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善き隣人  作者: 真核生物
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第七章 綻び

 編集者から電話がかかってきたのは、十月の終わりだった。


 私はその日、四〇四の朝の記録をつけ終えて、ゲラを開いたところだった。前の週に返した仕事の話だろうと思った。実際、そうだった。


 「坂上さん、いつもお世話になっております」


 若い男の人の声だ。三年ほど付き合いのある版元の、文芸の担当者だった。


 「先日いただいたゲラのことなんですけど」


 「はい」


 「二百四十ページの、おばあさんのせりふのところ、覚えてらっしゃいますか」


 覚えていた。


 *


 こういうせりふだった。


 ——あんた、えらいねえ。


 孫が学校から帰ってきて、玄関で座り込んでいる場面だ。祖母がそう声をかける。


 私は赤を入れた。


 この「えらい」は、褒め言葉として使われている。けれど直前の文脈では、孫は褒められるようなことを何もしていない。ただ疲れて帰ってきて、靴も脱がずに座り込んでいるだけだ。


 だから私はこう書いた。


 ——「えらい」は褒める意味。ここは文脈に合わないのでは。「大変だったね」等に修正のご検討を。


 「あれ、方言なんです」


 と、担当者は言った。


 *


 「西のほうでは、しんどい、つらい、という意味で使うんですよ。あんたえらいねえ、というのは、あんた大変そうだねえ、ということで」


 「……はい」


 「著者の先生が、地の文と会話でわざと使い分けてらして。それで、ちょっとご相談だけしておこうと思って」


 私は受話器を持ったまま、自分のゲラのコピーを開いた。


 二百四十ページ。私の字で、赤いペンで、はっきり書いてある。


 文脈に合わないのでは。


 「すみません」と私は言った。「勉強不足でした」


 「いえいえ。よくあることですし、こちらも助かってます。ほかの指摘は全部通ってますので」


 「本当にすみません」


 「あの、坂上さん」


 「はい」


 「大丈夫ですか」


 *


 電話を切ってから、私はしばらく動かなかった。


 大丈夫ですか、と聞かれたのは、私の声がおかしかったからだろう。あるいは、私が謝りすぎたからだろう。


 方言を知らなかった。それだけのことだ。校正者が全国の方言を知っているわけではない。知らないものは辞書を引くし、引いてもわからないものは疑問として出す。


 私は、疑問として出さなかった。


 私は、修正案を出した。


 「大変だったね」等に修正のご検討を。等に、と書いた。代案まで書いた。


 つまり私は、あれを間違いだと判断していた。


 *


 去年、傘の色を見つけたとき、私は手を止めた。


 あのときのことを、私はよく覚えている。二百八十ページで紺色だった傘が、三百六ページで黒になっていた。誰も気づかなかったものを、私が見つけた。


 見つけてしまった、と思った。


 いま思うと、あのときの「見つけてしまった」には、少しだけ、いい気分が混じっていた。


 私は、間違っていないものを、間違いだと言った。


 その日の午後、ゲラは進まなかった。


 *


 夕方、携帯が鳴った。


 画面を見た。


 その名前が出ていた。


 九月に三回鳴って切れた、あの番号だ。あれから何度かかかってきていて、私は一度も出ていない。


 今回は、切れたあとに通知が来た。


 メッセージだった。短い。


 ——来週、行くけど。


 それだけだった。どこへ、とも、何のために、とも書いていない。書く必要がないからだ。


 私は画面を伏せた。


 伏せてから、もう一度開いて、もう一度読んで、また伏せた。


 返信はしなかった。


 *


 その夜、私は湯を張った。


 越してきてから、一度も張っていなかった。シャワーで済ませていた。二か月近く、ずっとそうしていた。


 理由を聞かれたら、光熱費と答えるつもりだった。誰も聞かないけれど。


 蛇口をひねると、水が湯船に落ちる音がした。


 狭い浴室に、その音だけが反響した。最初は高い音で、水が溜まるにつれて、だんだん低くなっていく。


 私は洗面所に立って、その音を聞いていた。


 音が低くなるのを、聞いていた。


 *


 半分ほど溜まったところで、私は栓を抜いた。


 抜いてから、なぜ抜いたのかを考えた。


 湯が減っていく音は、溜まる音とは違う。ごぼ、という音がして、それから、細くなって、消える。


 全部なくなったあと、私は空の湯船を見た。


 息を吸うのを忘れていた。思い出したときに、喉の奥が音を立てた。


 二度目だ。


 越してきた日の朝にも、同じことをした。


 *


 週末に、私は押し入れを片づけた。


 片づける必要はなかった。段ボールはもう全部開けてある。ただ、何かしていないと、四時までの時間が長かった。


 いちばん奥に、開けていない箱がひとつあった。


 小さい箱だ。引っ越しのとき、業者に運んでもらった記憶がない。自分で持ってきたのだと思う。


 テープを切って、開けた。


 *


 上のほうには、書類が入っていた。


 保険の証書。使わなくなった通帳。年賀状の束。どれも、捨てるほどではないが、いる理由も特にないものだ。


 その下に、たたまれた布があった。


 黄色い雨合羽だった。


 子ども用の、いちばん小さいサイズ。フードの縁に細いゴムが入っていて、そこが少し伸びている。


 私はそれを持ち上げた。


 軽かった。ほとんど重さがないと感じるくらい軽かった。


 袖の内側に、白いテープが縫いつけてあった。名前を書くためのものだ。保育園に持っていくものには、全部これがついている。


 文字は、滲んでいた。


 油性のペンで書いたはずなのに、何度も洗ううちに滲んで、輪郭がぼやけている。三文字だったと思う。あるいは二文字かもしれない。


 私はそれを、読もうとしなかった。


 *


 読まなくても、知っている。


 それでも、読もうとしなかった。


 私は雨合羽をたたみ直した。もとと同じたたみ方にしようとして、うまくいかなかった。たたみ方を覚えていなかった。


 箱に戻して、書類を上に重ねて、テープを貼り直した。


 押し入れのいちばん奥に、押し込むようにして戻した。


 襖を閉めた。


 *


 襖には、鉛筆の線が四本ある。


 前の住人が、子どもの背丈をはかった跡だ。いちばん下といちばん上で、二十センチ離れている。


 越してきた日に、私はこれを見て、何年ぶんだろうと考えて、考えるのをやめた。


 いま、また同じことを考えた。


 二十センチなら、三年か、四年ぶんだ。


 四本目の線のところで、この線は止まっている。


 子どもが大きくなって、はかるのをやめたのかもしれない。引っ越したのかもしれない。理由はいくらでもある。


 私は襖の前にしばらく座っていた。


 それから、立ち上がって、電気を消した。


 *


 その夜も、泣き声は聞こえなかった。


 四〇四が静かになって、六日目だった。


 私は四時に目を覚まして、天井を見ていた。壁に手を当ててみた。冷たかった。何も聞こえなかった。


 六日。


 この六日で、私は一行も書いていない。ノートの二冊目は、まだ十二ページしか埋まっていない。


 何も起きていないのだから、書くことがないのは当たり前だ。


 当たり前なのに、落ち着かなかった。


 *


 五時をまわったころ、私は起き上がって、ノートを開いた。


 新しいページに、日付を書いた。時刻を書いた。


 そのあとに、こう書いた。


 ——四〇四、六日連続で異常なし。


 異常なし、と書いてしまってから、また止まった。


 九月に「変化なし」と書いたとき、私はそこに前提が入っていることに気づいた。何かが起きているのが通常の状態だと、自分がもう決めているということに。


 今度は「異常なし」だ。


 前より悪くなっている。


 私はペンを持ったまま、そのページを見ていた。


 消さなかった。


 その代わり、ページの下のほうに、小さく書いた。


 ——訪問から六日。効果があったのか、隠しているのか、判断材料なし。


 「判断材料なし」と書けたことで、少し安心した。


 私はまだ、公平でいる。そう思えた。


 *


 ノートを閉じて、私は台所に立った。


 水を飲もうとして、棚を開けた。


 手前に、白いマグカップがある。私はいつもそれを取る。


 その奥に、もうひとつある。


 うさぎの絵が入っていて、持ち手が輪になっている。大人の指では、一本しか通らない。


 私はそれを見た。


 見て、手前のマグカップを取って、水を注いだ。


 飲みながら、私は四〇四の壁のほうを見ていた。


 あの部屋の子どもは、いま、眠っている。


 眠っているのだと思う。


 六日間、何も聞こえないというのは、そういうことだ。


 それなのに私は、明日の朝も四時に目が覚めるだろう。


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