第六章 最初の電話
電話をかけるまでに、四日かかった。
番号は最初の日に調べてあった。一八九。いちはやく、と読ませるらしい。三桁だから、押すのは一瞬だ。
その一瞬に、四日かかった。
*
調べているうちに、ひとつ知ったことがある。
あれは「通報」ではなく「通告」というらしい。
法律にそう書いてあるのだと、あるページに説明があった。児童虐待の防止等に関する法律。第六条。虐待を受けたと思われる児童を発見した者は、速やかに、通告しなければならない。
通報と通告は違う。
通報は、事件を知らせること。通告は、告げ知らせること。義務として。
私は職業柄、こういう語の違いが気になる。気になって、二つの言葉を並べて眺めているうちに、少し気が楽になった。
通報なら、私は誰かを告発することになる。
通告なら、私はただ、法律が定めた義務を果たすだけだ。
*
十月二十日の、火曜日の昼にかけた。
午前中を選ばなかったのは、四〇四が出かけていないことを確かめてからにしたかったからだ。二人が家にいる時間にかけたほうが、すぐ来てもらえるような気がした。
三回のコールで、女の人が出た。
「はい、児童相談所です」
私は用意していた最初の一文を言った。
「あの、近所の子どものことで、気になることがあって」
「ありがとうございます。少しお話を聞かせてください」
ありがとうございます、と言われるとは思っていなかった。
*
職員の人は、私が思っていたより落ち着いていた。
驚きもしなかったし、慌てもしなかった。ただ、順番に聞いてきた。
どこの、どういう建物か。何号室か。子どもの年齢は。性別は。同居している大人は何人か。いつから気になっているか。どんな様子を見たか。
私は答えた。答えながら、ノートを開いていた。
「泣き声を最初に聞いたのは、九月の頭です。私が引っ越してきた日です」
「その日から、ずっとですか」
「毎日ではありません。週に三日か四日です。日曜の朝は聞こえません」
「朝、というのは」
「四時から五時のあいだです。夜ではなく、明け方です」
電話の向こうで、書く音がした。
その音を聞いたとき、私の中で何かが少し緩んだ。記録している人がいる。私の言ったことが、私以外のところに残る。
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「あざを見られたのは、いつですか」
「二回あります。一度目が九月の第二週の土曜日で、左の前腕の内側に一つ。直径三センチくらいです」
「二度目は」
「十月の十四日です。同じ場所に三つに増えていました。それと、肘の内側に小さな点が二つ」
「点、というのは」
「わかりません。赤黒くて、盛り上がっていました。虫刺されかもしれません」
言ってから、少し後悔した。
虫刺されかもしれない、と自分から言う必要はなかった。
「本人は、なんと言っていましたか」
「ころんだ、と」
「そうですか」
職員の人は、それ以上そこを掘らなかった。
*
「お名前をうかがってもよろしいですか」
来た、と思った。
「……匿名でもいいと聞いたんですが」
「はい、匿名で承ることもできます」
あっさりしていた。責めるような響きは、少しもなかった。
「では、匿名で」
「わかりました。念のためお伝えしますが、通告いただいた内容も、通告された方の情報も、保護者の方にお伝えすることはありません」
「本当ですか」
「はい」
私は受話器を持ち替えた。手のひらが汗ばんでいた。
「ただ」と職員の人は続けた。「お伝えいただいた内容が、その方しか知り得ないような内容である場合は、保護者の方が、誰から出た話かを推測されることはあります」
「推測」
「ええ。そういう場合は、こちらから改めてご相談させていただくこともあります」
私は、そのとき、その言葉の意味をよく考えなかった。
考えなかった、というのは正確ではない。考えて、自分には関係ないと判断した。私が話したのは、明け方の泣き声と、腕のあざだ。あの棟の人なら誰でも知っている。誰でも知っていることを話しただけだ。
風除室で二人きりだったことは、話さなかった。
話さなかったのに、あざの数と位置を「三つ」「肘の内側に二つ」と言った。
*
電話は十五分ほどで終わった。
最後に、職員の人は言った。
「ご連絡ありがとうございました。こちらで確認いたします」
「あの」
「はい」
「いつごろ、来ていただけますか」
少し間があった。
「具体的な日時はお伝えできないのですが、こういったご連絡をいただいた場合は、原則として四十八時間以内に、お子さんの安全を直接確認することになっています」
四十八時間。
私はその数字をノートに書いた。丸で囲んだ。
「わかりました」
「もし今後、急を要するような状況があれば、迷わず一一〇番してください」
「はい」
電話を切って、私はしばらく座っていた。
やった、とは思わなかった。
もっと静かな感じだった。長いあいだ持っていた重いものを、やっと誰かに渡した。そういう感じだった。
*
二日後の木曜日、午後二時十分。
インターホンの音が、壁の向こうで鳴った。
私は自分の部屋にいた。ゲラを読んでいた。読んでいたはずだが、二時を過ぎたころから、同じ行を三回読んでいた。
音がした瞬間に、私は立ち上がっていた。
玄関に行って、ドアスコープを覗いた。
外廊下に、二人立っていた。
*
男の人と、女の人だった。
二人ともスーツではなかった。男の人は紺のジャンパーに、首から何かをぶら下げている。女の人は薄いグレーのカーディガンで、大きめのトートバッグを持っていた。
役所の人には見えなかった。近所の人に見えるようにしているのだ、と私は思った。
もう一度、インターホンが鳴った。
しばらく、何も起きなかった。
それから、四〇四のドアが開いた。
*
私はドアスコープに目を当てたまま、動かなかった。
角度のせいで、四〇四のドアそのものは見えない。見えるのは、外廊下に立っている二人の背中と、その先の空だけだ。
声が聞こえた。低く、短く。何を言っているかはわからない。
女の人が何か話している。倫子の返事は聞こえない。
やがて、二人が視界から消えた。
部屋に入ったのだ。
*
私は玄関に立ったまま待った。
立ったまま、というのは、途中から座ったからだ。三和土に腰を下ろして、膝を抱えていた。
壁の向こうから、人の気配がした。
話し声。歩く音。何かが動く音。会話の内容はまったく聞き取れなかった。あれだけ泣き声が聞こえる壁なのに、大人の話し声はほとんど通らなかった。
子どもの声が、一度だけした。
高い声だった。泣いてはいなかった。
*
十七分だった。
私は携帯で時間を計っていた。二時十四分にドアが開いて、二時三十一分に閉まった。
外廊下を、二人が歩いていく音がした。
私はドアを開けた。
開けてしまってから、何を言うつもりなのかを考えた。
「あの」
二人が振り返った。女の人のほうが、先に会釈をした。
「すみません、私、隣の者なんですけど」
「はい」
「あの、大丈夫でしたか」
女の人は、少しだけ首をかしげるようにした。責める顔ではなかった。困った顔でもなかった。ただ、決まった答えを返すときの顔だった。
「申し訳ありません。個別のご家庭のことは、お話しできないんです」
「いえ、そうではなくて」
私は言葉を探した。
「何か、あの、そういう感じでしたか」
自分でも、ひどい聞き方だと思った。
「ご心配なことがありましたら、いつでもご連絡いただければ」
女の人はそう言って、名刺のようなものを差し出した。私は受け取った。区の相談窓口の番号が印刷された、小さなカードだった。
「ありがとうございます」
「失礼します」
二人は階段を下りていった。
*
部屋に戻って、私はカードを卓袱台に置いた。
置いてから、ノートを開いた。
——十月二十二日(木)十四時十四分〜十四時三十一分。児童相談所職員二名が四〇四を訪問。滞在十七分。
書いてから、次の行を書いた。
——結果、不明。
その四文字を、私はしばらく見ていた。
十七分だ。
十七分で、何がわかるのだろう。あの部屋に入って、母親と話して、子どもの顔を見て、それで帰ってきた。あざは服の下だ。袖を上げてくれと言ったのだろうか。言ったとして、母親が「転んだんです」と答えたら、それで終わりではないのか。
私は九月から聞いている。四十日以上、聞いている。
あの人たちは、十七分だ。
*
その夜、泣き声は聞こえなかった。
金曜の朝も、聞こえなかった。
土曜の朝も、聞こえなかった。
三日続けて、四〇四は静かだった。
私は四時前に目を覚まして、天井を見ていた。何も聞こえない天井を、五時半まで見ていた。
静かになった、と考えることもできた。よかった、と考えることもできた。
私が考えたのは、そうではなかった。
——気をつけはじめたのだ。
誰かが見ていると知ったから、気をつけはじめた。声を出させないようにしているのだ。
私はノートにそう書いた。
書いてから、ペンの先を止めて、こう書き足した。
——見ただけで帰るなら、見ていないのと同じだ。




