いた。
夫が笑った。
「私のあとに食べればよかった」
「毒味を頼むつもりはありません」
「熱いかどうかくらいは分かる」
塩が効いて、骨はかりかりしていた。
川面に光が戻ってきた。
私は母の貝殻を服の上から押さえた。
「母は、海辺で育ったのです」
「オーブで」
「はい。小さい頃、何度も聞きました。朝の海は銀色で、昼は青く、雨の前は緑になると」
夫は黙って聞いていた。
「きっと帰りたかったのだと思います。でも、父の仕事も、私の教育もありましたから」
「一度も帰らなかったのか」
「私が知る限りでは」
母が亡くなったのは、私が十七のときだった。
そのあとで、もっと聞いておけばよかったと思ったことがたくさんある。
故郷の家の窓は何色だったのか。
誰と砂浜を歩いたのか。
海のない王都で、寂しくはなかったのか。
「私だけでも、見ておこうと思いました」
夫は紙の包みを私のほうへ寄せた。
「見られる」
「川が許してくれれば」
「許さなくても、別の道は探せる。今日は魚の日にしただけだ」
私は彼を見た。
「魚の日」
「悪いか」
「いいえ」
笑いながら、最後の一匹を取った。
借りができた。
午後、宿へ戻る途中で、小さな広場を通った。
若者たちが柱の間へ紐を張り、色紙を結んでいる。町の祭りの準備だという。
私は足を止めた。
紐の片側が、高すぎた。
結んでいる青年は椅子へ乗り、さらに爪先立ちになっている。
「台を替えたほうが」
言いかけたところへ、椅子がぐらついた。
夫が踏み出して、背を押さえた。
青年がこちらを見た。
「助かった!」
「降りてくれ。私が結ぶ」
夫は椅子を使わず、腕を上げて紐へ手を届かせた。
便利な背丈だった。
私は少し嫌な気持ちになった。旅先でも、また便利だから頼まれるのかと。
だが夫は紐を結ぶと、その場を離れた。
「こちら側だけでいいか」
「十分だ。ありがとう!」
青年は笑って、次の色紙を取った。
誰も夫を引き止めなかった。
次の柱も、その次もとは言わなかった。
私たちは歩き出した。
「今夜、広場で踊るそうだ」
夫が言った。
「お好きなのですか」
「見るのは」
「踊るのは?」
夫は私を見た。
「相手による」
私は前を向いた。
耳が熱くなった。
川はまだ渡れない。
それが初めて、少しだけ惜しくなくなった。




