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政略結婚の旦那様、私の家出についてこないでください  作者: 星舟能空


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第11話 塩の道を歩く

 クロエ様は、母に似ていなかった。

 私の記憶の中では、二人はよく似た声で笑っていた。けれど門を開けて出てきた人は、日に焼けた頬と太い眉を持ち、両手を腰へ当てて私を見た。

「まあ。アデルの顎だわ」

 最初に言われたのは、顎だった。

 美しい目でも、優しい笑顔でもない。

 私は思わず自分の顎へ触れた。

 クロエ様が笑った。

「気に入らないと、少し上がるのよ。今みたいに」

「気に入らないわけでは」

「ええ、ええ。アデルもそう言った」

 彼女は私の両肩を掴み、左右の頬へ口づけた。

 潮の匂いではなく、粉と石鹸の匂いがした。

 家の中で何か焼いていたのかもしれない。

「こちらは?」

「夫のマティアスです。一緒に来てくれました」

 私は予定していたとおりに言った。

 夫が頭を下げる。

「急に人数が増え、申し訳ありません」

「食べる口なら増やせるわ。寝るところは狭いけれど」

 クロエ様はそう言って、私たちを中へ入れた。

 家は白い壁で、窓枠が緑だった。

 玄関には長靴が二足と、乾いた草を入れた籠。壁へ掛かった帽子の縁には、色褪せた花飾りが付いている。

 母の故郷に近い家。

 私は何か懐かしいものを感じるつもりでいた。

 実際には、すべて初めて見るものだった。

 それが少し意外だった。


 居間には、大きな机があった。

 机の上で、焼きたての薄い菓子が冷まされている。

「塩の菓子よ。甘いのは後味だけ」

 クロエ様が一枚ずつ渡してくれた。

 私は齧った。

 薄い層が崩れて、バターの匂いが広がる。

 美味しかった。

「母も、これを?」

「よく食べたわね。焼く前の生地まで盗んだ」

「母が?」

「食い意地は張っていたわ」

 私は菓子を見た。

 母はいつも、綺麗に小さく食べていた。膝に布を置き、口元を汚さず、私が急いで飲み込むと、ゆっくりと注意した。

 その母が、生地を盗んだ。

「王都では、なさらなかったの?」

「見たことはありません」

「そう。上手になったのね」

「何がです?」

「隠すのが」

 夫が静かに笑った。

 私は彼を見た。

「何か?」

「卵の件を、少し」

「その話は、よろしいのです」

 クロエ様が興味を示したので、結局、夫の卵を食べて家を出た話をすることになった。

 彼女は驚かなかった。

 むしろ、菓子の皿を私のほうへ押した。

「食べてから出るのは大事よ。お腹が空くと、戻りたくなるもの」

 この家では、家出が珍しい出来事ではないらしい。

 私は少し気が楽になった。


 荷物を置いてから、三人で町を歩いた。

 ラヴェルは塩田の町だった。

 道の両側に低い石垣が続き、その向こうで水面が光っている。白い塩の山へ布が掛けられ、荷車がゆっくり運ばれていた。

「海ではないのに、こんなに塩が」

 私が言うと、クロエ様が地面を指した。

「昔の海が残した水を、井戸から上げるの。雨が多いと仕事にならなくてね」

「昨日の雨も」

「そう。だから今日は皆、忙しい」

 忙しい町を、私たちは休みながら歩いている。

 それを悪いとは思いたくなかった。

 クロエ様は知り合いへ声を掛け、私をアデルの娘だと紹介した。

 何人かは母を覚えていた。

「あの歌の上手い」

「いつも靴を脱いでいた子だね」

「王都へ行くとき、馬車の窓から手を振っていたよ」

 その一つ一つが、私の知らない母だった。

 私は話を聞くたび、頭の中の母へ新しい服を着せるような気持ちになった。

 歌う母。

 裸足の母。

 王都へ行く馬車で笑う母。

 最後の姿は、うまく重ならなかった。

 母は海を恋しがっていたはずなのに。

 王都へ行くときは、悲しかったのではないのか。

 私は尋ねなかった。

 まだ、聞く勇気がなかった。


 塩田の端に、小さな坂があった。

 坂の上には古い見張り台が立っている。

 夫が足を止めた。

 ほんの一瞬だった。

 クロエ様が彼の視線に気づいた。

「星見台? 今は鐘が一つあるだけよ」

「まだ上がれるのですか」

「途中までは。上の道は、少し遠回りになるけれど」

 私は手帳を思い浮かべた。

 今日は到着と、クロエ様への挨拶。

 明日の午前にはオーブへ向かう。

 すでに三日近く遅れている。

「行ってみたいのですか」

 私は夫へ聞いた。

「昔、図で見たことがある」

「地図のお仕事で?」

「いや。子どものころに」

 夫は見張り台から目を戻した。

「今日はいい」

 その言葉を、私は軽く受け取った。

 今日はいい。

 なら、行かなくてよい。

 自分がずっと言ってきた言葉なのに、その背後へ何が隠れているか、相手のものになると分からなくなる。

 私たちは坂を通り過ぎた。


 夕食には、塩豚と豆の煮込みが出た。

 クロエ様の夫は五年前に亡くなっていて、今は近くに住む息子夫婦がよく顔を出すのだという。

 今夜は私たちだけだった。

 私は、また母の話を聞いた。

「母は、帰りたがっていたのでしょうか」

 とうとう尋ねた。

 クロエ様は匙を止めた。

「何処へ?」

「オーブです。海のそばへ」

「帰りたいとは言っていたわ」

 胸の奥が、少し強く鳴った。

 やはり。

 母は帰りたかったのだ。

「でも、帰って来られなかったのですね」

 クロエ様は、私を見た。

 ゆっくり匙を置いた。

「来なかったのよ」

 言葉の違いが、私には分からなかった。

「同じでは?」

「同じ時もある。でも、あの子の場合は、いつも同じではなかったわ」

 夫が静かに水差しを持ち、私の杯へ水を注いだ。

 私はそれを見なかった。

「父が、許さなかったのでは」

「お父様のせいにしていいのは、本人がそう言った時だけよ」

 クロエ様の声は厳しくなかった。

 だからこそ、私は顔が熱くなった。

「母は、王都で忙しくしていました」

「ええ。知っている」

「私の世話も」

「知っているわ」

「でしたら」

 その先へ、言葉が出なかった。

 母が帰れなかったのなら、私が代わりに海を見に行くことに意味がある。

 母が我慢したのなら、私が我慢をやめることに、母の分の正しさがある。

 でも、母が自分で帰らなかったのなら。

 私は何をしに来たのだろう。

 クロエ様は立ち上がった。

「手紙があるわ」

 私は彼女を見た。

「アデルが書いたもの。あなたが来たら渡そうと思っていたの」

「私へ?」

「私へよ。あなたに読ませてよいか、本人には聞けないけれど」

 彼女は棚の上から、小さな箱を取った。

 古いリボンで結ばれている。

「私の知らないあの子を、あなたが知っているでしょう。あなたの知らないあの子も、少しここにいる」

 箱が卓へ置かれた。

 私はすぐには手を伸ばせなかった。

 夫が、私の横で待っていた。

 読むべきだとも、明日でよいとも言わなかった。

 私は水を一口飲んだ。

 冷たかった。

 それから箱を、自分のほうへ引き寄せた。


 客間へ戻ってから、私はリボンをほどいた。

 夫は、窓際の椅子へ座った。

 今夜の寝台は二つで、その間に小さな卓がある。

 私は卓へ箱を置き、いちばん上の手紙を開いた。

 母の字だった。

 丸みのある、少し急いだ字。

 私の誕生日に付けてくれた短いカードと、同じ癖があった。

 それだけで目が熱くなった。


 クロエ。

 今年も夏には行けそうにありません。

 イレーヌのせいだとは言わないでね。あの子はよい子で、私がいなくても平気な顔をするでしょう。

 私のほうが、初めての発表会を見逃したくないのです。


 私は手紙を持つ指へ力を入れた。

 覚えている。

 七歳の発表会。

 最後の一節で指が止まり、私は前を見た。母が笑って頷いていた。それで続きを弾いた。

 母は海を諦めて、そこへ座っていたのか。

 私は続きを読んだ。


 それに、秋には新しい劇場が開きます。

 あなたはまた私を都会かぶれと笑うでしょうが、笑って結構。

 海はあなたが見張っていて。私はこっちの新しい歌を覚えておきます。


 母は、海だけを思って生きていたのではなかった。

 その当たり前のことが、手紙の薄い紙を通して、ゆっくり胸へ入ってきた。


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