↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
政略結婚の旦那様、私の家出についてこないでください  作者: 星舟能空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/30

第24話 卵が冷めます

 私は、夫の卵を食べなかった。

 自分の分を食べ終え、木の匙を置いた。

 時計を見る。

 朝食の時刻から、四半刻が過ぎていた。

 ユディトが紅茶を足そうとした。

「まだ、温かいわ」

 私は言った。

「旦那様を、お呼びしましょうか」

 私は少し考えた。

 呼んでもらう。

 待つ。

 戻ってきたら、不機嫌を隠す。

 それは、よく知っているやり方だった。

「自分で行きます」

 私は立った。

 怒りを見せに行くのではない。

 朝食へ連れてくるために。

 そう考えると、足が前へ出た。


 応接室の扉は、少し開いていた。

 夫の声が聞こえる。

「その配置なら、先に南の入口から」

「ですが、子爵閣下は」

「子爵には、実際の通路を見てもらってくれ」

 私は扉を叩いた。

 夫が顔を上げた。

 卓には一枚の図が広がっている。

 立っているのは若い宮内府の書記だった。私を見ると、慌てて礼をした。

「おはようございます」

 私は挨拶を返した。

 夫へ向き直る。

「卵が冷めます」

 夫は時計を見た。

 顔が変わった。

「すまない。すぐ」

「あと一箇所だけ」

 書記が図を指した。

 夫の目がそちらへ戻りかけた。

 私は待った。

 言い争わず、笑って流さず、ただ立っていた。

 夫が手を止めた。

「九時からなら、半刻取れる」

 彼は書記へ言った。

「今は、朝食の約束がある」

 書記が私を見た。

 私は微笑んだ。

 申し訳なさそうには、しなかった。

「九時に、もう一度お越しください」

 夫は図を畳まず、書記へ戻した。

「それまでに、南の入口を確かめてきてくれ。そのほうが話が早い」

 書記は頷いた。

 不満そうではあった。

 それでも仕事を失ったわけではないし、世界も止まらなかった。

 彼は図を持って帰った。

 夫は私の前で、少し肩を落とした。

「また、やった」

「はい」

 私は頷いた。

「話を聞くだけのつもりだった」

「存じています」

「見れば分かるものだったから」

「あなたには」

 夫は息を吐いた。

 私は彼の手を取った。

「今なら、卵は食べられます」

 彼がこちらを見た。

 少し驚いて、それから頷いた。

 私たちは食堂へ戻った。


 夫の卵は、少し冷めていた。

 彼はそれを食べた。

 新しく茹で直してほしいとは言わなかった。

 私は紅茶を飲みながら、その様子を見ていた。

「怒っているか」

「少し」

「そうだろうな」

「でも、戻ってきてくださって嬉しいです」

 夫は匙を止めた。

 私は続けた。

「両方です」

 彼はゆっくり頷いた。

「両方、受け取る」

 私は少し笑った。

 旅をしたからといって、半年の癖が全部なくなるわけではない。

 でも今日は、私は部屋を出ていかなかった。

 夫も仕事を続けなかった。

 戻れた。

 完全に同じ朝ではなかった。

「次は、最初に時刻を見ます」

 夫が言った。

「九時前には、誰も通さないように頼む」

「急な知らせなら?」

「ロベールに、用件を聞いてもらう。本当に急なことと、早く済ませたいことは違う」

 私は頷いた。

「私も、朝食の間はお手紙を読みません」

 食卓の脇へ置かれた封書を見た。

 私の分も、もう三通届いていた。

 夫が笑った。

「二人ともだな」

「はい」

 私たちは、木の匙を使い終えた。

 鷺の顔は、王都でも間抜けだった。


 午前中、私はユディトと荷物を片づけた。

 青い靴を箱へ戻そうとして、やめた。

「庭へ出るときに履きます」

「それが、本来のお仕事です」

 ユディトが真面目に答えた。

 私は笑った。

 彼女へ、海辺で暮らすことを考えていると話した。

 まだ決まっていない。

 最初は短い期間になるかもしれない。

 来てほしい気持ちはあるが、彼女の希望を先に聞きたい。

 ユディトは服を畳む手を止めた。

「姉の子が、冬には学校へ上がります」

「ええ」

「それまでは、王都にいたいです」

 私は頷いた。

 少し寂しかった。

 でも、その寂しさを理由に彼女の予定を変えたくはなかった。

「分かったわ」

「冬からでしたら、海も見てみたいと思います」

 私は顔を上げた。

 ユディトが微笑んだ。

「お手紙に、食べ物のことがあまりにも楽しそうでしたので」

「食べ物だけ?」

「奥様も、お元気そうでした」

 私は少し照れた。

「冬の海は、寒いそうよ」

「王都も寒いです」

 正しい返事だった。

 私は彼女の手を取った。

「では、決まったらまた相談させて」

「はい」

 自分たちの暮らしを変える話は、誰かの返事を待つ話でもあった。

 その待ち時間を、私は以前ほど怖いと思わなかった。


 昼前、叔父から使いが来た。

 明日の会食へ一緒に向かうから、迎えの馬車を出すという。

 私は使いへ、夫と参りますと答えた。

「お話があるそうで」

「でしたら、今日の午後、こちらで伺います」

 使いは少し驚いた。

 叔父の家へ私が出向くと思っていたのだろう。

 私も、いつもならそうした。

 でも今日は、自分の家にいたかった。

 午後、叔父が来た。

 不機嫌だった。

 夫は同席するか尋ねてくれた。

 私は首を振った。

「最初は、私から話します」

「分かった。隣にいる」

 その返事を聞いてから、私は応接室へ入った。

 叔父は立ち上がらなかった。

「随分、楽しんできたようだな」

「はい。よい旅でした」

 私は座った。

 叔父の眉が動いた。

 咎めた言葉へ、私が喜びで答えたからだろう。

「皆が困った」

「休暇の届けは、出発の十二日前に出しました」

「その話はもうよい」

「私は、よくありません」

 自分の声が、思っていたより落ち着いていた。

「引き受けた役目を投げ出したと、皆様へお話しになったそうですね」

「分かりやすく説明しただけだ」

「違う話です」

 叔父は私を見た。

 私は目を逸らさなかった。

「明日、その点を訂正してください」

「お前がもっと穏当に戻れば、騒ぎにもならん」

「穏当に戻りました。夫と一緒に、馬車で」

 叔父が言葉を詰まらせた。

 私は、ほんの少しだけ笑いそうになった。

 マティアスが聞いていたら、きっと笑っただろう。

「言葉遊びではない」

「私も、遊んでおりません」

 私は手を膝へ重ねた。

「休むと知らせたことを、なかったことにしないでください」

 叔父は長い息を吐いた。

 その顔に、初めて少し困惑があった。

 いつもなら私が折れるところで、まだ話が続いている。

 私は、その先を待った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。