第18話 夫婦になった翌朝
夫婦になった翌朝、夫は私の髪を腕で踏んでいた。
「マティアス」
「……ああ」
「腕を」
彼が起き上がる。
髪が解放された。
私はそっと頭を動かし、無事を確かめた。
「すまない」
「長い髪と暮らすには、経験が必要なのですね」
夫は一瞬黙り、それから笑った。
私は彼の胸元へ手を置いた。
昨夜までは知らなかった肌の温かさを、今は知っている。
それだけで、普通の朝の光が違って見えた。
「痛むか」
「髪は、もう」
夫が少し困った顔をした。
私は質問の意味に気づいて、頬が熱くなった。
「大丈夫です」
「無理は」
「しておりません」
言いながら、彼の肩へ額を寄せた。
自分から近づくことが、昨日より簡単になっている。
簡単になったのに、嬉しさは少しも減らない。
夫が私の背へ腕を回した。
「もう少し、このままで」
彼が言った。
私は頷いた。
今日は、どちらも先に起きて仕事へ行かなくてよかった。
朝食を逃しかけた。
それは、少し困った。
階下へ降りると、女将が時計を見て、私たちを見た。
「パンはある。卵は今からだよ」
「申し訳ありません」
私は頭を下げた。
夫も礼を言った。
女将は、何もからかわなかった。
そのことがありがたかった。
私たちは窓際へ座った。
夫が椅子を引いてくれる。
私は彼の向かいへ座りかけ、隣へ移った。
夫が少し驚いた。
「海が、見やすいですから」
「そうか」
彼は笑って、自分の椅子も少し窓へ向けた。
私は卓の下で、膝が触れていることに気づいた。
動かさなかった。
卵が来るまで、パンを食べた。
「今日は、どうしますか」
私が聞くと、夫は窓の外を見た。
「港で、小さな船へ乗せてもらえるらしい」
「船?」
「漁から戻るまでの、短いものだ。宿の主人が昨日教えてくれた」
私は海を見た。
昨日は穏やかだったが、今日は波が少し高い。
船が上下している。
考えただけで、胃が揺れた。
「お行きになりたいのですか」
「興味はある」
「では……」
一緒に行きます、と言いかけた。
昨夜、愛していると言った。
今日、別々のことをするのは、変だろうか。
夫が私の顔を見た。
「船は、好きではない?」
「乗ったことがありません」
「酔いそうか」
「見ているだけで、少し」
夫は頷いた。
「では、やめよう」
私は彼の袖へ手を置いた。
「お一人で行っていらしては」
「いいのか」
「お戻りになったら、お話を聞きます」
言ってみると、悪くなかった。
私は船に乗らない。
夫は乗る。
昼にまた会う。
その間に愛が減るわけではない。
夫が私の手へ自分の手を重ねた。
「昼までには戻る」
「私は、市場と本屋へ参ります」
「昼食は、ここで?」
「はい。十二時半に」
約束ができた。
待つ場所と、時刻のある約束だった。
夫を送り出してから、私は町を歩いた。
一人で。
家出の初日以来、久しぶりだった。
寂しくないと言えば嘘になる。
でも、自由でもあった。
店の前で長く立ち止まってもよい。興味のないものを、夫が見たいかどうか気にしなくてもよい。
私は小さな布屋へ入った。
窓に、海色の細い紐が掛けてある。
夫の飾り紐に、ちょうどよさそうだった。
選びながら、結局夫のことを考えていると気づいた。
私は笑った。
自由であることと、相手を思い出さないことは、同じではない。
「贈り物ですか」
店の女が尋ねた。
「夫へ」
「では、端をほつれにくくしておきましょう」
私は頷いた。
紐を包んでもらう間、店の片隅で、小さな女の子が針へ糸を通していた。
何度やっても入らない。
私は手を出しかけた。
女の子が舌を少し出し、片目を細める。
糸が入った。
彼女は満足そうに顔を上げた。
私は手を引っ込めた。
自分でできた顔を、奪わずに済んだ。
そのことも、旅で覚えた気がした。
本屋では、古い絵入りの詩集を見つけた。
海の詩ばかりではない。山の歌も、庭の歌もある。
私は店の奥の椅子で、少し読ませてもらった。
時間を確かめる。
まだ十一時。
もう少し読める。
誰かが来て、予定が変わったからすぐ出てほしいとは言わない。
その静かな自由を、私はゆっくり味わった。
詩集を買い、店を出る。
港には船が戻り始めていた。
私は波止場へ向かった。
夫の船がどれかは分からない。
でも、少し待っていると、見慣れた背の高さが見えた。
夫は船から下りるとき、足元を確かめすぎて漁師に笑われていた。
私は笑いながら手を振った。
彼が気づいた。
まっすぐこちらへ来る。
その顔を見た瞬間、私は昼まで別々に過ごしてよかったと思った。
会えて嬉しい、という気持ちが、こんなに分かりやすかった。
「早いですね」
「風が強くなった」
「楽しかったですか」
「とても。あなたは?」
「私も」
夫が私の包みを見る。
「本?」
「それと、あなたへ」
私は小さな包みを差し出した。
夫が開く。
青い紐を見て、少し目を細めた。
「今のものが、よほどひどかったか」
「新しいものでも、結び方が同じなら、同じです」
彼が笑った。
「では、教えてくれ」
「夜に」
言ってから、昨夜を思い出した。
夫も思い出した顔をした。
私たちは一瞬黙り、また笑った。
昼食の卓で、夫は船の話をした。
綱の扱いを手伝おうとして、かえって邪魔になったこと。漁師に座っていてくれと言われたこと。水面の下を魚の影が走ったこと。
自分が役に立たなかった話を、楽しそうにした。
私はそれが好きだった。
宮廷へ戻れば、彼はまた有能な人でいなくてはいけないだろう。
でも、私の前では、魚を取り逃した人でもよい。
私も、本を読んで時間を忘れかけた話をした。
夫は聞いて、詩集を見せてほしいと言った。
昼食が終わっても、話は終わらなかった。
女将が皿を下げに来る。
「午後、お部屋を掃除したいんだけどね」
「すぐ出ます」
私は答えた。
夫が私を見た。
「急がなくていい。いつ空ければ?」
女将が、三時から一刻ほどと言った。
夫が頷いた。
「その時間は、浜へ行く」
それだけで済んだ。
私は自分の返事の速さを、少し笑った。
誰かが困りそうなら、すぐ空ける。
それは悪いことばかりではない。
でも、時間を聞いてからでもよかったのだ。
三時になって、私たちは浜へ出た。
途中で港を通ると、若い女性が船の横から手を振った。
「マティアス!」
私は足を止めた。
明るい声だった。
夫の名が、ためらいなく海風へ飛び出してくる。
夫も気づいて手を上げた。
「ノエミ。朝は世話になった」
船主の娘だと紹介された。
短くまとめた髪に、日に焼けた頬。腕には細かな擦り傷がある。彼女は私にも笑顔を向け、朝の船の話をした。
「最初は、そんなにきっちり立ってたら揺れで転ぶよって言ったの。すぐ覚えたけどね」
「それは、御迷惑を」
私は答えた。
声が少し固かった。
自分で分かった。
ノエミは気づかず、夫へ向き直った。
「明日は小さい帆を出すんだ。よかったらまた来なよ。綱を引くだけじゃなくて、舵も触らせてあげる」
夫の目が少し明るくなった。
私はそれを見た。
見てしまった。
今日の午前中、私は一人で楽しんだ。夫にも一人で楽しんでもらいたかった。
それなのに、私の知らない女性が、私の知らない夫を知っていることが、急に面白くなかった。
彼女は悪くない。
夫も悪くない。
だから余計に、行き場がない。
「明日の予定は、まだ決めていない」
夫が答えた。
「朝までに知らせる」
「分かった。奥さんも、波が低かったらどう?」
私は微笑んだ。
「船は少し苦手で」
「そっか。じゃあ、帰りに魚を持たせるね」
親切な人だった。
嫌な人であってくれたら、もっと簡単に怒れたのに。
私は笑顔のまま礼を言った。
港を離れると、夫が私の顔を覗いた。
「疲れた?」
「いいえ」
「歩くのが速い」
私は立ち止まった。
また、歩き方を見られていた。
夫も止まった。
「何か、気に障ったのか」
私は海を見た。
何もなかったと言いたかった。
そんなことで不機嫌になる自分を、見せたくなかった。
でも、ないことにした気持ちは、たいてい別の言葉へ刺さって出てくる。
私は夫へ向き直った。
「私がお名前を呼ぶまで、あんなに練習したのに」
言ってから、顔が熱くなった。
夫は瞬きをした。
それから、理解した顔になった。
笑いかけたので、私は先に言った。
「笑わないでください」
「すまない」
「謝るのも、違います」
夫は唇を結んだ。
明らかに、笑うのを我慢していた。
私はますます腹が立ち、同じくらい恥ずかしくなった。
「ノエミ様に意地悪をしたいわけではありません。お優しい方でしたし」
「ああ」
「あなたが船へ行くのも、止めたいわけでは」
そこまで言って、私は言葉を止めた。
本当だろうか。
明日の朝も一緒にいたい。
せっかく、今日から昨日とは違う夫婦になったのに。
私は夫の袖を掴んだ。
「明日の朝は、私が欲しいです」
夫の顔から、笑いを堪える表情が消えた。
「私と、一緒にいてください」
彼は私の手へ自分の手を重ねた。
「いる」
簡単な返事だった。
私は顔を上げた。
「よいのですか」
「船は、また頼める」
「私も、ここにおります」
「今日は、あなたが欲しいと言った」
夫の声が少し低くなった。
私は、言ってしまった言葉の熱さをもう一度感じた。
彼は私の指を握った。
「嬉しかった」
私は目を逸らした。
こんなに勝手な気持ちを、嬉しいと言われるとは思わなかった。
「あなたも、そんなふうに思うことがあるのですか」
私は尋ねた。
夫は少し考えた。
「広場で、あなたが別の男と回っていたとき」
私は驚いて彼を見た。
「踊りの順番でした」
「分かっている」
「皆様、交代していました」
「それも分かっている」
夫は少し困ったように笑った。
「それでも、次に戻ってくるのが待ち遠しかった」
私は、黙った。
それから、少しだけ笑った。
自分だけが、こんなに狭い心になったのではない。
そのことが嬉しくて、また欲張りだと思った。
「では、今日は私が独占します」
私は彼の腕へ自分の腕を絡めた。
「どうぞ」
夫が答えた。
私たちは港へ戻り、明日の朝は行かないと伝えた。
ノエミは残念そうにしたが、またいつでもと笑った。
私は今度は、自然に礼を言えた。
海へ出る夫の楽しみを、全部取り上げたわけではない。
明日の朝を、一つもらった。
その一つが、今の私にはとても贅沢だった。
浜へ下りると、夫が私へ尋ねた。
「独占する人は、どこへ連れていく?」
私は少し考えた。
「人の少ないところへ」
夫が笑った。
私は彼の手を引いた。
さっきよりゆっくり、二人で歩いた。
夜、私は夫の青い紐を結んだ。
一度結んで、ほどき、彼にやってもらう。
左右が揃った。
「できましたね」
「先生がよい」
「生徒も、今日はよく話を聞きました」
夫が私の腰へ手を回した。
「もう一度、ほどく練習を?」
私は笑って、彼の胸へ額を寄せた。
幸福な一日は、特別な景色だけでできているのではなかった。
別々に出かけ、同じ食卓へ戻り、くだらないことを話す。
そんな一日を、私はもっと欲しいと思った。




