第10話 帰る人の荷物
翌朝、夫の鞄は開いたままだった。
私は戸口からそれを見た。
畳んだシャツが二枚。包んだ軟膏。ほどけた飾り紐。私の青い靴。
地図の説明は、机の上で三枚にまとまっていた。
「おはようございます」
私が言うと、夫は顔を上げた。
「おはよう」
「眠れましたか」
「少し」
私も、少しだけ眠った。
昨夜は別々の部屋へ戻ってから、何度も目を覚ました。帰らないでと言った自分の声を思い出して、恥ずかしくなり、それでも言ってよかったと思い直した。
返事はまだ聞いていない。
夫は鞄から青い靴を出した。
私は息を止めた。
「底に泥がついていた。落としておいた」
「……ありがとうございます」
夫は靴をもう一度包み、自分の鞄へ戻した。
返されなかった。
そのことだけで、少し肩が緩んだ。
「帰らない」
夫が言った。
私は顔を上げた。
「この説明を送る。図を描いた工房にも、直接確かめてもらう。私でなければできない部分ではない」
「番号は?」
「分からないものは書かなかった。港の名前と、沿岸の順番で探せる」
「先方が困られることは」
「あるかもしれない」
夫はそこで言葉を切った。
簡単に大丈夫とは言わなかった。
「あれば、私が説明を渡し忘れたと言う。あなたのせいにはしない」
私は一歩、部屋へ入った。
「あなたが全部、悪いことにする必要もありません」
「忘れたのは私だ」
「任せきりにした方もいらっしゃいます」
「それも伝える」
夫は紙を封筒へ入れた。
そこには、穏やかな諦めがあった。
旅を諦めたのではない。
どこにいても何一つ不都合を起こさない人間でいることを、諦めたのだと思った。
「私は、留守にする」
夫はそう言った。
私は頷いた。
たったそれだけの言葉を言うために、私たちは王都から何日も離れてきた。
「では、一緒に海へ」
「ああ。一緒に」
私は笑った。
夫も笑った。
抱きつきたい、と思った。
思った自分に驚いて、足が止まった。
夫は鞄の留め具を閉じようとしている。
今なら、何もしないまま終われる。
そう考えた瞬間、私はまた、何もしないまま終わることばかり上手になろうとしていると気づいた。
「マティアス」
彼がこちらを向いた。
私は近づいて、彼の腕へ触れた。
その先を、うまく決められなかった。
夫が動かなかったので、ますます困った。
「嬉しいです」
それだけは言えた。
夫の手が、私の肩へ触れた。
次に背中へ。
軽く引き寄せられた。
私は彼の胸元へ額を寄せた。
昨日、冷たい雨の匂いがした場所は、今は乾いた布と石鹸の匂いがした。
「私も」
夫が言った。
短い抱擁だった。
それでも離れたあと、私の身体は、何か一つ新しいことを覚えていた。
使いの手配は、宿の主人に頼んだ。
この辺りから王都へ戻る商用便があり、速い馬で封書を運ぶこともできるという。
夫は代金を払い、宛先を確かめた。
私は横で見ていた。
封筒の中には、昨夜二人で作った説明と、夫の手紙が入っている。
私の返書も一緒に運んでもらう。
送り出してしまうと、妙にあっけなかった。
「もう、追いかけませんね」
私は馬が見えなくなった道へ向かって言った。
「その手紙は、追いかけない」
夫が答えた。
「私も」
私たちは馬車へ戻った。
御者は馬の口元を確かめながら、今日はよい道だと言った。
ラヴェルまでは丘が続くが、午後には塩田の白い地面が見えるらしい。
「海も見えますか」
私が尋ねると、御者は首を振った。
「まだ先ですよ。塩の匂いだけ先に来る」
それでもよかった。
私は胸元の貝殻へ触れた。
夫がそれを見た。
「それは、お母上の?」
「はい。御覧になりますか」
紐を首から外し、彼の掌へ載せた。
小さな貝殻が、大きな手の中でいっそう小さく見えた。
「綺麗だ」
「昔は、もっと光っていた気がします」
「今も光る」
夫は向きを変えた。
窓からの光が、内側で薄紅色になった。
私は彼の手へ自分の指を添え、母がしてくれたように貝を傾けた。
「こうすると、虹が」
「ああ」
私たちは同じものを見た。
母の思い出へ誰かを入れるのは、少し怖かった。
でも、夫は勝手に意味を決めなかった。
綺麗だと言って、返してくれた。
それが嬉しかった。
昼、道端の小さな礼拝所で休憩した。
宿から包んでもらったパンと、固いチーズを食べる。
礼拝所の庭には井戸があり、御者が馬へ水を飲ませていた。
私たちは低い石垣へ並んで座った。
夫がパンを半分に割る。
今度は、どちらがどれだけ食べるかで困らなかった。
「昨夜、私の手伝いは役に立ちましたか」
私は尋ねた。
夫はすぐ頷いた。
「とても」
「それならよかったです」
「ただ、あなたにまで仕事をさせた」
私は彼を見た。
夫は少し気まずそうだった。
「あなたを休ませるつもりで、ついてきたのに」
「そうなのですか」
「少しは」
「全部ではなく?」
夫が黙った。
私は待った。
何かを聞いたあと、答えを急いで埋めずに待つことも、旅で覚え始めたことの一つだった。
「私も、休みたかった」
夫が言った。
「あなたが先に出たから、自分も出られるのだと気づいた」
「便乗ですね」
「そうだ」
私は笑った。
夫が、私の救済のためだけに旅へ来たのではない。
そのことに、がっかりしなかった。
むしろ、自分ばかりが助けられる側ではないと分かって、嬉しくなった。
「昨夜の仕事は、私がしたくてしました」
「ありがとう」
「夕食までと申し上げたのも、本気です。もし続きを頼まれたら、断るつもりでした」
「覚えておく」
「次があるようなお返事ですね」
「あるかもしれない。あなたにも、私に頼むことが」
私はチーズを齧った。
固かった。
夫がナイフを差し出す。
私は受け取った。
「では今、こちらを」
「それは喜んで」
夫はチーズを薄く切ってくれた。
私は一枚を彼のパンへ載せた。
便利だから何でも任せるのと、助けてほしいことを頼むのと、その間にはきっと違いがある。
まだ上手く説明できない。
ただ、今はお互いに、食べる時間があった。
午後、馬車の窓から地面の色が変わるのが見えた。
草地の間に白い筋が走り、浅い池がいくつも並ぶ。風車の羽根が、ゆっくり回っていた。
空が広い。
王都では建物に切り取られていた空が、ここでは地平線まで続いている。
「塩田ですね」
私は身を乗り出した。
「ああ」
夫も窓へ近づく。
私の髪が、風で彼の頬へ触れた。
「失礼しました」
「構わない」
夫は髪を掴まず、そっと肩の後ろへ払った。
指が耳の近くを通った。
私は前を向いたまま、少し息を止めた。
まだ海は見えない。
でも匂いが違う気がした。
泥でも石畳でも、馬の汗でもない。
どこか乾いて、どこか遠い匂い。
母が知っていた空気なのだと思った。
「ラヴェルでは、どなたを訪ねる?」
夫が聞いた。
「母の従姉の、クロエ様です。小さい頃、一度だけお会いしました」
「知らせてあるのか」
「ええ。日付は、ずれてしまいましたけれど」
今度は、宿が閉まっているようなことにはならないはずだ。
私は鞄の中の封書を確かめた。
クロエ様からの返事。
ぜひいらっしゃい。アデルの娘なら、顔を見れば分かります。
そう書いてあった。
私は母に似ているのだろうか。
父は、似ていると言ったことがない。叔父は、母より役に立つと言った。
その言葉を思い出すと、今でも胸の奥に小さな棘が残る。
「緊張するか」
夫が尋ねた。
「少し」
「私のことは、何と紹介する?」
「夫です」
「家出についてきた」
「そこまで最初に申し上げる必要はありません」
夫が笑った。
私は窓の外へ向けていた身体を戻し、隣の彼を見た。
「でも、一緒に来てくれたと申します」
夫の笑みが、少し変わった。
「それなら、聞きたい」
私は頷いた。
南門で交わした約束は、まだ覚えている。
一人で戻るときは、一人で。
でも彼は今日、戻らなかった。
自分の意思で。
私も今日、同行を許すだけの人ではなくなった。
一緒に来てほしいと、頼んだ。
馬車は白い塩田の間を進んだ。
地図の上では同じ南行きでも、昨日までとは違う道を走っている気がした。




