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善き隣人  作者: 真核生物
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第五章 あざ

 十月の半ばに、二日続けて雨が降った。


 二日目の午後、私は傘を差して買い物に出て、濡れた靴で戻ってきた。五棟の入口には風除室がある。ガラスの引き戸を二枚くぐるだけの、二畳ぶんもない空間だ。そこで傘の水を切るのが、この団地に住む人の習慣らしかった。


 引き戸を開けたところで、私は足を止めた。


 子どもが座っていた。


 *


 四〇四の子だった。


 郵便受けの並びの下に、低い段差がある。そこに腰かけていた。ピンクの長袖に、紺色のスカート。膝の上に、通園カバンのような小さなリュックを抱えている。


 両脚を、前に投げ出すようにして伸ばしていた。


 子どもが座るときの、あの膝を折りたたむ座り方ではなかった。脚をまっすぐ前に出して、かかとを床につけている。


 「こんにちは」


 私が言うと、子どもは顔を上げた。


 「こんにちは」


 覚えていたらしい。少し笑った。前歯の抜けたところは、まだそのままだった。


 「ひとりなの?」


 「ママ、おかいもの」


 「そう」


 私は傘を傘立てに入れて、それから、少し離れたところにしゃがんだ。


 しゃがんだのは、目の高さを合わせるためだ。そう自分に言った。


 *


 「おなまえ、なんていうの」


 「ひなた」


 「ひなたちゃん」


 「うん」


 「いくつ?」


 ひなたは右手を開いて、それから、左手の人差し指を立てた。六本。


 その左手の袖が、少しずり上がった。


 *


 前腕の内側に、あざがあった。


 九月に見たものとは違った。あのときは五百円玉ほどの、ひとつだけだった。今は三つある。


 いちばん大きいのが手首の少し上。青紫で、ふちが黄色い。その下に、もっと小さくて薄いのが二つ。


 それだけではなかった。


 肘の内側に、点があった。


 小さな点だ。赤黒くて、まわりが少し盛り上がっている。そのすぐ横に、もう一つ、色の抜けたような同じ大きさの点。


 私は、それを見た。


 見て、頭のなかで言葉を探した。


 *


 「これ、どうしたの」


 私は自分の左腕の同じところを指で示した。ひなたの腕には触れなかった。触れてはいけないと思った。


 ひなたは自分の腕を見た。


 「ころんだの」


 「そう」


 「ころんだ」


 もう一度言った。


 子どもは、同じ答えを二回言う。それは珍しいことではない。私も子どものころ、そうだった。うまく説明できないことを聞かれると、最初に言った言葉をもう一度言う。


 けれど私は、そのとき、別のことを考えていた。


 転んでできるあざではない。


 前腕の内側というのは、転んだときに地面に当たる場所ではない。当たるのは、外側か、手のひらか、膝だ。内側にできるとしたら、それは、掴まれたときだ。


 私はそう考えた。


 そう考えたことを、自分の頭のなかで、はっきりと文章にした。


 *


 「ひなたちゃん、あのね」


 私が言いかけたとき、ひなたが先に口を開いた。


 「おばさん、こどもいる?」


 風除室の外で、雨が屋根を叩いていた。


 「いないよ」


 私はそう答えた。


 答えてから、自分の声が思ったより低かったことに気づいた。


 「そっか」


 ひなたはそれだけ言って、リュックのファスナーを開けたり閉めたりしはじめた。子どもがときどきやる、意味のない手の動きだ。


 私は立ち上がろうとして、やめた。


 立ち上がったら、この時間が終わる。


 「ひなたちゃん、おうちで」


 「あのね」


 *


 ひなたが言いかけたところで、外の引き戸が開いた。


 佐野倫子だった。


 スーパーの袋を両手に提げていて、髪が雨で濡れていた。傘は差していない。あるいは差していたのに、袋のせいでうまく使えなかったのかもしれない。


 彼女は私を見た。


 三度目だ。三度目の、あの短い動き。


 それから、袋を床に置いた。置く音が、思ったより大きく響いた。


 「ママ」


 ひなたが手を伸ばした。


 倫子は膝をついて、ひなたの前に回り込んだ。私に背を向ける形になった。


 そして、ひなたを抱き上げた。


 *


 抱き上げるとき、彼女はひなたの脚のうしろに腕を回した。膝の裏を支えるようにして、ゆっくり持ち上げた。


 ひなたは母親の首に腕を回した。


 私は、それを見ていた。


 六歳の子どもを抱き上げるのは、簡単なことではない。倫子は痩せている。それでも、彼女はその動作に慣れていた。持ち上げるまでの手順が決まっている人の動きだった。


 慣れている、と私は思った。


 そして、なぜ慣れているのだろう、と考えた。


 答えは、そのときの私には一つしか浮かばなかった。歩かせたくないからだ。外で、人に見られる場所を、歩かせたくないからだ。


 *


 倫子は、床に置いた袋を片手で持ち上げようとして、うまくいかなかった。


 私は動いた。


 「持ちます」


 言ってから、自分でも驚いた。


 倫子の手が止まった。ひなたを抱いたまま、彼女は私のほうを向いた。


 顔を、まっすぐ見た。


 初めてだった。


 目の下のくまは、九月に見たときより濃くなっていた。頬がこけている。唇が乾いて、皮が剥けかけていた。


 彼女は何か言おうとした。


 口が、ほんの少し開いた。息を吸う音がした。そこまでは確かに聞こえた。


 言葉にはならなかった。


 代わりに、彼女は言った。


 「……すみません」


 それだけだった。


 そして袋の取っ手を握り直して、ひなたを抱えたまま、階段のほうへ歩いていった。片方の袋は床に残ったままだった。


 「あの」


 私が声をかけると、彼女は振り返らずに言った。


 「あとで取りにきます」


 足音が、四階まで上がっていった。


 *


 私は、床に残された袋の前に立っていた。


 中を見るつもりはなかった。


 見えただけだ。上のほうに入っているものが、ガラス越しに見えるように、袋の口から見えた。


 牛乳。食パン。冷凍のうどん。


 それと、白い紙袋。薬局の名前が印刷されている。


 私はしゃがんで、その紙袋の位置を確かめようとした。


 確かめようとして、手を止めた。


 これは、やってはいけないことだ。他人の買い物袋の中を見るというのは、どういう理由があってもやってはいけない。


 私は立ち上がって、部屋に戻った。


 部屋に戻って、鍵をかけて、それから、思い出した。


 薬局の袋があった。


 あれが、何の薬なのかは、わからない。母親のものかもしれないし、子どものものかもしれない。風邪薬かもしれない。


 でも、あの子はいつも泣いている。


 *


 夕方、私はまた検索をした。


 子ども、あざ、位置、と入れた。


 医療機関のページがいくつも出てきた。そのうちの一つに、図があった。人の形をした線画に、色を塗り分けてある。事故でできやすい場所と、できにくい場所。


 できやすいのは、額、鼻、顎、肘の外側、膝、すね。骨が出っ張っているところだ。子どもは前に転ぶから、体の前と外側にあざができる。


 できにくいのは、頬、耳、首、上腕の内側、前腕の内側、太ももの内側、背中。


 前腕の内側、と私はもう一度読んだ。


 画面をスクロールすると、下のほうに注意書きがあった。文字が小さかった。


 ——ただし、これらはあくまで目安であり、この部位のあざが直ちに虐待を意味するものではありません。病気による出血傾向や、治療の影響で内出血しやすくなっている場合もあります。


 私はその一文を読んだ。


 読んで、ページを閉じた。


 閉じてから、自分がその一文をきちんと読んだかどうか、思い出せなかった。目は通した。文字は追った。けれど、頭のなかに残っていたのは、その上の図のほうだった。


 赤く塗られた、前腕の内側。


 *


 その夜、私はノートを開いた。


 書くことは決まっていた。日付、時刻、場所、目撃した内容。


 ——四〇四の児と接触。左前腕内側にあざ三箇所(うち一つは新しい、色が濃い)。肘内側に点状の痕、二つ。児の説明「ころんだ」。転倒では説明のつかない位置。


 肘の点については、少し迷った。


 あれが何なのか、私にはわからなかった。虫刺されかもしれない。何かにぶつけたのかもしれない。


 わからないものを、わからないまま書いた。それは正しいことだと思った。


 その下に、私はもう一行足した。


 ——母親、児を歩かせず抱えて移動。日常的に行っている様子。


 「様子」と書いてから、それも消せない言葉だと気づいた。私は倫子の家の中を見たことがない。日常的かどうかを、私は知らない。


 それでも、その行を残した。


 *


 最後の一行を書く前に、私はしばらくペンを置いていた。


 風除室のことを思い出していた。ひなたの腕。三つのあざと、二つの点。私はそれを、五秒か、十秒か、見ていた。


 覚えている。色も、大きさも、位置も、覚えている。


 でも、覚えているというのは、記録ではない。


 私が明日、誰かに向かって「あざがありました」と言ったとして、その誰かは何を確かめられるだろう。何も確かめられない。私の記憶しか、そこにはない。


 私はペンを取った。


 ——次からは、写真を撮る。


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