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政略結婚の旦那様、私の家出についてこないでください  作者: 星舟能空


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12/30

第12話 母はここへ帰らなかった

 手紙の中の母は、よく怒っていた。

 父が外套を椅子へ掛けたまま忘れること。

 新しく来た菓子職人が、果実を煮すぎること。

 隣家の犬が、朝早く吠えること。

 そして、よく笑っていた。

 私が初めて舞踏の授業へ出て、先生より先に礼を終えたこと。父がそれを聞いて真似をしたこと。二人で笑ったら、私が真剣に怒ったこと。

 私はそんな母を覚えている。

 なのに、海へ帰れなかった母の姿を思い描くとき、そうした顔を脇へ置いていた。

 寂しい顔だけを選び出していたのだ。

 手紙を一枚めくった。


 海が恋しくないわけではありません。

 夏の夜、王都の石が熱を返すと、あの風が欲しくなります。

 でも、戻ったら戻ったで、きっとこちらの市場を恋しがるのでしょうね。

 私の欲張りは、年を取っても治りません。


 私は、そこで読むのを止めた。

 夫は窓際にいた。

 灯りの下で、自分の飾り紐を結び直している。何度やっても左右が揃わないらしい。

 私の視線に気づき、手を止めた。

「どうした」

「母は、王都も好きだったようです」

 夫は頷いた。

「そうか」

「海へ帰れない、可哀想な人ではありませんでした」

「可哀想だと思っていたのか」

 私は手紙を見た。

 問い詰める声ではなかった。

 だから答えられた。

「少し。私のせいで、帰れなかったのだと思っていました」

 夫は椅子から立った。

 私の前へ来て、寝台の端を示す。

 私は頷いた。

 彼が座った。

「母は、私を置いていけなかったのだと」

「手紙には?」

「私の発表会を、見たかったと」

 言葉にすると、急に涙が出た。

 置いていけなかった。

 見たかった。

 同じ場所にいた母なのに、その二つでは顔が違う。

 私は手紙を濡らさないように、卓へ置いた。

 夫が布を差し出した。

 今度も、刺繍のある布だった。

「また、お借りします」

「返すのは、いつでもいい」

 私は目元へ当てた。

 泣くつもりで来たのではない。

 母の代わりに海を見て、私はちゃんと自分で選べたのだと、誇らしく帰るつもりだった。

 母も、自分で選んでいた。

 すべて望みどおりではなくても、欲しいものを選び、選ばなかったものを時々恋しがっていた。

 その中に、私がいた。

「私、母のことを、あまり知りませんでした」

 夫はしばらく黙っていた。

「子どもから見えるところは、限られる」

「そうですね」

「私は父が、なぜ毎晩同じ椅子へ座るのか、分からなかった。あとから、窓の隙間風が来ない場所だと知った」

 私は布の向こうで少し笑った。

「立派な理由ではなかったのですね」

「本人には大事な理由だった」

 私は頷いた。

 母にとっても、劇場の新しい歌や、私の発表会は大事だったのだろう。

 海と比べて小さいものではなかった。

「では私は、何をしに海へ行くのでしょう」

 口に出してから、答えを夫へ求めていると気づいた。

 彼はすぐには答えなかった。

 私の手の中の布を見て、それから私を見た。

「あなたは、海を見たいのか」

「見たいです」

「なら、行こう」

 それだけだった。

 母の分までという立派な理由がなくても、見たいと言えばよい。

 私は泣きながら笑った。

「ずいぶん簡単に」

「難しくする理由が、今はない」

 夫の手が、私の背へ触れた。

 私は少し身を寄せた。

 慰められるのは嫌ではなかった。

 ただ、可哀想な人にされるのは嫌だった。

 夫は私を、可哀想だとは言わなかった。

 海へ行こうと言った。


 もう一通だけ、私は手紙を読んだ。

 封筒の端に、海の砂に似た色の染みがあった。

 中の紙には、母が初めて王都の舞台を見た日のことが書かれていた。


 舞台の上へ立ちたいと、少し思いました。

 笑わないで。あなたが笑っている顔は、ここからでも見えます。

 歌が上手いと言われて育ったけれど、王都の歌い手を聞いたら、私が大きな声を出していただけだと分かりました。

 それでも、一度習ってみました。


 私は顔を上げた。

「母は、歌を習っていたようです」

 夫が静かに頷いた。

「御存じなかった?」

「はい。私には、礼儀のために習うものだと」

 私は続きを読んだ。


 三度目で、先生に叱られました。

 声が悪いのではなく、聞く前に歌うのが悪いのだそうです。

 腹が立ったので、帰ってから一人で歌いました。

 あなたなら、それが悪いのよと言うのでしょうね。


 私は笑った。

 母は、叱られたくない人だった。

 私もそうだ。

 夫に正しいことを言われると恥ずかしい、とルーセで言った自分を思い出した。

 母の手紙には、その先もあった。


 舞台には立ちませんでした。

 声だけのせいではありません。毎日同じ練習をするより、新しい歌を聞きに行くほうが楽しかったのです。

 残念だけれど、私は観客のほうが向いていたのでしょう。

 でも、たまに考えます。もし、あと一年だけ続けていたら、と。

 考えるだけなら、誰にも叱られないでしょう。


 私は紙を膝へ置いた。

 母の人生には、海のほかにも戻らなかった道があった。

 誰かに閉じられた道だけではない。

 自分で離れて、それでもときどき振り返った道。

 それを知ると、母が遠くなる気がした。

 同時に、初めて同じ高さへ下りてきてくれたようにも感じた。

 私のためにすべてを諦めた、立派で寂しい母ではない。

 褒められたい。叱られたくない。綺麗な歌を聞きたい。

 そう思って笑い、怒り、選んだ人。

「母も、途中でやめたことがあったのですね」

 私は言った。

 夫は頷いた。

「あなたは、ないのか」

「踊りの練習を、休みたかったことはあります。でも、休めませんでした」

「続けたことだけが、覚えていることになるとは限らない」

 私は手紙を見た。

 母は舞台へ立たなかった。

 でも歌を忘れなかった。

 娘へ聞かせた。

 私は今も、その声を覚えている。

 私は紙を箱へ戻す前に、歌の題名を手帳へ写した。

 どこかで見つけたら、もう一度聞いてみたい。

 母の叶わなかった望みを、私が叶えるためではない。

 母が笑って歌ったものを、私も楽しみたいから。

 夫が、書き写す私の手を見ていた。

「見つけたら、私にも」

「歌うのですか」

「聞くほうで」

 私は笑った。

 箱の中で眠っていた歌が、今度は私たちの旅へ入ってきた。

 そのあと、手紙をしまう手は、さっきより少し軽くなった。


 翌朝、クロエ様は何も尋ねなかった。

 目が腫れているのを見たはずなのに、卵の焼き加減を聞いただけだった。

「少し柔らかいほうが」

「アデルもそうだった」

 今度はその言葉を、素直に嬉しいと思えた。

 母の何かを引き継ぐなら、苦しみでなく、卵の好みでもよい。

 夫は固く焼いたものを頼んだ。

「同じものを食べなくてもよいのね」

 クロエ様が言った。

「好みが違いますので」

 私が答えると、夫が少し笑った。

 魚の蒸し物の半年を、思い出したのだろう。

 私は卓の下で、彼の靴を軽く踏んだ。

 夫は黙って笑っていた。

 食事のあと、私はクロエ様へ礼を言った。

「手紙を、少し写してもよろしいでしょうか」

「全部持っていっていいのよ」

「いいえ。こちらにあるものですから」

 母は彼女へ書いた。

 娘だからといって、全部自分のものにしたくなかった。

「では、好きなところを」

 クロエ様は紙を出してくれた。

 私は、発表会のことと、王都の夏のことを書き写した。

 それからもう一つ、母がオーブの魚売りの言葉を真似して父を笑わせた話を。

 クロエ様がそれを見て、笑った。

「そこを選ぶの」

「母の声を、思い出せましたので」

「そう」

 彼女は私の髪へ手を置いた。

 子どものころのように撫でられた。

「よく来たわね」

 私は頷いた。

 その言葉に、母の代わりではなく、私への歓迎があった。


 出発の支度をするとき、夫の鞄から小さな冊子が落ちた。

 私は拾った。

 古い星図だった。

 表紙の角が丸く擦れている。新しく旅のために買ったものではなさそうだ。

「こちらは」

 夫が振り向いた。

「昔の本だ」

「星がお好きなのですか」

「子どものころは。今も、見るのは好きだ」

 私は表紙を撫でた。

 知らなかった。

 夫の好きな菓子を知り、魚を知り、寝起きの顔を知った。そのたびに、まだ知らないことがこんなにあると驚く。

「昨日の星見台は、この本に?」

「同じ造りのものが載っている」

「行ってみたかったのですね」

「少し」

 少し。

 私は夫を見た。

 彼は本を受け取ろうとして、手を止めた。

「予定を変えろと言っているのではない」

「存じています」

 私は本を渡した。

 夫は鞄へしまった。

 私は自分の手帳を出した。

 オーブへ向かう道。昼食の場所。宿へ到着する時刻。翌朝、海を見る時刻。

 母のために作った予定表には、夫の見たい星見台が入っていない。

 当然だった。

 最初は一人旅だったのだから。

 でも今は、二人で行くと言った。

 言っただけで、私は彼の望みを一つも聞いていない。

 魚を食べに行った日のことを思い出した。

 あの日、夫が言わなければ、私は川の前で予定表を睨んだままだった。

 私は手帳を閉じた。

「マティアス」

「ああ」

「今日は、どこへ行きたいですか」

 夫がこちらを見た。

「オーブだろう」

「私の予定ではなく、あなたの希望を聞いています」

 彼はすぐに答えなかった。

 私は待った。

 今度は、待つことが苦しくなかった。

 答えを聞くために、待っている。

 夫は鞄へ視線を落とし、もう一度私を見た。

「星見台へ、上がりたい」

 私は頷いた。

「では、参りましょう」

「オーブへ着くのが遅くなる」

「明日の朝でも、海は見られます」

「一日、延びるかもしれない」

 私は手帳の一頁を開いた。

 帰着日の欄。

 まだ最初の数字が残っている。

 線を引いた。

「帰る日は、決め直します」

 夫はその線を見ていた。

 私には、川に止められたときより、ずっと大きな変更に思えた。

 押し流されたのではない。

 自分で、変えた。


 クロエ様へ星見台のことを尋ねると、彼女は少し驚いてから、弁当を作ろうと言った。

「道は乾いているでしょうけれど、上は風が強いわよ」

「夕方までに戻れますか」

「早く下りれば。星を見るなら、麓の宿に泊まったほうがいいわ」

 私は夫を見た。

 彼は言葉を選んでいる顔だった。

「星も、御覧になりたいのですよね」

「……できれば」

「では、麓へ泊まります」

 クロエ様が笑った。

「アデルは上へ行く途中で、昼寝をしてしまったのよ。星が出る前に帰ってきた」

 私は笑った。

 母が行ききれなかった道を、代わりに登る。

 そう考えそうになったけれど、やめた。

 今日は夫が見たいから行く。

 私も、夫が星を見る顔を見たかった。

 それでよい。

 家を出るとき、クロエ様は私を抱きしめた。

「次は、手紙を」

「はい。海の話を書きます」

「海で何を食べたかもね」

 ユディトと同じ注文だった。

 私は笑って頷いた。

 夫が馬車の扉を開けた。

 行き先は、昨日までの予定表にはなかった。


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