第14話 海のない岬
夕暮れの星見台は、灰色の雲に包まれた。
昼間は遠くまで見えた町も、薄い膜の向こうへ隠れている。
番人は私たちへ、火を使う小部屋を貸してくれた。
「鐘を鳴らしたら、私は下りる。残るなら鍵は麓の宿へ」
夫が頷いた。
「ありがとうございます」
「三階までだよ」
「承知しています」
老人はその念押しに満足して、火鉢へ炭を足した。
私は手をかざした。
暖かい。
ここまで寒くなると思っていなかった。外套はあるが、座っていると足元から冷える。
夫が私の前へ膝をついた。
「戻ろうか」
「もう少し、待ちませんか」
「寒いだろう」
「はい」
大丈夫とは言わなかった。
寒いのは本当だ。
待ちたいのも本当だった。
夫は自分の外套を脱ぎかけた。
「あなたの分までいただきません」
「では、近くへ」
彼は隣へ座った。
肩が触れた。
腕も触れた。
私は少し迷ってから、もっと近づいた。
夫の身体の熱が、布越しに伝わってくる。
火鉢だけを頼るより、暖かかった。
「こういうことには、お詳しいのですね」
私が言うと、夫がこちらを見た。
「寒さをしのぐことか」
「ええ」
「あなたとするのは、初めてだ」
答えになっていない。
なのに、それ以上聞けなくなった。
私は火へ目を向けた。
炭の端が赤くなっていた。
鐘が鳴った。
近くで聞くと、身体の中まで震えるような音だった。
番人が扉から顔を出した。
「雲は、少し薄くなった。見えるかは分からないがね」
夫が立ち上がった。
その動きに、子どものような期待があった。
私は笑って、彼の手を取った。
三階までの階段を上がる。
夕闇の窓は、昼よりずっと小さく見えた。外の世界がなくなって、四角い空だけが残っている。
雲の切れ間に、一つ星が見えた。
「あれですか」
「いや。もう少し右」
夫は星図を広げた。
灯りを布で隠し、空を見やすくする。
私は彼の隣から覗いた。
一本の線で繋がれた三つの星に、灯守、と書いてある。
「真ん中が、薄いのですね」
「明るい二つに挟まれている。王都では、よく見えなかった」
私は空を見た。
どれが星で、どれが目の錯覚か分からない。
夫は根気よく、窓の角からの位置を教えてくれた。
説明が上手だった。
でも今日は、それを誰かの仕事のために使っていない。
私が一緒に見られるように、話している。
私は目を凝らした。
「あっ」
「見えた?」
「今、少し」
雲が流れた。
小さな光が、確かにあった。
夫は息を止めたように空を見ていた。
その横顔を見たくなったけれど、私は空を見続けた。
彼と同じものを見ている時間を、少しでも長く持ちたかった。
「あれだ」
夫が言った。
とても小さな声だった。
私は頷いた。
すぐに雲が来て、星は隠れた。
ほんの短い時間だった。
長い坂を上がり、寒い小部屋で待ったことに見合うかと聞かれたら、うまく計算できない。
ただ、夫の顔を見たら、来てよかったと思った。
彼は星図の丸印へ指を置いた。
「見つかった」
「はい」
「二人で」
私は笑った。
「私の目のほうが、先でした」
「そのとおりだ」
夫は本を閉じた。
もう一度見えるまで待つのかと思っていたら、私へ手を差し出した。
「下りよう。冷えた」
「よろしいのですか」
「今日は十分だ」
私は手を取った。
見たいものが見えた人は、自分で終わりを決められる。
そのことが、なんだか羨ましかった。
私も海を見たら、そう思えるのだろうか。
下り道では、夫が灯りを持った。
私はその腕に手を添えた。
光の輪の外は暗い。昼には気づかなかった草の音がする。遠くで鳥が一度鳴いた。
夫の歩幅は小さかった。
私に合わせているのだと分かる。
今日は、それを申し訳なく思わなかった。
「ここを、海のない岬と呼ぶそうです」
私はクロエ様に聞いた話を思い出した。
「昔は、海が近かったから?」
「それもあるでしょうけれど、上へ行けば海が見えると思って、皆が登るからだと」
夫が笑った。
「見えなかったな」
「ええ。でも星は見えました」
少し先で、道が広くなった。
低い石垣があり、その向こうに麓の宿の灯りが見える。
夫が足を止めた。
「イレーヌ」
「はい」
彼は灯りを石垣へ置いた。
私と向かい合う。
夜のせいか、いつもより近く感じた。
「来てくれて、嬉しかった」
「私も、楽しかったです」
「旅のことだけではない」
私は黙った。
夫の手が、私の指へ触れた。
「あなたが家を出たとき、何を怒っているのか、全部は分からなかった」
「今は?」
「全部は、まだ」
正直な返事だった。
私は少し笑った。
「私も、自分で分からないことがあります」
「それでも、一緒にいたい」
笑みが止まった。
夫は私の手を握ったまま続けた。
「あなたが楽しそうだと、私も楽しい。怒っていると、何をしたのか知りたくなる。黙っていると、何を考えているのか聞きたくなる」
私は彼を見上げた。
「忙しくなったら、忘れますか」
意地悪な問いだった。
でも、聞かなければいけなかった。
夫は少し顔を曇らせた。
「忘れないと言い切って、また同じことをしたくない」
「はい」
「だから、忘れたときに、あなたが諦める前に聞ける場所にいたい」
私は胸の奥が痛くなった。
完璧な言葉ではなかった。
永遠の愛を誓うような、美しい形でもない。
でも私たちが失っていたものを、彼も見ていると分かった。
同じ家にいて、顔を見ない。
同じ姓なのに、好みを知らない。
それをもう、当然にしたくない。
「私も、一緒にいたいです」
私は答えた。
夫の指が少し強くなった。
「マティアス」
「ああ」
「今は、仕事の話をしないでください」
彼が息を止めた。
それから、少しだけ笑った。
「しない」
夫の手が私の頬へ触れた。
私は目を閉じなかった。
近づいてくる顔を、最後まで見たかった。
唇が触れた。
思っていたより柔らかく、短かった。
夫が少し離れる。
私は彼の袖を掴んだまま、何も言えなかった。
「嫌だったか」
「いいえ」
すぐ答えた。
夫の顔が緩んだ。
それが悔しくて、私は少しだけ背伸びをした。
今度は私から触れた。
夫の腕が背中へ回った。
灯りの炎が風に揺れた。
私たちは一度、笑いながら離れた。
もう一度、近づいた。
宿の灯りはすぐ下にあるのに、そこまで下りるのにずいぶん時間がかかった。
宿の主人は鍵を受け取ると、星が見えたか尋ねた。
「はい」
私たちは同時に答えた。
主人は満足そうに頷いた。
「それはよかった。湯を部屋へ運んでおいたよ」
今夜の部屋は、一つだった。
小さな宿なので、一部屋しか借りられなかった。
私は階段の途中で、その事実を思い出した。
夫も同じことを考えたらしく、鍵を持つ手を見た。
顔を見合わせる。
どちらも、昨日までのようには話せなかった。
「寒かったですね」
私が言った。
「ああ」
「湯が、ありがたいですね」
「そうだな」
それから二人で笑った。
こんなにありふれた会話が、こんなに難しくなるなんて。
夫が扉を開けた。
私は中へ入った。
寝台の上には、枕が二つ並んでいた。
真ん中へ移すつもりは、今夜はなかった。




