第21話 次の予約
オーブを発つ朝、夫は宿の帳場で、秋の部屋について尋ねた。
「まだ、日を決められないのですが」
私が言うと、女将は帳面を閉じた。
「決まったら手紙をおくれ。今から金を置いていくことはないよ」
「必ず、また来ます」
「それは嬉しいね。でも、来られなくなったら、それも書けばいい」
私は少し黙った。
約束は、守れなければ終わりではない。
変わったと知らせることもできる。
王都から出てきたばかりの私なら、その簡単さを信じなかっただろう。
夫が礼を言った。
私は木の匙を鞄へしまい、鍵を返した。
部屋を空けたあと、窓から海を見ることはできなくなった。
でも、道へ出れば見えた。
最後にもう一度、浜の端まで歩いた。
波は昨日と違う形で崩れていた。
「行ってまいります」
私は小さく言った。
夫がこちらを見る。
「海へ?」
「はい」
彼は少し笑って、同じように海を見た。
「行ってくる」
私はその横顔を見て笑った。
二人で言うと、帰る場所が少し増えたような気がした。
帰りの馬車は、行きより静かだった。
疲れているのではない。
話していない時間にも、手が繋がっていた。
私は夫の肩へ頭を預け、窓の外を見た。
海が消える角を曲がったとき、胸が少し痛んだ。
夫の指が動いた。
握り直してくれた。
私は目を閉じた。
眠ってもよいと思った。
行き先を一人で見張り続けなくても、隣に同じ場所へ帰る人がいる。
目を覚ますと、塩田が見えた。
夫は本を読んでいた。
私の詩集だった。
「いかがですか」
「海の詩より、台所の詩がよかった」
「台所?」
私は頁を覗いた。
鍋の音と、帰ってきた家族の靴音を並べた短い詩だった。
私はそれを読んで、昨日の離れを思い出した。
「分かる気がします」
「ああ」
夫は本を閉じた。
私たちは少しずつ、同じ言葉で同じものを思い出せるようになっていた。
最初の宿には、王都から来た一行が泊まっていた。
立派な馬車が二台。紋章付きの荷箱。従者が慌ただしく行き来している。
私は入口で、少し足を止めた。
旅の途中で何度も聞いたことのある音だった。
命じる声。返事をする声。急ぐ靴音。
夫の手が、私の背へ軽く触れた。
私たちは中へ入った。
「マティアス!」
食堂から男が立ち上がった。
ルシアン・ドルネ伯爵の次男だった。夫の古い知り合いで、王都では何度か同席したことがある。
彼は夫の肩を叩き、私へ笑いかけた。
「ようやく捕まえたのか。大変だったな」
私は笑みを作りかけた。
いつもの癖だった。
気まずくしないために、先に笑う。
夫が口を開いた。
「私が、彼女についていった」
ルシアンは少し驚いた。
「ああ、そういう言い方にするのか」
「そういうことが起きた」
夫の声は静かだった。
食堂にいた二人がこちらを見た。
ルシアンは笑いを弱めた。
「いや、責めているわけじゃない。新婚だからな。少しは羽目を外しても」
「休暇だ」
夫が言った。
「妻も、前もって知らせている」
私は彼の隣へ立った。
「海を見てまいりました。とてもよい旅でした」
ルシアンは私を見た。
返事を選んでいる顔だった。
「それは、何よりです」
私は頷いた。
愛想笑いではなく、旅がよかったことへ笑った。
夫は宿の主人へ部屋を確かめた。
ルシアンが彼を呼び止める。
「夕食のあと、少し飲もう。話もある」
夫は私を見た。
その視線だけで、話してから決めるという約束を思い出した。
「夕食のあとなら、少し」
私が答えた。
夫が頷く。
「半刻ほどで」
ルシアンはまた少し驚いたが、分かったと答えた。
部屋へ入ってから、私は外套を脱いだ。
指先に力が入っていたことに気づいた。
夫が上着を椅子へ掛ける。
「嫌な言い方だった」
「はい」
私は頷いた。
「でも、あなたがすぐおっしゃってくれて、嬉しかったです」
「事実だからな」
「事実でも、笑って済ませる方はいます」
私自身も、そうしようとした。
夫は近づいて、私の肩へ手を置いた。
「私も、前なら流したかもしれない」
私は彼を見た。
「冗談だと思って」
「私も、笑ったと思います」
私たちは少し黙った。
誰も本気で言っていない、ということにして、本気で傷ついた人が笑っておく。
そうやって場を整えるのは、得意だった。
でも今日は、整えなくても終わった。
少し気まずくなっただけだ。
その少しを、私たちは引き受けられた。
夕食のあと、夫は約束どおり半刻だけ飲んだ。
私は部屋で本を読んでいた。
時刻を一度確かめた。
少し過ぎた。
もう一度確かめる前に、扉が叩かれた。
「お帰りなさい」
私が言うと、夫は笑った。
「ただいま」
その返事が、私の胸へ温かく落ちた。
「お話は?」
「王都で、皆が私を待っていると」
「お仕事ですね」
「半分は。あとは、私がいなくてカードの人数が足りないらしい」
私は笑った。
「それは重大です」
「そう言っておいた」
夫は椅子へ座った。
「ルシアンは、悪い男ではない」
「はい」
「ただ、妻へ予定を聞いてから返事をすることを、少し面白がっていた」
私は本を閉じた。
「恥ずかしかったですか」
「いや」
夫は私を見た。
「彼が驚くほど、私はこれまで自分の予定をあなたへ話していなかったのだと思った」
私はゆっくり頷いた。
旅先で変わったつもりでも、王都の知り合いに会うと、昔の形がよく見えた。
それをそのまま着直さなかったことが、今日は嬉しかった。
「これからも、半刻で戻れますか」
「毎回は、分からない」
「では、遅れるときは教えてください」
「そうする」
夫は私の手を取った。
今夜も、同じ部屋で眠る。
ルシアンに何を思われても、そのことは変わらなかった。
翌朝、出発前にルシアンが私へ声を掛けた。
「昨日は、失礼を」
彼は少し居心地が悪そうだった。
「事情を知らず、つい」
「ありがとうございます」
私は答えた。
許します、と大げさに言う必要はなかった。
言い直してもらえれば、それでよかった。
「海は、よいところでしたか」
「とても」
私は少し笑った。
「奥様と御一緒に、ぜひ」
彼は困ったように笑った。
「考えておきます」
私はそれ以上勧めなかった。
彼らの旅程は、彼らが決めればよい。
夫が馬車の扉を開けた。
私は手を取り、乗り込んだ。
王都へ近づいている。
少し怖かった。
でも、私たちはもう一度、同じ馬車を選んだ。




