第20話 帰る理由
ラシェル夫人の手紙には、私を叱る言葉がなかった。
そのかわり、私が知らないところで使われた私の言葉が、いくつも並んでいた。
夫との行き違いに腹を立て、急に旅行へ出た。
引き受けていた昼食会を投げ出した。
夫が連れ帰ろうとしているが、海を見なければ帰らないと言い張っている。
私は紙を膝へ置いた。
最後だけ、少し本当だった。
でも、その前の二つが違えば、全体は全く別の話になる。
夫が手紙を読み終えた。
「ひどいな」
「よくできています」
私は答えた。
夫がこちらを見た。
「本当のことが少し混じっているので、否定すると私が嘘をついているように見えます」
海を見るまで帰りたくない。
夫がついてきた。
そこだけ切り取れば、我儘な妻と、それを宥める夫の話にできる。
私は窓を閉めた。
夜風が急に冷たく感じた。
「誰が話したかも、書いてある」
夫が言った。
叔父だった。
セルナン子爵も、私の欠席を休暇とは説明しなかったらしい。
私たちの不在で自分たちの段取りが悪く見えるより、夫婦の問題にしたほうが簡単だったのだろう。
「戻って、訂正する」
夫が言った。
私は振り向いた。
「二人で、です」
「ああ」
彼はすぐ頷いた。
ラシェル夫人は、七日後の王妃陛下の小さな会食へ、私たち二人を招いていた。
宮内府の手配を通さず、本人から返事がほしいとある。
その場には叔父もセルナン子爵も来る。
私たちが普段の役目で給仕を助けたり、客人を案内したりする必要はないとも書いてあった。
客として来るように。
その一文が、少し奇妙だった。
宮廷の客なのに、仕事をしなくてよいと言われなければ分からない。
「行かないという返事も、できます」
私は言った。
「できる」
「でも、それでは話がそのままになりますね」
夫は頷いた。
私は椅子へ座った。
さっきまで、一日だけの家の話をしていた。
大きな流しが欲しいと笑っていた。
その暮らしへ戻りたいと思った。
海を見て、二人で食べ、何も聞かなかったことにして。
でも、聞いてしまった。
王都へ帰れば、また私の不在の説明を、誰かが代わりにする。
私はそれを、もう引き受けたくなかった。
「明日、帰る支度をします」
私は言った。
夫が私の前へ来た。
「急ぎすぎなくていい。七日ある」
「途中でまた、橋が閉じるかもしれません」
夫が少し笑った。
私は笑えなかった。
彼は私の手を取った。
「海が、惜しい?」
私は頷いた。
子どもみたいに、素直に。
「もう少し、いたかったです」
「私も」
「母の家も見ました。海も見ました。それなのに、まだ帰りたくありません」
「ここで、あなたと過ごしたいからだろう。私もそうだ」
私は顔を上げた。
夫は私を見ていた。
帰る理由と、帰りたくない理由を、同じ人と話せる。
それは王都で待っていたころには、なかったことだった。
翌朝、私たちは女将へ、明日出発すると告げた。
女将は残念そうな顔をしたが、理由は聞かなかった。
「また来な。夏は騒がしいけど、秋は静かだよ」
「はい」
私は頷いた。
また来る。
社交の返事ではなく、本当にそうしたかった。
夫が離れのほうを見た。
「あのような家を、長く借りることはできるのか」
私は彼を見た。
女将は少し考えた。
「あれはうちの客用だから、ずっとは難しいね。でも、町には空き家もある。冬だけ使う人もいるよ」
「そうか」
「買うなら急がないことだ。晴れた日に綺麗でも、雨漏りする家はあるから」
現実的な助言だった。
夫は真剣に頷いた。
私はその横顔を見て、胸の奥が温かくなった。
まだ家を買うと決めたわけではない。
ただ、選べるものとして尋ねてくれた。
それだけで、帰ることが永遠の別れではなくなった。
港で、御者の帰路を確かめた。
来るときと同じ人が、王都まで戻る仕事を探していた。私たちを乗せれば都合がよいという。
私は今度こそ、途中の宿を確かめた。
夫も地図を見た。
急いで三日。余裕を持って四日。
「四日にしましょう」
私が言った。
「会食の二日前に着きます」
夫が頷いた。
旅程を立てること自体が、悪かったのではない。
変わる余地を、一つも残さなかっただけだ。
私は余白を空けて、時刻を書いた。
御者へ見せると、彼は二箇所直した。
「ここは坂だから、もう少し。それから、この宿は飯が遅い」
「承知しました」
私は書き直した。
夫が横で笑っている。
「何ですか」
「最初の地図を、思い出した」
「白鷺亭は、忘れてください」
「あの失敗がなければ、鶏を一皿で分けていなかった」
私は少し黙った。
失敗の全部を、消したいわけではないのだと気づいた。
あの部屋も、あの食卓も、私たちには必要だった。
午後、私たちはもう一度浜へ行った。
今日は靴を脱がなかった。
風が強く、海は緑がかっていた。
母が言った色が、また一つ見えた。
私はそれを夫へ話した。
「銀色と、青と、緑」
夫が言った。
「全部、見られました」
「まだ、違う日もある」
「はい」
私は波を見た。
全部見たから終わり、ではない。
次に来れば、また違う海だろう。
夫の手を取った。
「帰ったら、きっと難しくなります」
私は言った。
「ああ」
「ここでは、二人で決めれば済みました。でも、王都では」
「二人だけで決められないこともある」
私は頷いた。
「それでも、最初に二人で話してください」
夫が私を見た。
「誰かへ返事をしてからではなく」
「分かった」
「私も、そうします」
夫は私の手を持ち上げ、指先へ口づけた。
「約束する」
私は笑った。
その約束が、簡単に守れるとは思わない。
それでも、約束しないまま諦めるよりよかった。
私たちは少し長く、浜を歩いた。
帰りたくないからこそ、帰ったあとのことを話した。
夜、荷物を詰めた。
来たときより物が増えている。
木の匙が二本。詩集。歌の本。塩の菓子。母の手紙を書き写した紙。新しい貝殻。
青い靴は、夫の鞄に入ったままだった。
「お返しいただきますか」
私が言うと、夫が首を振った。
「持てる」
「私の荷物です」
「知っている」
私は笑った。
初日のように、奪われる気はしなかった。
夫の荷物にも、私が畳んだシャツが入っている。
私の鞄には、彼の星図が一冊入っている。取り出しやすいからという理由で預かった。
別々の鞄なのに、中身はもう少し混じっていた。
私は留め具を閉じ、寝台へ座った。
夫が隣へ来た。
今夜も同じ部屋だった。
帰る支度のあとに愛し合うのは、少し切なかった。
それでも、終わりの夜にはしなかった。
夫は何度も私の名を呼んだ。
私も彼を呼んだ。
窓の外の波の音を、忘れないように聞いていた。




