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善き隣人  作者: 真核生物
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第十章 二度目、三度目

 二度目の電話は、翌日の午前中にかけた。


 十一月十四日、土曜日だった。前の夜に倫子が来てから、私は一睡もしていなかった。


 番号は覚えていた。一八九。


 「昨日、こちらに連絡した者です。四〇三の、匿名でお願いした者です」


 「はい」


 「昨日の夜、隣の方が私の部屋に来られました」


 *


 電話に出た人は、前と違う人だった。男の人だった。


 私は説明した。二十一時十分ごろに訪問を受けたこと。通告をやめてほしいと言われたこと。子どもが病気だと主張されたが、病名を答えなかったこと。病院名も答えなかったこと。


 「病名を、お答えにならなかったんですね」


 「はい。言えません、と」


 「そうですか」


 書く音がした。


 私はその音を聞きながら、少し前のめりになっていた。伝わっている。この情報には価値がある。そう思っていた。


 「あの、こういう場合って」


 「はい」


 「本人が中止を求めてきたというのは、その、隠したいことがあるということですよね」


 少し間があった。


 「そのように断定はできません」と、その人は言った。「ただ、いただいた情報として記録します」


 断定はできません。


 私はその一言を、聞き流した。


 *


 掲示板には、その日のうちに書いた。


 昨夜のことを、なるべく事実だけ書いたつもりだった。訪問を受けたこと。やめてほしいと言われたこと。病名を聞いたが答えなかったこと。


 最後にこう書いた。


 ——怖かったです。


 これは嘘ではなかった。実際、私は怖かった。ドアの外に人が立っているのは怖い。夜に訪ねてこられるのは怖い。


 ただ、私が書かなかったこともある。


 彼女が上着を着ていなかったこと。声を荒らげなかったこと。ドアを静かに閉めたこと。指が白くなるほど手を組んでいたこと。


 書かなかったのは、字数の問題だと思っていた。


 *


 返信は、その夜のうちに二十件を超えた。


 ——それはもう脅しですよね。

 ——警察に相談したほうがいいと思います。

 ——投稿主さん、鍵はちゃんとかけてくださいね。心配です。

 ——病名言えないっておかしいでしょ。言える病気しかないですよ普通。


 最後の一件が、いちばん多く反応を集めていた。


 言える病気しかない。


 私が前の夜に自分で考えたことと、同じ言葉だった。同じ言葉が、知らない人の口から出てきた。それを見たとき、私は、自分の考えが正しいことが確かめられたように感じた。


 同じ考えを持っている人が二人いることは、その考えが正しいことの証明にはならない。


 いま書けば、そんなことはわかる。


 あのときはわからなかった。


 *


 二日後、掲示板にこういう書き込みがあった。


 ——私も昨日、一八九に電話しました。同じ団地の者です。


 私はそれを読んで、しばらく画面を見ていた。


 この人は、四〇四の子どもを見たことがあるのだろうか。泣き声を聞いたことがあるのだろうか。


 わからない。


 わからないけれど、電話をした。


 私は「ありがとうございます」と返信した。


 *


 十一月の下旬から、区の人が来る回数が増えた。


 私はドアスコープで数えた。二十日に一組、二十四日に一組、二十七日にも来た。二十七日は、前に見た二人ではなく、別の女の人が一人だった。


 滞在時間も長くなっていた。十七分だったのが、四十分を超えるようになった。


 私はそれを、ノートに書いた。


 ——訪問頻度が上がっている。行政も懸念を持っている。


 書いてから、少し胸のあたりが軽くなった。


 私だけではない。私だけが騒いでいるのではない。


 *


 十二月の初め、管理人室の前を通ったときに、岸さんに呼び止められた。


 「坂上さん」


 「はい」


 「最近、区の人がよく来られますね。四〇四さんのところ」


 「そうですね」


 「なにか、あったんですかね」


 岸さんは、いつもの人のいい顔をしていた。


 私は「さあ」と答えた。


 答えてから、岸さんの顔をもう一度見た。


 岸さんは、少し笑って、それからこう言った。


 「私は、何も言ってませんよ」


 「え」


 「いや、なんとなく。誰かが何か言ったのかなと思って」


 私は「そうですね」と言って、階段を上がった。


 上がりながら、心臓が速くなっているのがわかった。


 岸さんは、私を疑っていた。


 疑われている、と思ったとき、私が最初に考えたのは、どう言い訳するかだった。あの人に何を話したか、思い出そうとした。


 子どものことは、考えなかった。


 *


 十二月に入って、四〇四の生活が変わった。


 まず、朝の時間が変わった。木曜の七時十五分に出かけるのは変わらないのに、それ以外の日も、昼間に人がいる気配がするようになった。


 薄い水色の上着を、見なくなった。


 あの襟の形の、病院で働く人が着るような服だ。九月には週に何度も見ていた。十二月には一度も見なかった。


 私はそれを、ノートに書いた。


 ——母親、平日日中も在宅の様子。就労状況に変化か。


 *


 田代さんから聞いたのは、十二月の第二週だった。


 寒くなってから、田代さんは外に椅子を出さなくなっていた。その日はたまたま、郵便受けの前で会った。


 「あら、四階の方」


 「こんにちは」


 「あそこの人ね」と田代さんは言った。名前は言わなかった。「お仕事、辞めたんですって」


 「そうなんですか」


 「休みが多かったみたいでね。役所の人が来たり、なんだかんだで、平日に出られない日が続いて。それで、来月から来なくていいって言われたって」


 「……どなたから聞かれたんですか」


 「三階の方」


 私はうなずいた。


 「あんな小さい子がいるのにねえ」と田代さんは言った。「これから、どうするのかしらねえ」


 *


 部屋に戻って、私はノートを開いた。


 開いて、しばらくペンを持っていた。


 書くべきことは決まっていた。母親、失職。日付。情報源。


 私は書いた。


 書きながら、一度だけ、こう思った。


 私が電話をかけたから、区の人が来た。区の人が来たから、平日に出られなくなった。平日に出られなくなったから、仕事を失った。


 その順番は、はっきりしていた。


 私はペンを止めた。


 止めて、こう考え直した。


 順番があることと、原因であることは、違う。


 もともと不安定な働き方だったのかもしれない。子どもの通院で休みが多かったのかもしれない。私のせいだと考えるのは、むしろ思い上がりだ。


 私は、そう考えた。


 そう考えて、書き足した。


 ——就労状況の悪化により、家庭のストレスが増す可能性。今後、注意。


 注意、と書いた。


 私は、悪くなることを予測していた。予測しながら、悪くならないでほしいとは、書かなかった。


 *


 三度目の電話は、十二月十四日にかけた。


 その週、泣き声が二度しか聞こえなかった。


 九月からずっと、週に三日か四日は聞こえていた。それが二度になった。前の週も三度だった。


 減っている。


 私はそれを、ノートの数字で確かめた。数字にすると、はっきりわかった。九月は週に四日。十月も四日。十一月から三日になり、十二月は二日。


 私は電話でそう説明した。


 「減っているんです」


 「減っている、というのは」


 「泣き声が。前は週に四回だったのが、いまは二回です」


 「それは、状況が落ち着いてきたということでは」


 「私は、逆だと思います」


 *


 私は用意していた説明をした。


 誰かが見ていると知ったから、声を出させないようにしている。区の人が来るようになって、いっそう気をつけている。


 外から見える部分だけが静かになって、中は変わっていない。むしろ、母親は仕事を失って、追い詰められている。


 声が減っているのは、良くなったからではない。隠すのが上手くなったからだ。


 「なるほど」と、電話の人は言った。


 「記録もあります。九月から全部つけています。日付と時刻と、継続時間と、物音の回数と」


 「そうですか。ありがとうございます」


 「必要でしたら、お渡しできます」


 「ご協力ありがとうございます」


 *


 電話を切って、私はノートを見た。


 二冊目は、もう半分以上埋まっていた。


 九月から十二月まで、三か月半ぶんの記録がここにある。日付、時刻、継続時間、声の高さ、物音の回数。証言。訪問の記録。あざの数と位置。


 私は最初のページから読み返した。


 一ページ目に、こう書いてある。


 ——隣室、子どもの泣き声。約十五分。母親と思われる女性の声。物音一回。


 あのとき私は、「物音」というのが弱いと思った。もっと正確に書くべきだと思った。


 三か月半かけて、私は正確になった。


 *


 十二月十九日の夜、四〇四の前にタクシーが停まった。


 私は窓から見ていた。深夜の十一時過ぎだ。


 倫子が、大きなバッグを肩にかけて出てきた。もう片方の腕でひなたを抱えていた。ひなたは毛布のようなものにくるまれていて、顔は見えなかった。


 二人はタクシーに乗って、行ってしまった。


 私はノートに書いた。


 ——十二月十九日、二十三時十分頃、母子がタクシーで外出。荷物あり。


 荷物あり、の四文字を、私はしばらく見ていた。


 *


 次の日、四〇四は静かだった。


 その次の日も、静かだった。


 三日目も、四日目も、静かだった。


 明け方に目が覚めて、壁に手を当てても、何も伝わってこなかった。テレビの音もしない。水の音もしない。台所で食器が重なる音も、しない。


 人がいない部屋の静けさは、人がいる部屋の静けさとは違う。


 私にはそれがわかった。三か月半、壁に手を当ててきたから、わかった。


 *


 六日目に、私はノートに書いた。


 ——四〇四、無人と思われる。転居の可能性。


 書いてから、私はその一行を見た。


 勝ったのか、と思った。


 そう思ったことに、自分でぎょっとした。何に勝ったというのだろう。私は誰とも戦っていない。あの子が安全な場所に移ったのなら、それでいいはずだ。


 それでいいはずだった。


 その夜、私は眠れなかった。


 四時に目が覚めたのではない。一睡もしなかった。


 壁の向こうから、何も聞こえてこなかった。


 三か月半、私が待っていた静けさが、そこにあった。


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