第13話 あなたの行きたいところ
星見台へ向かう道には、羊がいた。
一頭ではなく、群れで。
狭い道を白い背中が埋め、馬車の前にも後ろにも続いている。御者は手綱を緩め、諦めたように帽子を直した。
「しばらく待ちますよ」
私は頷いた。
窓の外で、羊がこちらを見た。
私も見た。
向こうには、遅れているという自覚がなさそうだった。
「母なら、ここで昼寝をしたのでしょうね」
私が言うと、夫は笑った。
「賢明かもしれない」
「あなたは眠らないのですか」
「もったいない」
意外な返事だった。
彼は窓の向こうを見ている。白い羊の背中、その先の緩い坂、もっと上にある石造りの塔。
子どものころから見たかった場所へ行く人は、こんな顔をするのか。
私はその横顔を見ていた。
「何か?」
「いいえ。楽しそうだと思って」
夫は少し照れたように、窓から顔を戻した。
「すまない」
「何故、謝るのですか」
「寄り道を」
「私も行くと決めました」
夫は頷いた。
それでも、少しだけ姿勢を正した。
楽しんでいることを見つかってしまった、という顔に見えた。
宮廷では、彼が何かを楽しむ時間も、役に立つ時間として扱われていたのだろうか。
地図が好きなら地図を直す。
外国語が分かるなら使節を迎える。
星が好きなら暦の説明でも頼まれる。
私は彼の袖へ軽く触れた。
「今日は、何も教えなくても結構です」
「何を?」
「私に。お好きなものを、お好きに見てください」
夫がこちらを向いた。
「話したくなったら、話しても?」
「もちろん」
彼は笑った。
羊が道を空けた。
馬車がまた動き始める。
麓の宿へ荷物を預け、私たちは歩いて上がることになった。
星見台までの道は、思ったより急だった。
クロエ様の弁当を夫が持ち、私が水筒を持つ。昼間は暖かいが、風が吹くと外套の裾が大きく揺れた。
私たちはしばらく黙って歩いた。
夫は振り返る回数が多い。
「大丈夫です」
私が言うと、彼は前を向いた。
十歩くらいで、また振り返った。
「御心配でしたら、前ではなく隣へ」
「道が狭い」
「でしたら、声を掛けます。止まってほしいときは、止まってと」
夫は少し考えて頷いた。
「分かった」
そのあとも一度だけ振り返ったが、私が眉を上げると笑って前を向いた。
半分ほど上がったところで、本当に息が切れた。
「止まってください」
夫はすぐ止まった。
私は道端の石へ座り、水を飲んだ。
汗ばんだ額へ風が当たって気持ちがよい。
夫も隣へ腰を下ろした。
「足は?」
「靴は優秀です。私の脚が追いついていません」
「私も、それほど慣れていない」
「馬よりは、よろしいのでしょう」
夫は私を見た。
「あれは口外しない約束だ」
「ここには二人しかおりません」
彼は負けたように笑った。
私は水筒を渡した。
夫が受け取り、そのまま口をつけた。
同じ飲み口だと気づいたのは、彼が返してきたあとだった。
私は蓋を閉めるのに、少し時間がかかった。
夫は気づいたのか、気づいていないのか、塔のほうを見ている。
「あの窓の向きが、星を見るために決められている」
彼が言った。
「冬の明るい星が、ちょうど真ん中を通る。昔はその時刻で、町の鐘を合わせたそうだ」
「今も?」
「今は、町ごとに時計があるから」
「では、役目は終わったのですね」
夫は少し首を傾げた。
「時刻を決める役目は」
私は塔を見た。
古びているが、立っている。
役目が終わったあとも、人が見に来る。
夫が見たいと思って、ここまで来る。
「綺麗な場所ですね」
「ああ」
夫は嬉しそうだった。
私は水筒を鞄へしまった。
「参りましょう」
塔の下には、年配の番人がいた。
鐘を磨いているところだった。
「上がるなら、三階まで。四階の床は踏まないように」
夫が頷き、寄付箱へ硬貨を入れた。
私は窓のない一階を見回した。
壁に古い目盛りが刻まれている。石の階段が螺旋を描いて上へ続いていた。
「星を見に?」
番人が尋ねた。
「はい」
「夕方には雲が出るかもしれないよ」
夫の顔がわずかに曇った。
私は空を見た。
今は青い。
けれど、あの雨の日も朝は薄い雲だけだった。
「見えなければ、鐘を見ます」
私が言うと、番人が笑った。
「鐘なら逃げない」
この辺りの人は、動かないものが逃げないことをよく知っている。
私も少しずつ、覚え始めていた。
階段は狭く、途中で二人がすれ違えない。
夫が先に上がり、私はその背中を追った。
壁へ手をつくと、石が冷たい。
三階へ着くと、風が一気に吹き抜けた。
私は思わず夫の腕を掴んだ。
目の前に、白い平地が広がっていた。
塩田が小さな鏡のように光り、町の屋根が低く重なっている。遠くの丘は青く霞んでいた。
「海は、見えませんね」
私は言った。
「あの丘の向こうだ」
「こんなに高いのに」
「見えないものもある」
夫は窓の石枠へ手を置いた。
私はその手の隣へ、自分の手を置いた。
届かない海の代わりに、いくつもの町が見える。
母も、ここへ来ようとしたのだろうか。
途中で昼寝をして、やめたのだ。
私は笑った。
「何を?」
夫が尋ねた。
「母は、いい場所を逃しましたね」
「昼寝も、よかったのかもしれない」
「ええ。きっと」
夫が私を見て、微笑んだ。
私は母の選ばなかった景色を見ている。
でも、母の失敗を取り返しに来たのではない。
夫と一緒に、私の景色を見ていた。
弁当は塔の外で食べた。
風を避けられる石垣の陰に腰を下ろし、クロエ様の包みを開く。
卵を挟んだパンと、塩の菓子。小さな瓶には、酸っぱい果実の煮物が入っていた。
私は夫へ半分を渡した。
「お好きですか」
「食べてから答える」
夫が一口食べる。
頷く。
私も食べた。
よい旅の食事だった。
見事な皿も、給仕も、献立の名を読み上げる人もいない。
ただ、よく歩いたあとに美味しい。
夫は食べ終えてから、古い星図を開いた。
頁の端に、小さな字で書き込みがあった。
「あなたの字ですか」
「十三歳くらいの」
「今より丸いですね」
「そうかもしれない」
私は書き込みを読んだ。
北の窓から見える星。冬の朝に見つけた星。雲で見えなかった日。
何の役にも立たない、ただ見たことの記録だった。
それがとてもよかった。
「ここは?」
一つ、星の隣に小さな丸が付いていた。
「まだ見つけられていないものだ」
「今夜、見つかりますか」
「季節は合っている」
夫が空を見上げた。
薄い雲が、西から伸びてきていた。
「雲がなければ」
私は本を彼へ返した。
「では、待ちましょう」
「寒くなる」
「外套があります」
「下り道も暗い」
「番人さんに、灯りを借りましょう」
夫は私を見た。
「無理をしなくていい」
私は少し考えて、首を振った。
「少しは、するかもしれません」
夫の眉が寄った。
「でも、嫌な無理ではありません。あなたが見たいものを、私も見たいのです」
言い終えると、夫は黙った。
その目が、星図から私へ移ったまま戻らない。
私は急に照れて、包みを畳んだ。
「ずっと見ないでください」
「すまない」
「謝るほどでは」
夫は手を伸ばし、畳んでいた紙ごと私の指を軽く握った。
「ありがとう、イレーヌ」
風が石垣の向こうを通った。
私は指を動かし、彼の手を握り返した。
空に雲が増えても、まだ帰りたいとは思わなかった。




