第12話 母はここへ帰らなかった
手紙の中の母は、よく怒っていた。
父が外套を椅子へ掛けたまま忘れること。
新しく来た菓子職人が、果実を煮すぎること。
隣家の犬が、朝早く吠えること。
そして、よく笑っていた。
私が初めて舞踏の授業へ出て、先生より先に礼を終えたこと。父がそれを聞いて真似をしたこと。二人で笑ったら、私が真剣に怒ったこと。
私はそんな母を覚えている。
なのに、海へ帰れなかった母の姿を思い描くとき、そうした顔を脇へ置いていた。
寂しい顔だけを選び出していたのだ。
手紙を一枚めくった。
海が恋しくないわけではありません。
夏の夜、王都の石が熱を返すと、あの風が欲しくなります。
でも、戻ったら戻ったで、きっとこちらの市場を恋しがるのでしょうね。
私の欲張りは、年を取っても治りません。
私は、そこで読むのを止めた。
夫は窓際にいた。
灯りの下で、自分の飾り紐を結び直している。何度やっても左右が揃わないらしい。
私の視線に気づき、手を止めた。
「どうした」
「母は、王都も好きだったようです」
夫は頷いた。
「そうか」
「海へ帰れない、可哀想な人ではありませんでした」
「可哀想だと思っていたのか」
私は手紙を見た。
問い詰める声ではなかった。
だから答えられた。
「少し。私のせいで、帰れなかったのだと思っていました」
夫は椅子から立った。
私の前へ来て、寝台の端を示す。
私は頷いた。
彼が座った。
「母は、私を置いていけなかったのだと」
「手紙には?」
「私の発表会を、見たかったと」
言葉にすると、急に涙が出た。
置いていけなかった。
見たかった。
同じ場所にいた母なのに、その二つでは顔が違う。
私は手紙を濡らさないように、卓へ置いた。
夫が布を差し出した。
今度も、刺繍のある布だった。
「また、お借りします」
「返すのは、いつでもいい」
私は目元へ当てた。
泣くつもりで来たのではない。
母の代わりに海を見て、私はちゃんと自分で選べたのだと、誇らしく帰るつもりだった。
母も、自分で選んでいた。
すべて望みどおりではなくても、欲しいものを選び、選ばなかったものを時々恋しがっていた。
その中に、私がいた。
「私、母のことを、あまり知りませんでした」
夫はしばらく黙っていた。
「子どもから見えるところは、限られる」
「そうですね」
「私は父が、なぜ毎晩同じ椅子へ座るのか、分からなかった。あとから、窓の隙間風が来ない場所だと知った」
私は布の向こうで少し笑った。
「立派な理由ではなかったのですね」
「本人には大事な理由だった」
私は頷いた。
母にとっても、劇場の新しい歌や、私の発表会は大事だったのだろう。
海と比べて小さいものではなかった。
「では私は、何をしに海へ行くのでしょう」
口に出してから、答えを夫へ求めていると気づいた。
彼はすぐには答えなかった。
私の手の中の布を見て、それから私を見た。
「あなたは、海を見たいのか」
「見たいです」
「なら、行こう」
それだけだった。
母の分までという立派な理由がなくても、見たいと言えばよい。
私は泣きながら笑った。
「ずいぶん簡単に」
「難しくする理由が、今はない」
夫の手が、私の背へ触れた。
私は少し身を寄せた。
慰められるのは嫌ではなかった。
ただ、可哀想な人にされるのは嫌だった。
夫は私を、可哀想だとは言わなかった。
海へ行こうと言った。
もう一通だけ、私は手紙を読んだ。
封筒の端に、海の砂に似た色の染みがあった。
中の紙には、母が初めて王都の舞台を見た日のことが書かれていた。
舞台の上へ立ちたいと、少し思いました。
笑わないで。あなたが笑っている顔は、ここからでも見えます。
歌が上手いと言われて育ったけれど、王都の歌い手を聞いたら、私が大きな声を出していただけだと分かりました。
それでも、一度習ってみました。
私は顔を上げた。
「母は、歌を習っていたようです」
夫が静かに頷いた。
「御存じなかった?」
「はい。私には、礼儀のために習うものだと」
私は続きを読んだ。
三度目で、先生に叱られました。
声が悪いのではなく、聞く前に歌うのが悪いのだそうです。
腹が立ったので、帰ってから一人で歌いました。
あなたなら、それが悪いのよと言うのでしょうね。
私は笑った。
母は、叱られたくない人だった。
私もそうだ。
夫に正しいことを言われると恥ずかしい、とルーセで言った自分を思い出した。
母の手紙には、その先もあった。
舞台には立ちませんでした。
声だけのせいではありません。毎日同じ練習をするより、新しい歌を聞きに行くほうが楽しかったのです。
残念だけれど、私は観客のほうが向いていたのでしょう。
でも、たまに考えます。もし、あと一年だけ続けていたら、と。
考えるだけなら、誰にも叱られないでしょう。
私は紙を膝へ置いた。
母の人生には、海のほかにも戻らなかった道があった。
誰かに閉じられた道だけではない。
自分で離れて、それでもときどき振り返った道。
それを知ると、母が遠くなる気がした。
同時に、初めて同じ高さへ下りてきてくれたようにも感じた。
私のためにすべてを諦めた、立派で寂しい母ではない。
褒められたい。叱られたくない。綺麗な歌を聞きたい。
そう思って笑い、怒り、選んだ人。
「母も、途中でやめたことがあったのですね」
私は言った。
夫は頷いた。
「あなたは、ないのか」
「踊りの練習を、休みたかったことはあります。でも、休めませんでした」
「続けたことだけが、覚えていることになるとは限らない」
私は手紙を見た。
母は舞台へ立たなかった。
でも歌を忘れなかった。
娘へ聞かせた。
私は今も、その声を覚えている。
私は紙を箱へ戻す前に、歌の題名を手帳へ写した。
どこかで見つけたら、もう一度聞いてみたい。
母の叶わなかった望みを、私が叶えるためではない。
母が笑って歌ったものを、私も楽しみたいから。
夫が、書き写す私の手を見ていた。
「見つけたら、私にも」
「歌うのですか」
「聞くほうで」
私は笑った。
箱の中で眠っていた歌が、今度は私たちの旅へ入ってきた。
そのあと、手紙をしまう手は、さっきより少し軽くなった。
翌朝、クロエ様は何も尋ねなかった。
目が腫れているのを見たはずなのに、卵の焼き加減を聞いただけだった。
「少し柔らかいほうが」
「アデルもそうだった」
今度はその言葉を、素直に嬉しいと思えた。
母の何かを引き継ぐなら、苦しみでなく、卵の好みでもよい。
夫は固く焼いたものを頼んだ。
「同じものを食べなくてもよいのね」
クロエ様が言った。
「好みが違いますので」
私が答えると、夫が少し笑った。
魚の蒸し物の半年を、思い出したのだろう。
私は卓の下で、彼の靴を軽く踏んだ。
夫は黙って笑っていた。
食事のあと、私はクロエ様へ礼を言った。
「手紙を、少し写してもよろしいでしょうか」
「全部持っていっていいのよ」
「いいえ。こちらにあるものですから」
母は彼女へ書いた。
娘だからといって、全部自分のものにしたくなかった。
「では、好きなところを」
クロエ様は紙を出してくれた。
私は、発表会のことと、王都の夏のことを書き写した。
それからもう一つ、母がオーブの魚売りの言葉を真似して父を笑わせた話を。
クロエ様がそれを見て、笑った。
「そこを選ぶの」
「母の声を、思い出せましたので」
「そう」
彼女は私の髪へ手を置いた。
子どものころのように撫でられた。
「よく来たわね」
私は頷いた。
その言葉に、母の代わりではなく、私への歓迎があった。
出発の支度をするとき、夫の鞄から小さな冊子が落ちた。
私は拾った。
古い星図だった。
表紙の角が丸く擦れている。新しく旅のために買ったものではなさそうだ。
「こちらは」
夫が振り向いた。
「昔の本だ」
「星がお好きなのですか」
「子どものころは。今も、見るのは好きだ」
私は表紙を撫でた。
知らなかった。
夫の好きな菓子を知り、魚を知り、寝起きの顔を知った。そのたびに、まだ知らないことがこんなにあると驚く。
「昨日の星見台は、この本に?」
「同じ造りのものが載っている」
「行ってみたかったのですね」
「少し」
少し。
私は夫を見た。
彼は本を受け取ろうとして、手を止めた。
「予定を変えろと言っているのではない」
「存じています」
私は本を渡した。
夫は鞄へしまった。
私は自分の手帳を出した。
オーブへ向かう道。昼食の場所。宿へ到着する時刻。翌朝、海を見る時刻。
母のために作った予定表には、夫の見たい星見台が入っていない。
当然だった。
最初は一人旅だったのだから。
でも今は、二人で行くと言った。
言っただけで、私は彼の望みを一つも聞いていない。
魚を食べに行った日のことを思い出した。
あの日、夫が言わなければ、私は川の前で予定表を睨んだままだった。
私は手帳を閉じた。
「マティアス」
「ああ」
「今日は、どこへ行きたいですか」
夫がこちらを見た。
「オーブだろう」
「私の予定ではなく、あなたの希望を聞いています」
彼はすぐに答えなかった。
私は待った。
今度は、待つことが苦しくなかった。
答えを聞くために、待っている。
夫は鞄へ視線を落とし、もう一度私を見た。
「星見台へ、上がりたい」
私は頷いた。
「では、参りましょう」
「オーブへ着くのが遅くなる」
「明日の朝でも、海は見られます」
「一日、延びるかもしれない」
私は手帳の一頁を開いた。
帰着日の欄。
まだ最初の数字が残っている。
線を引いた。
「帰る日は、決め直します」
夫はその線を見ていた。
私には、川に止められたときより、ずっと大きな変更に思えた。
押し流されたのではない。
自分で、変えた。
クロエ様へ星見台のことを尋ねると、彼女は少し驚いてから、弁当を作ろうと言った。
「道は乾いているでしょうけれど、上は風が強いわよ」
「夕方までに戻れますか」
「早く下りれば。星を見るなら、麓の宿に泊まったほうがいいわ」
私は夫を見た。
彼は言葉を選んでいる顔だった。
「星も、御覧になりたいのですよね」
「……できれば」
「では、麓へ泊まります」
クロエ様が笑った。
「アデルは上へ行く途中で、昼寝をしてしまったのよ。星が出る前に帰ってきた」
私は笑った。
母が行ききれなかった道を、代わりに登る。
そう考えそうになったけれど、やめた。
今日は夫が見たいから行く。
私も、夫が星を見る顔を見たかった。
それでよい。
家を出るとき、クロエ様は私を抱きしめた。
「次は、手紙を」
「はい。海の話を書きます」
「海で何を食べたかもね」
ユディトと同じ注文だった。
私は笑って頷いた。
夫が馬車の扉を開けた。
行き先は、昨日までの予定表にはなかった。




