第19話 一日だけの家
波明かり亭の離れには、小さな台所が付いていた。
長く泊まる客が、自分で湯を沸かしたり食事を作ったりするためのものらしい。
女将が窓を開けているのを見て、私は足を止めた。
「あちらも、お部屋なのですか」
「そう。今は空いてるよ。お年寄りの夫婦が冬の間使っていてね」
白い壁。低い屋根。小さな庭。
窓の前に、木の卓が見えた。
私は庭の土を見た。
青い靴でも歩けそうだった。
夫が隣へ来た。
「見てみたいのか」
「少し」
今度は私が、少しと言った。
夫が笑った。
「頼んでみよう」
女将は気軽に鍵を開けてくれた。
中には二脚の椅子と、小さな食器棚。寝室は奥に一つ。台所の窓から、海が細く見えた。
広い家ではない。
私たちの屋敷の、客間二つ分くらいだろうか。
でも、扉を全部開けなくても、相手がどこにいるか分かった。
私は台所の卓へ手を置いた。
「ここで、朝食を食べるのですね」
「好きな時間にね。片づけも自分だけど」
女将が答えた。
夫は窓から庭を見ていた。
「一日、使えるだろうか」
私は彼を見た。
「今日?」
「あなたがよければ」
私は頷いた。
女将は、薪と食器は使ってよいが、魚を焼くなら外でと言った。
私たちはその決まりを、真剣に聞いた。
市場で材料を買うところから、夕食は始まった。
私は簡単な煮込みなら作れると思っていた。
作ったことはない。
でも、見たことはある。
見たこととできることは違うと、旅で何度も知ったはずなのに、鍋の中で煮るだけならと思ってしまった。
夫はもっと慎重だった。
「宿で、作り方を聞こう」
「子どもでも作るものでは」
「子どもは、教わっている」
正しかった。
今度は恥ずかしくなる前に、頷けた。
女将は簡単な魚の汁物を教えてくれた。
切った野菜を煮て、最後に魚を入れる。
塩は少しずつ。
鍋を見に来ると言ったが、私は遠慮した。
「失敗したら、宿の夕食をお願いします」
「最初から、そのつもりで多めに作っておくよ」
女将が笑った。
夫は薪を割るつもりで外へ出た。
私は野菜を切り始めた。
玉葱は、涙が出た。
こんなに出るとは思わなかった。
夫が戻ってきたとき、私は目元を拭いていた。
「どうした」
「玉葱です」
彼はすぐに事情を理解した。
旅の途中で泣いている私を見たからといって、毎回同じ理由だと思わないところがよかった。
「替わろう」
「あなたも泣きます」
「一緒なら、半分だ」
夫も泣いた。
私は笑いながら、皮を片づけた。
涙を拭く布が、二枚必要になった。
薪は、割ってあるものを使うことになった。
夫が斧を持ったところで、宿の主人が止めたらしい。
「手を怪我されるほうが困ると」
「賢明な方です」
「私もそう思う」
私たちは、二人ともできることが少なかった。
それでも、何もできないわけではない。
夫が火を見て、私が鍋をかき混ぜる。
私は塩を入れ、夫が味を見る。
少し薄いと言われ、もう少し入れる。
今度は私が味を見た。
「美味しいかもしれません」
「食べ物にはなっている」
「評価が低いです」
「期待は高い」
私は笑って、鍋へ蓋をした。
食卓へ木の匙を並べた。
間抜けな鷺が二羽、向かい合う。
夫がパンを切り、私は汁をよそった。
魚は少し崩れていた。
野菜は大きさが揃っていない。
それでも、湯気はいい匂いだった。
「いただきましょう」
私が言うと、夫が頷いた。
食べた。
美味しかった。
自分たちで作ったから、少し贔屓しているのかもしれない。
それでもよかった。
「次は、もう少し玉葱を小さく」
夫が言った。
「あなたが切ったものです」
「だから、次の私へ言っている」
私は笑った。
次。
海辺の小さな家で、また二人で鍋を作る。
その光景を、私は簡単に思い描けた。
けれど、楽しいことだけではないのも、少し分かった。
食べれば皿が汚れる。
火を使えば灰が残る。
パンはなくなるし、買い物へ行く時間も必要だ。
「毎日、全部は難しいですね」
私は言った。
「ああ」
「ユディトや料理人に、ずいぶん助けられていたのだと」
「ロベールにも」
私たちは頷いた。
人の助けを借りる暮らしを、やめたいわけではなかった。
ただ、助けられた時間を、また別の誰かへ全部渡してしまいたくない。
私は匙を置いた。
「家にいる時間を、持ちたいです」
夫が私を見た。
「ここで?」
「ここでも。王都でも」
私は窓の外を見た。
庭の向こうに海が細く光っている。
「どこでもよいと言えば、嘘です。この町は好きです。でも、あなたがいても会えない家へは、戻りたくありません」
夫はしばらく黙っていた。
「私も」
それから、そう言った。
私は頷いた。
答えを急がなかった。
家をどうするか、仕事をどうするか、それはまだ決めていない。
でも、何を嫌だと思っているかは、同じ卓で言えた。
後片づけでは、小さな喧嘩をした。
夫は使ったものをその場で洗いたい。
私は先に卓を片づけ、まとめて洗いたい。
狭い流しの前で、二人の手がぶつかった。
「それは、まだ使います」
「もう鍋は空だ」
「残ったものを移します」
「なら、先に言ってくれ」
「見れば分かると思いました」
言った瞬間、二人とも止まった。
見れば分かる。
分かっていないから、手がぶつかっている。
私は皿を置いた。
「先に、残りをこちらへ移します。そのあと鍋を洗っていただけますか」
「分かった。私は食器を先に洗う」
「はい」
それで済んだ。
愛していると言ったからといって、流しの順番まで自然に揃うわけではない。
私は少し笑った。
夫も笑った。
さっきの言葉の尖りが、湯の中へ溶けた。
片づけが終わるころには、夕方になっていた。
私たちは庭へ椅子を出し、並んで座った。
何もしていない時間が、今日はよく働いたあとに来た。
夫が私の手を取った。
「いい家だ」
「はい」
「もう少し、大きな流しが欲しい」
私は笑った。
「そこですか」
「そこは大事だ」
私は彼の肩へ寄りかかった。
未来の話が、地位や義務だけでなく、流しの大きさから始まった。
それが嬉しかった。
日が沈む前に、宿へ鍵を返した。
女将は鍋の出来を聞き、私たちが美味しかったと答えると、よかったねと笑った。
そのあと、帳場の奥から封筒を出した。
「王都から。昼に届いたよ」
私の名が書いてあった。
叔父の字ではない。
王妃陛下の侍女長、ラシェル夫人の字だった。
私は封筒を受け取った。
夫が隣で見ている。
部屋へ戻ってから、封を切った。
最初の一文は、海は御覧になれましたか、だった。
その次に、王都で私たちについて広がっている話が書かれていた。
私は最後まで読み、夫へ渡した。
彼の顔が、読み進めるにつれて固くなった。
明日のことを、もう少し考えなくてはいけなくなった。




