第17話 二人で選んだ部屋
オーブで迎えた最初の朝、私は夫より早く起きた。
窓の向こうが白い。
波の音が、夜より近く聞こえる。
夫を起こそうか迷った。
朝の海を見たい。
一人で行ってもよい。
でも、一緒に見たい。
私は彼の肩へ手を置いた。
「マティアス」
夫が目を開けた。
「海を見に行きませんか」
「今?」
「はい」
彼は窓を見て、それから私を見た。
少し眠そうに笑った。
「行こう」
私は、起こしてよかったと思った。
起こさなければ、彼は眠っていた。
それだけのことなのに、私はこれまで、相手に自分の望みを知らせない理由をいくつも持っていた。
眠いだろうから。
忙しいだろうから。
海に興味がないかもしれないから。
その全部より、今は一緒に行きたかった。
浜の砂には、まだ足跡が少なかった。
波が消したのだろう。
私たちは靴を履いたまま、水の届かないところを歩いた。
海は銀色だった。
母の言葉のとおりだった。
でも、言葉で聞くより眩しくて、風は思ったより強かった。
髪が顔へ掛かる。
私は片手で押さえた。
夫が足を止め、私の前へ回った。
「少し」
彼は私の髪を耳の後ろへ寄せた。
指が頬へ触れた。
そのまま、口づけた。
私は驚いて彼の袖を掴んだ。
「朝から」
「嫌か」
「いいえ」
即答すると、夫が笑った。
私は少し悔しくなり、彼の胸元を軽く押した。
「人がいます」
「遠い」
「見えます」
「では、戻ってから」
それは、戻ってからもするという意味だった。
私は前を向いた。
夫が私の手を取る。
砂浜には、二人分の足跡が続いていた。
私は振り返ってそれを見た。
夫も一緒に振り返った。
「波が消しますね」
「また歩けばいい」
私は頷いた。
その返事が、好きだった。
市場で花を売っていた。
小さな白い花と、濃い黄色の花。王都の温室で育てたものより、茎が短くて丈夫そうだった。
私は白い花を見ていた。
夫が売り手へ代金を渡した。
「私が買おうと思っていました」
「私も」
「お部屋へ?」
「あなたへ」
私は花を受け取った。
贈り物は初めてではない。
婚礼には宝石をもらった。季節の贈答にも、整えられた品が届いた。
でも、夫が目の前で選び、自分の手で渡す花は初めてだった。
私は鼻を近づけた。
少し青い匂いがした。
「ありがとうございます」
「似合う」
「まだ、何もしていません」
「持っている」
私は花で口元を隠した。
夫が妙に楽しそうだった。
旅の初日に金貨しか持っていなかった人が、いつの間にこんなことを言うようになったのだろう。
それとも、もともと言える人だったのだろうか。
私が聞く場所にいなかっただけで。
昼食のあと、私たちは部屋で休んだ。
窓辺の水差しに、白い花を挿した。
夫は椅子へ座り、私が買った歌の本を開いている。
私は寝台の端で髪をほどいた。
風に乱れた編み目が、思ったより絡んでいた。
「手伝おうか」
夫が言った。
「できますか」
「引っ張らないようには、できる」
私は櫛を渡した。
夫が後ろへ回る。
櫛の歯が、髪の端から少しずつ入る。
不慣れだった。
でも、乱暴ではなかった。
引っかかると止まり、指でほどいてから、また梳く。
私は目を閉じた。
「ユディトより、時間がかかりますね」
「職を奪うつもりはない」
「奪われたら、彼女が困ります」
「私も困る」
私は笑った。
夫の指が首筋へ触れた。
笑いが途切れた。
彼も手を止めた。
私は振り向いた。
夫が私を見ていた。
櫛を持ったまま、少しだけ困った顔をしている。
「何ですか」
「綺麗だと思っていた」
私は言葉を失った。
宮廷では、綺麗だと言われることはある。
衣装を褒め、宝石を褒め、髪の結い方を褒める。
夫は今、ほどけた髪と、普段着の私を見ている。
「いつから?」
聞いてしまった。
夫は少し考えた。
「最初に会った日から」
「もっと早く、言ってくだされば」
「言えばよかった」
彼は素直に認めた。
私はその素直さが、たまらなく好きだと思った。
何もかも上手い人ではない。
失敗を隠すために、こちらを小さくする人でもない。
私は彼の手から櫛を取り、卓へ置いた。
夫が少し近づく。
私は逃げなかった。
唇が触れた。
朝より長かった。
彼の肩へ手を置き、身体を寄せた。
夫の腕が私を包む。
私は、この先を知りたいと思った。
夫だから果たすことではなく、この人だから欲しいこととして。
口づけが離れたとき、私は息を整えながら言った。
「今夜は、早く戻りましょう」
夫の目が変わった。
何を意味しているのか、分かったのだと思う。
「ああ」
彼は私の額へ触れた。
私はその手へ頬を寄せた。
窓の白い花が、風に少し揺れた。
夕食までの時間が、長かった。
私たちは港を歩き、船を見て、店で乾いた果実を買った。
普通のことをしているのに、手を繋ぐたび、目が合うたび、身体がその先を思い出した。
夫も、いつもより口数が少なかった。
私はそれを寂しいと思わなかった。
同じことを考えているのだと、なんとなく分かった。
宿へ戻ると、女将が明日の宿泊を確かめた。
「もう一晩、泊まるかい」
私は夫を見た。
夫が私を見る。
「はい」
私が答えた。
「同じ部屋で」
夫の指が、私の手を少し強く握った。
偶然空いていた部屋ではない。
仕方なく一つの寝台を使うのでもない。
私たちが選んだ部屋だった。
夜、私は先に湯を使った。
長い髪を丁寧に梳き、寝間着の紐を結び直す。
鏡の中の自分が、少し知らない顔をしていた。
緊張している。
嬉しい。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、やめたいとは思わなかった。
夫が戻ってきた。
私は椅子から立った。
彼の襟元には、また少しねじれた飾り紐があった。
私は手を伸ばした。
「今日は、直しません」
夫が私を見た。
私は結び目をほどいた。
紐が指の間を滑る。
夫の手が私の腰へ触れた。
「イレーヌ」
「はい」
「愛している」
私は顔を上げた。
彼はまっすぐ見ていた。
胸の奥で、何かがほどけた。
「私も、愛しています」
言葉は思っていたより自然に出た。
何度も胸の中で言っていたのだと、そのとき分かった。
夫が私を抱き寄せた。
私は彼の首へ腕を回した。
口づけを重ねるたび、少しずつ、知らなかった距離がなくなった。
肩へ触れる手。
髪へ埋まる指。
名前を呼ぶ声。
私は笑ってしまい、夫も笑った。
緊張が消えたのではない。
緊張している自分のまま、ここにいてよいのだと思えた。
寝台へ入ってからも、二人で何度か笑った。
うまくできないことがあり、聞かないと分からないことがあり、それでも触れ合うたびに、もっと知りたいと思った。
灯りが消えた。
窓の向こうで波が寄せていた。
私たちはその夜、初めて、本当に夫婦として愛し合った。
婚礼から半年後の、誰にも予定を渡していない夜だった。




