第23話 同じ家の違う部屋
王都の門が見えたとき、私は夫の手を握った。
門は来たときと同じだった。
白い石。高い塔。荷馬車の列。
何も変わっていない。
変わっていてほしかったのかもしれない。
私たちが旅をしている間に、王都も少し待ち方を覚えてくれたらよいのにと。
夫が指を握り返した。
「帰ってきた」
「はい」
南門を通る。
私は、夫へついてこないでと言った場所を見た。
昨日のことのようでもあり、ずっと昔のことのようでもあった。
「あのとき、随分怖い顔をしていた」
夫が言った。
「あなたも、突然でした」
「今なら、乗る席がある」
私は笑った。
同じ馬車の、隣の席。
来たときにはなかったものを、持って帰ってきた。
屋敷の玄関では、ロベールとユディトが待っていた。
馬車が止まる前から、ユディトの目が私の靴へ向いた。
茶色い靴。
彼女は何も言わなかった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
「ただいま」
私が言うと、彼女は深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
私はその両手を取った。
「姉上は、お元気?」
「はい。奥様のお手紙を、皆で楽しみにしておりました」
「全部?」
「食べ物のところを中心に」
信用できない返事だった。
私は笑い、彼女も笑った。
夫がロベールへ礼を言っている。
家令は少し驚いた顔をしたあと、穏やかに頷いた。
「まずは、お休みください。お話は夕食のあとでも」
「そうする」
夫は頷いた。
玄関の卓には封書が積まれていた。
彼の視線が一瞬、そこへ行った。
私は気づいた。
夫も、私が気づいたことに気づいた。
「あとで」
彼が言った。
私は頷いた。
たった二文字が、最初の小さな勝利だった。
私の寝室は、綺麗に整えられていた。
花も新しい。
寝台の覆いも、長椅子の位置も、出ていった朝のままだった。
鞄を置くと、ユディトが上着を受け取った。
「お疲れでしょう。湯を御用意します」
「ありがとう」
私は部屋を見回した。
広い。
波明かり亭より、ずっと。
けれど、向かいの部屋までが遠い気がした。
「ユディト」
「はい」
「寝室を、変えたいの」
彼女は手を止めた。
驚かなかった。
少なくとも顔には出さなかった。
「どちらへ?」
「夫と、同じ部屋に」
言葉にしたら、頬が熱くなった。
旅先では当たり前になったことが、屋敷では改めて宣言しなければいけない。
ユディトは頷いた。
「旦那様のお部屋へ、御荷物を?」
「まだ、相談していないの。部屋を見てから、どちらがよいか」
「かしこまりました」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「まずは、お湯を」
その順番に助けられた。
私は旅の埃を洗い落とした。
着替えてから夫の部屋を訪ねると、彼もちょうど扉を開けたところだった。
「話がある」
彼が言った。
私も同時に、同じことを言った。
顔を見合わせる。
「寝室のことなのですが」
私が先に言うと、夫が笑った。
「同じ話だ」
それだけで、胸の奥が軽くなった。
夫の寝室は、私の部屋より少し暗かった。
朝日が直接入らない。
私の部屋は明るいが、隣の屋敷の馬車の音が聞こえる。
私たちは互いの部屋を見て、少し考えた。
「私の部屋へ」
私は言った。
「朝、明るいほうがよいです」
「分かった」
「机は、そちらに置いたままにしてください」
夫が私を見た。
「仕事を寝室へ持ち込まないように?」
「はい。私も、手紙の箱はこちらに」
「手紙は読んでいいだろう。海から来るかもしれない」
私は少し考えた。
「では、お仕事の束を」
「束は持ち込まない」
決まりが一つできた。
大きな制度ではない。
二人が同じ寝台で眠るための、小さな置き場所の話だった。
夫は自分の枕を持ち上げた。
「これは、私が運ぶ」
「捕虜ではありませんね」
「自国民だ」
私は笑った。
廊下でユディトとすれ違った。
彼女は枕を抱えた夫を見て、一瞬だけ視線を落とした。
笑ったのだと思う。
私も笑った。
家の中の人たちに、その笑いを見られてもよかった。
夕食には、鶏が出た。
丸ごとではなく、綺麗に取り分けられていた。
杏の焼き菓子もあった。
ユディトが手紙を料理人へ渡したのだ。
私は夫を見た。
夫が頷いた。
「帰ってきたな」
彼が言った。
私は笑った。
食べ物だけではない。
私たちの旅の一部が、家へ先に届いていた。
木の匙も使いたいと頼むと、料理人は少し困った顔をした。
鶏を木の匙で食べるのは難しい。
私たちは笑って、明日の卵からにした。
食事のあと、ロベールと話した。
家の用事を抱えてくれた礼。
休暇の届けを確かめてくれた礼。
そして、これから暮らしを少し変えたいこと。
家令は驚かなかった。
「海辺で、よいお時間を過ごされたようで」
「はい」
私が答えた。
「こちらでも、同じように過ごせる時間を持ちたいのです」
ロベールは頷いた。
「できることを、相談いたしましょう」
その返事に、私はほっとした。
すぐ全部整うとは言わない。
でも、無理だとも言わなかった。
夜、夫が私の寝室へ来た。
枕はもう置いてある。
寝間着も、洗面の道具も。
私は寝台の端へ座り、彼を迎えた。
「お仕事は?」
「明日」
「本当に?」
「本当に」
夫は隣へ座った。
部屋が広くても、二人で近づけば距離は短い。
私は彼の肩へ手を置き、口づけた。
波の音は聞こえない。
代わりに、遠くで馬車が走る音がした。
王都の夜だった。
それでも、私たちは同じように触れ合えた。
旅先の魔法ではなかった。
そのことが、嬉しくてたまらなかった。
翌朝、夫が先に寝台を出た。
「玄関へ、宮内府の使いが来ている。話だけ聞く」
私はまだ半分眠っていた。
「朝食までには?」
「戻る」
扉が閉まった。
私はしばらく横になり、それから起きて身支度をした。
食堂へ行く。
卵が二つ置かれていた。
木の匙も、二本。
夫の席は空いていた。
私は座った。
窓から朝の光が入る。
卵の湯気が、少しずつ薄くなった。




