第16話 私の海
海は、曲がり角の向こうにあった。
長い丘を下り、白い家が並ぶ道へ入って、御者が右へ曲がった。
建物が途切れた。
青いものが、窓いっぱいに広がった。
私は声を出せなかった。
水なのだと分かっている。
川も池も、いくらでも見たことがある。
それなのに、あまりにも大きかった。
向こう岸がない。
空と水の間に、細い一本の線があるだけだ。
「イレーヌ」
夫が私を呼んだ。
「はい」
「着いた」
私は頷いた。
喉の奥が詰まっていた。
泣くかと思った。
でも涙は出なかった。
ただ、窓から目を離せなかった。
波が白く崩れる。
崩れたところへ、また次の波が来る。
母が話してくれた音が、初めて本当の音になった。
「綺麗」
ようやく言えた。
それ以上の言葉は、思いつかなかった。
夫は何も足さなかった。
私の隣で、同じ海を見ていた。
宿へ入る前に、浜へ下りた。
御者は港の厩へ馬を連れていくと言い、私たちの鞄を宿へ届けてくれた。
私は砂へ足を踏み入れた。
靴が沈む。
歩きにくい。
でも、急ぎたかった。
波打ち際へ近づく。
「靴が濡れる」
夫が言った。
私は止まった。
少し考えた。
靴を脱いだ。
夫が目を丸くした。
「冷たいぞ」
「少しだけです」
靴下も脱ぎ、靴の中へ入れた。
砂が足の裏へ触れる。
細かくて、冷たい。
一歩進むと、濡れた砂はもっと冷たかった。
波が来た。
足首へ触れた。
「冷たい!」
私は声を上げて後ずさった。
夫が笑った。
「そう言った」
「聞くのと、違いました」
私は裙を少し持ち上げ、もう一度進んだ。
今度は、覚悟していた。
それでも冷たかった。
足の指の間を、水が流れる。
私は笑った。
声を出して笑った。
夫が靴を脱ぎ始めた。
「あなたも?」
「見ているだけでは、分からないらしい」
彼は私の隣へ来た。
波が来る。
夫の肩がぴくりと動いた。
私は笑った。
「冷たいでしょう」
「かなり」
夫も笑った。
私たちは二人で、冷たい海に足を入れていた。
何の役にも立たない。
何も証明しない。
でも、このために来たのだと、私は思った。
浜には貝殻がたくさん落ちていた。
母がくれたものと同じ薄紅色もある。
私は一つ拾い、砂を払った。
思っていたより、ありふれていた。
母の貝殻は、私にとって世界に一つだった。
ここでは、子どもが踏んで歩くくらいたくさんある。
私はそれを、不思議に思った。
夫が隣で、欠けた殻を拾った。
「こちらは、少し大きい」
「でも、端がありません」
「そうだな」
彼は砂へ戻した。
私は拾った殻を手の中で転がした。
「母のものと、同じです」
「ああ」
「同じなのに、違いますね」
夫は私の首元を見た。
そこには、母の貝殻がある。
「それは、あなたが拾った」
私は頷いた。
母からもらったもの。
私が自分で拾ったもの。
同じ海の、違う一枚。
私は新しい貝殻を、外套のポケットへ入れた。
母のものは、胸元へ戻した。
どちらか一つにする必要はなかった。
宿の女将は、砂だらけの私たちを見て、何も聞かなかった。
扉の横の桶を指しただけだった。
「そこで足を洗って。砂を上へ持っていかないでおくれ」
「申し訳ありません」
私たちは素直に足を洗った。
夫の足は、私よりずっと大きい。
それを見ていたら、彼がこちらを向いた。
「何か?」
「いいえ」
「今日は、よく見られる」
「海も見ております」
夫が笑った。
宿は、波明かり亭という名だった。
二階の部屋から海が見える。窓を開ければ波の音が入る。寝台は一つ、椅子は二つ。
女将が鍵を渡すとき、私たちはもう互いを見比べなかった。
同じ部屋へ行く。
それが今日の選択だった。
荷物を置き、窓を開けた。
風が入った。
机の上の紙がめくれた。
私は慌てて押さえた。
夫が窓を少し狭くする。
「全部開けなくても、見える」
「そうですね」
私は窓の前へ椅子を引いた。
夫も、もう一つの椅子を並べた。
しばらく二人で座っていた。
話さなかった。
待ってもいなかった。
ただ、見ていた。
夕方、母が育った家を訪ねた。
今は別の家族が暮らしている。
クロエ様から紹介の手紙を預かっていたので、家の前で立ち止まるだけでなく、戸口で挨拶をすることができた。
出てきたのは、幼い男の子を抱いた女性だった。
「アデルさんの娘さん。お聞きしています。どうぞ」
彼女は庭へ入れてくれた。
家は母の話より、小さかった。
窓枠は青ではなく、今は白く塗り直されている。
庭の大きな木は残っていた。
私はその木へ近づいた。
幹に、古い傷がある。
母が登って叱られた木だという。
私は葉を見上げた。
母がここから見た空も、きっと青かった。
「中も御覧になりますか」
女性が尋ねた。
私は少し迷って、首を振った。
「ありがとうございます。でも、ここで十分です」
中は今、この家族の家だ。
母の部屋を探して歩き、違っているところを寂しがるのは、何か違う気がした。
庭へ入れてもらえただけで、嬉しかった。
私はクロエ様から預かった菓子を渡した。
男の子が両手を伸ばした。
その動作を見て、母もここで菓子を盗んだのだろうかと思った。
私は笑った。
家の前で、夫が私へ尋ねた。
「よかったのか」
「はい」
「思っていた家だった?」
「少し違いました」
私は振り返った。
白い窓。庭の木。戸口から手を振る子ども。
「でも、なくなっていませんでした」
夫が頷いた。
私たちは宿へ戻った。
母の家を見たあとでも、海はまだ見たかった。
この町で、明日も過ごしたかった。
夕食は、魚の煮込みだった。
私は夫を見た。
夫も私を見た。
魚の蒸し物のことを、同時に思い出したらしい。
「今夜は、好きかもしれない」
夫が言った。
私は一口食べた。
香草と、貝の出汁の味がした。
「好きです」
「私も」
私たちは笑った。
魚が悪かったのではない。
何が好きかを言わないまま、食べ続けていたことが寂しかったのだ。
食事を終え、部屋へ戻ってから、私は手紙を書いた。
ユディトへ。
海へ着いたこと。足を入れたら冷たかったこと。魚の煮込みが美味しかったこと。
木の匙を買ったこと。
夫が星を見て、嬉しそうだったこと。
最後の一文を書いてから、私は少し恥ずかしくなった。
けれど、消さなかった。
夫は窓のそばで、海を見ている。
私は手紙を畳み、彼の隣へ行った。
「何を書いた?」
「内緒です」
「そうか」
「あなたのことも、少し」
夫がこちらを向いた。
「馬の件ではないだろうな」
私は笑って首を振った。
彼の手を取った。
窓の外では、暗い海に灯りが揺れていた。
見たかったものへ着いた。
それでも物語が終わった気はしなかった。
私の隣に、もっと知りたい人がいた。




