第九章 対峙
インターホンが鳴ったのは、十一月十三日の、夜の九時過ぎだった。
その時間に人が来ることはない。宅配便でもない。私はゲラを置いて、玄関に行った。
ドアスコープを覗いた。
佐野倫子が立っていた。
*
私は、たぶん十秒くらい、そのまま覗いていた。
彼女は動かなかった。うつむいてもいないし、こちらを睨んでもいない。まっすぐドアを見ている。手ぶらだった。上着も着ていない。部屋着のままだ。
外廊下は寒いはずだった。十一月の夜だ。
私は鍵を開けた。
*
「こんばんは」
私が言うと、彼女は少しだけうなずいた。
近くで見ると、彼女は思ったより背が低かった。私と同じくらいか、少し低い。踊り場ですれ違ったときは、もっと大きい人だと思っていた。
「夜分にすみません」
声は落ち着いていた。
落ち着いている、というのは、感情がないという意味ではない。抑えている人の落ち着き方だった。手を体の前で組んでいて、指が白くなっていた。
「四〇四の、佐野といいます」
「はい。坂上です」
「知っています」
*
「先週、区の人が来ました」
彼女はそう言った。
「二回目です」
私は黙っていた。
黙っていれば、人は続きを話す。管理人室で覚えたことだ。相手の言葉を止めない。
「一回目は、十月でした。今度は、聞かれることが具体的でした」
「具体的」
「腕のあざのことを聞かれました。三つある、と言われました。肘の内側の、点のことも」
*
私は、そこで気づいた。
気づいて、体温が下がるのがわかった。
風除室で、あの子と二人でいたのは、私だけだ。
あざが三つあると知っているのは、私だけだ。肘の内側の点を数えたのは、私だけだ。
誰かが、それを児童相談所に伝えた。伝えられるのは、私しかいない。
「あれを見たのは」と倫子は言った。「あなただけです」
*
電話をかけたとき、職員の人は言っていた。
その方しか知り得ないような内容である場合は、保護者の方が、誰から出た話かを推測されることはあります。
私は、その言葉を聞いた。聞いて、自分には関係ないと判断した。私が話したのは明け方の泣き声と腕のあざだ、あの棟の人なら誰でも知っている、と。
誰でも知っていることではなかった。
私は、私しか知らないことを、数字まで正確に話していた。校正の仕事で身についた習慣だ。曖昧に書くな。数を書け。位置を書け。
その習慣が、私を指していた。
*
「やめてください」
彼女はそう言った。
声を荒らげなかった。ドアを叩きもしなかった。ただ、言った。
「お願いします。やめてください」
「あの」と私は言った。
用意していた言葉があった。この二か月、頭のなかで何度も並べ替えてきた言葉だ。いつか彼女と話すことになると思っていた。そのときに何を言うか、私は決めていた。
「私は、責めているんじゃないんです」
*
それが、最初の一文だった。
私は自分でも、いい出だしだと思っていた。責めていない。攻撃ではない。心配しているだけだ。
「毎朝、聞こえるんです。壁が薄いので。あの子の声が。それで、心配で」
「毎朝ではありません」
「え」
「毎朝ではありません」と彼女はもう一度言った。「週に三日か、四日です」
私は言葉に詰まった。
彼女は、正確だった。私より正確だった。
「……そうですね。すみません」
「あの子は」
*
彼女は、そこで一度、息を吸った。
「あの子は、病気なんです」
*
その一文を、私は聞いた。
聞いて、何が起きたか。
私の頭のなかで、いくつかのことが同時に起きた。
ひとつめ。私は、その言葉を予想していた。予想していたというより、身構えていた。ああいう場合、親は必ずそう言う。転んだ。ぶつけた。病気だ。掲示板にもそう書いてあった。あざが複数って時点でもうアウト、と。
ふたつめ。私は、少しだけ、ほっとした。彼女がそう言ってくれたことに。想定内だったことに。想定内なら、私は動揺しなくていい。
みっつめ。私は、次の質問を、もう用意していた。
「何の病気ですか」
*
彼女は、答えなかった。
外廊下の蛍光灯が、彼女の顔の左半分を白く照らしていた。目の下のくまが、影になっていた。
「……それは」
「はい」
「それは、言えません」
*
言えません。
私はその四文字を、口の中で繰り返した。
「言えない、というのは」
「言えないんです」
「病気なら、病院に行っているんですよね」
「行っています」
「なら、その病院の名前だけでも」
「言えません」
「どうしてですか」
彼女は答えなかった。
答えないまま、私を見ていた。
その目には、いま思うと、いくつものものが入っていた。恐怖と、疲労と、諦めと、それから、たぶん、怒りではない別の何かが。
私はそのとき、そこに「後ろめたさ」を見た。
見た、というより、置いた。
*
「佐野さん」
私は、なるべく穏やかに言おうとした。
「私は、あなたを悪い人だとは思っていません。事情がある方だというのも、なんとなくわかります」
「事情」
「保証人のことも聞きました。大変だったんですよね」
彼女の顔から、表情が消えた。
消えた、というのが、いちばん近い。それまであった疲れも、諦めも、全部、すっと引いた。
私は、自分が何を言ったかを、少し遅れて理解した。
管理人しか知らないことを、私はいま、口に出した。
*
「あなた」
彼女は言った。
「あなた、私のこと、聞いて回ってるんですか」
「いえ、そういうつもりでは」
「岸さんに聞いたんですか」
「たまたま話が出ただけです」
嘘だった。
私は用件を三つ用意して、みっつめを本題にして、管理人室に行った。たまたまではない。
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「あなた、何も知らないでしょう」
*
私は、その言葉を、こう受け取った。
図星だから怒っている。
人は、痛いところを突かれると、相手を否定する。あなたは何も知らない、あなたには関係ない、勝手なことを言うな。そういう言葉は、たいてい、隠したいものがある人から出る。
私はそう思った。
思ってしまえば、あとは簡単だった。
「知らないです」と私は言った。「でも、見ました」
「何を」
「あざを。三つと、点を二つ」
彼女は、目を閉じた。
閉じて、少しのあいだ、そのままだった。
開けたとき、彼女はもう私を見ていなかった。外廊下の手すりのほうを見ていた。
「わかりました」
「あの」
「もう、いいです」
*
彼女は帰っていった。
二歩か三歩で自分のドアの前に着いて、鍵を開けて、入って、閉めた。閉める音は静かだった。乱暴には閉めなかった。
私は自分の玄関に立ったまま、その音を聞いた。
外廊下の空気が、開けたドアから入ってきていた。冷たかった。
私はドアを閉めて、鍵をかけた。
*
部屋に戻って、ノートを開いた。
書くことは、たくさんあった。
——十一月十三日(金)二十一時十分頃、四〇四母親が当室を訪問。通告をやめるよう要求。
——本人、児が病気であると主張。病名は答えず。
——病院名も答えず。理由も述べず。
私は「病名は答えず」の行に、下線を引いた。
引いてから、その行を何度も見た。
答えられない病気なんて、ない。
風邪でも、骨折でも、もっと重いものでも、親が隣人に言えない病気というものが、この世にあるだろうか。言えないということは、言えない理由があるということだ。
言えない理由がある人が、言えないと言っている。
それは、認めたのと同じではないか。
*
私はノートを閉じた。
閉じてから、開き直して、最後にもう一行足した。
——本人が直接、中止を求めてきた。これは行動の変化。次の段階に進んでいる可能性。
「次の段階」と書いた。
何の次の段階なのかは、書かなかった。
*
それから、私は携帯を取った。
「ご近所ノート」を開いた。
私の投稿には、返信が三十四件ついていた。三日前より十七件増えている。新しいほうから読むと、知らない人たちが、私の知らないところで話を進めていた。
——うちも見かけたら気にしてみます。
——役所は動かないので、数で押すしかないと思います。
——何人か声を上げれば変わりますよ。
私は返信欄を開いた。
新しい書き込みの欄に、こう打った。
——さっき、本人が部屋に来ました。
打ってから、指を止めた。
止めたのは、迷ったからではない。
どう書けば、いちばん伝わるかを考えていた。




