第四章 噂
管理人室は、一棟の一階の、階段の下にある。
窓口は小さくて、腰をかがめないと中の人と目が合わない。ガラスの下半分に「ご用の方はお声がけください」という紙が貼ってあって、その紙のふちが茶色くなっていた。
私が声をかけると、奥からゆっくり人が出てきた。
六十代の男の人だった。制服ではなく、灰色のジャンパーを着ている。胸に「桜台第二住宅 管理 岸」と印刷された名札が下がっていた。
「はい、なんでしょう」
声が思ったより高い。人のいい笑い方をする人だった。
*
私は用件を三つ用意していた。
ひとつめは、粗大ごみの出し方。ふたつめは、駐輪場の使い方。どちらも実際には調べればわかることだ。
みっつめが本題だった。
「あの、郵便受けのことなんですけど」
「はい」
「私、五棟の四〇三に越してきた坂上といいます。名前のシールって、どこでもらえますか」
「ああ、あれね」岸さんはうなずいて、引き出しから白い紙のシートを出した。「これに書いて貼ってもらえれば。うちで作るわけじゃないんですけどね、みなさんそうしてます」
「ありがとうございます」
私はそれを受け取って、それから、なるべく何気ない調子で言った。
「隣の四〇四さんって、貼ってないですよね」
岸さんの手が、一度止まった。
止まった、と私は思った。あとになって考えると、単に引き出しを閉めていただけかもしれない。
「ああ、佐野さんね」
*
「あそこはね」
岸さんはそう言って、少し声を落とした。
声を落とす必要は、たぶんなかった。管理人室のまわりには誰もいない。それでも人は、こういう話をするとき、声を落とす。
「去年の秋に入られたんですけどね。手続きが、ちょっと大変だったんですよ」
「大変、というと」
「保証人がね。いらっしゃらなくて」
私は黙っていた。黙っていれば、人は続きを話す。校正の打ち合わせで覚えたことだ。相手の言葉を止めない。止めなければ、たいてい、必要以上のことを言ってくれる。
「まあ、ここは古い住宅ですから、そういう方も来られます。それ自体は珍しくない。ただね」
「ただ?」
「ご主人の話を、一度もされないんですよ」
*
部屋に戻って、私はその会話をノートに書いた。
書きながら、少し迷った。
これは音ではない。私が壁越しに聞いたものではなくて、人が私に話したことだ。同じページに書いていいものかどうか。
結局、私は書いた。
——管理人・岸氏の証言。四〇四佐野氏、昨秋入居。保証人なし。配偶者について一切言及なし。
「証言」と書いてしまってから、少し手が止まった。
証言、というのは、何かが起きたあとに使う言葉だ。まだ何も起きていない段階で使う言葉ではない。
私はその二文字を丸で囲んで、横に小さく「※要検証」と書き足した。
書き足したことで、なんとなく、公平なことをした気になった。
*
田代さんに会ったのは、その週の木曜日だった。
一階の一〇二号室に住んでいる人で、集合郵便受けのシールに「田代」とある。八十近いだろうか。晴れた日はいつも、棟の入口の脇に折りたたみ椅子を出して座っている。
その日は木曜だった。だから私は、七時十五分に四〇四のドアが開く音を聞いて、階段を下りていく足音を聞いて、それから自分も外に出た。
尾けたわけではない。
自分にはそう言った。ただ、同じ時間に外へ出ただけだ。郵便局に行く用事もあった。実際、封筒も持っていた。
棟を出たところで、田代さんが座っていた。
「おはようございます」
「あら、新しい方」
田代さんはにこにこして、私の顔をじっと見た。悪意のない、しかし遠慮もない見方だった。
「四階の方でしょう。五棟の」
「はい。坂上です」
「聞こえるでしょう」
*
その一言で、私は自分の体が少し前に出たのがわかった。
「聞こえる、というのは」
「泣き声。朝の」
田代さんは、椅子の肘掛けを指で叩いた。
「一階まではね、そんなに聞こえないんですけどね。上のほうの方は、みなさんおっしゃるのよ」
「みなさん」
「三階の方も、前に言ってらしたわ」
私は、それを聞いた瞬間に、少し安心した。
安心した、というのが、いちばん正確だと思う。自分だけが聞いているのではない。自分だけが気にしているのではない。他にも気づいている人がいる。
その安心が、どういう種類のものなのか、私はそのとき考えなかった。
「あそこの子ね」と田代さんは言った。「あんまり外で遊ばないでしょう」
「そうですね」
実際、私は一度も、あの子が外で遊んでいるのを見たことがなかった。
「うちの孫なんかね、この年ごろは一日じゅう走り回ってましたよ。転んで泣いて、また走って。あれが普通なの」
「はい」
「あそこの子は、出てこないの。私はここに毎日座ってるからね。わかるのよ」
私はうなずいた。
うなずきながら、頭のなかでノートを開いていた。——四〇四の児、屋外での活動を目撃されず。近隣住民・田代氏の証言。
*
「でも」と、田代さんは続けた。
「お母さんは、悪い人じゃないと思うのよ」
私は顔を上げた。
「先週ね、私がここで転びかけたの。段差でね。そしたら走ってきて、腕を持ってくれてね。病院の人みたいな持ち方だったわ。上手だった」
「そうですか」
「だからね、悪い人じゃないと思うの」
田代さんはそう言って、それから少し首をかしげた。
「ただ、あの人、目を見て話さないでしょう。あれがねえ」
私は、田代さんの話の前半をノートに書かなかった。
書かなかったことに、その日は気づかなかった。
*
十月の第二週、私は三階の住人に話しかけた。
名前は知らない。四十代くらいの女の人で、階段ですれ違うときにいつも会釈をしてくれる人だ。その日は宅配便の伝票を書いていて、掲示板の前に立っていた。
「すみません、少しいいですか」
私はそう切り出した。切り出してしまってから、自分が何をしているのかを理解した。
私は、聞きに行っている。
管理人に聞き、一階の人に聞き、いまは三階の人に聞いている。三人目だ。三人目になると、それはもう「たまたま話が出た」ではない。
「あの、四〇四の方のことなんですけど」
女の人は、伝票を書く手を止めた。
止めた、と私は書いた。あとでノートに。
「ああ」と女の人は言った。「朝の?」
「ご存じでしたか」
「うちは真下だから。でも、うちはそんなに気にならないですよ。子どもだし」
「そうですか」
「気になります?」
聞き返されて、私は一瞬、答えに詰まった。
「いえ」と私は言った。「壁が薄いなと思って」
嘘ではなかった。壁は薄い。ただ、それは私が言いたかったことではなかった。
女の人は伝票に戻った。それきり、その話にはならなかった。
私は自分の部屋に戻って、ノートを開いて、そこにこう書いた。
——三〇四、関心なし。
書いてから、消したくなった。消せなかった。
*
その週の終わり、私はもう一度、管理人室に寄った。
シールを貼りましたと報告するためだ。そんな報告は誰も必要としていない。
岸さんは相変わらず愛想がよかった。粗大ごみの話をひとしきりして、天気の話をして、それから私が帰ろうとしたときに、思い出したように言った。
「そういえば、坂上さん」
「はい」
「あんまり気にされないほうがいいですよ、隣のこと」
私は足を止めた。
岸さんは笑っていた。人のいい笑い方だった。
「私が言うことでもないんですけどね。ああいうのは、こっちが首を突っ込んでもね」
「ああいうの、というのは」
「いや」
岸さんはそこで少し口ごもって、それから、声を落とした。また声を落とした。
「前に住んでたところでも、ちょっと揉めたらしいですよ」
*
やっぱり、と私は思った。
部屋に戻る階段を上がりながら、私はその言葉を何度も転がしていた。前のところでも揉めた。前のところでも。
やっぱり、というのは、こういうときに使う言葉ではない。
私は知っていた。校正の仕事では、その二文字がいちばん危ない。人が「やっぱり」と思ったところには、たいてい、確かめていない前提が埋まっている。
私は知っていて、それでも、四階まで上がるあいだ、ずっとそう思っていた。
部屋に入って、ノートを開いた。
——管理人証言。前住所でもトラブルあり。
「らしいですよ」という部分を、私は書かなかった。




