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善き隣人  作者: 真核生物
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第二章 隣の輪郭

 佐野、という名字を知ったのは、越してきて四日目だった。


 一階の集合郵便受けの前で、私は自分の箱に鍵を差していた。四〇三。中には何も入っていない。転居の挨拶状も、公共料金の通知も、まだ届いていなかった。


 隣の箱に目をやった。


 四〇四。


 名前が入っていない。


 ほかの箱には、たいてい名字のシールが貼ってある。「岸」「田代」「はやし」。手書きのものもあれば、テプラで打ったものもある。剥がれかけて、下からもっと古い名前が透けている箱もあった。


 四〇四だけが、白いままだった。


 名前を知ったのは、その日の夕方に回覧板が回ってきたからだ。防災訓練の日程を知らせる紙が挟んであって、裏に印鑑を押す欄がついていた。部屋番号と名字が縦に並んでいる。


 四〇四のところに、佐野、とあった。


 その一つだけ、字が違った。ほかの欄が印刷なのに対して、佐野だけがボールペンの手書きで、しかも少し斜めに書かれていた。あとから足したのだろう。誰かが——たぶん管理人が——書いたのだ。


 私はその名前をしばらく見ていた。


 自分で名前を出さない人がいる。それは、別に珍しいことではない。女性のひとり暮らしなら、むしろそのほうがいい。


 でも、あの部屋には子どもがいる。


 私は印鑑を押して、回覧板を四〇四のドアの前に置いた。インターホンは押さなかった。押すべきだったのかもしれない。けれど、そのときの私には、まだ押す理由がなかった。


 *


 初めて顔を見たのは、その二日後の朝だった。


 ゲラを送り返すために郵便局へ行こうとして、階段を下りていた。三階と四階のあいだの踊り場で、上がってくる人とすれ違った。


 若い女の人だった。


 二十代の後半だろうか。私よりずっと若い。痩せていて、髪をうしろでひとつに結んでいる。結び目のところに、細い後れ毛がいくつも出ていた。


 薄い水色の上着を着ていた。襟のかたちに見覚えがあって、少し考えて、病院で働く人の制服に似ていると思った。上にカーディガンを羽織っているから、はっきりとはわからない。


 両手にスーパーの袋を提げていた。片方は牛乳のパックの角が透けて見えるくらい重そうで、もう片方は軽そうだった。


 目の下に、くまがあった。化粧では隠しきれていない、青みのある色だ。


 おはようございます、と私は言った。


 自分でも少し驚くくらい、自然に出た。十年ちかく人と会わずに暮らしていたのに、こういうものは体が覚えているらしい。


 女の人は、私を見た。


 見た、と思う。目は合ったはずだ。けれど彼女はそのまま、私の横を通り抜けていった。


 足音が四階まで上がっていって、鍵の音がして、ドアが閉まった。


 私は踊り場に立っていた。


 *


 聞こえていなかったのかもしれない、と最初は思った。


 考えごとをしていて、耳に入らなかった。そういうことは誰にでもある。


 けれど階段を下りきるころには、私はもう別のことを考えていた。


 あの人は、私を見た。


 目が合った瞬間に、何かが動いたのだ。驚きでも、迷惑でもない。もっと短くて、もっと固い動きだった。あれは、見られたくない人が見られたときの動きだと思った。


 根拠はない。


 私は他人の表情を読むのが得意なわけではない。ただ、動いたものは動いた。


 郵便局で切手を買いながら、私は自分に言い聞かせていた。四日前に越してきたばかりの人間が、挨拶を返されなかっただけで何かを決めつけるのは、よくない。


 よくない、というのはわかっていた。


 *


 明け方の泣き声は、その後も続いた。


 毎日ではない。日曜の朝は静かだった。火曜も、たぶん何もなかった。けれど週のうち三日か四日は、四時から五時のあいだに、あの声がした。


 私はそのたびに目を覚ました。


 正確に言えば、目を覚ますのではなく、目が覚めていた。四時前には、もう天井を見ている。聞こえてくるのを待っている。何も聞こえない日は、五時半ごろまで待って、それから眠った。


 ノートには五行増えていた。


 日付。時刻。継続した時間。声の種類。物音の有無。


 書いているうちに、書き方が決まってきた。「泣き声」ではなく「連続した泣き声」と書くようになった。「女性の声」ではなく「女性と思われる低い声、区切りあり、内容不明」と書くようになった。


 仕事のときと同じだ。曖昧な言葉は、あとで役に立たない。


 *


 ひなたを見たのは、九月の第二週の土曜日だった。


 名前を知ったのはもっとあとのことだから、そのときはただ、四〇四の子ども、だった。


 午後の四時ごろ、私は買い物から帰ってきて、五棟の入口を入ったところだった。郵便受けの前に、小さい子がしゃがんでいた。


 女の子だ。


 髪が肩まであって、前髪をピンで留めている。うすいピンクのTシャツと、デニムのスカート。足元は、かかとに星のついたスニーカーだった。


 何をしているのかと思ったら、床に落ちたチラシを拾い集めていた。誰かが郵便受けから抜いて、そのまま落としていったのだろう。ピザの広告と、不動産の広告と、選挙のお知らせ。


 子どもは、それを一枚ずつ、丁寧に重ねていた。


 こんにちは、と私は言った。


 子どもが顔を上げた。


 「こんにちは」


 はっきりした声だった。明け方に聞こえるあの声と同じ子だとは、そのとき、すぐには思わなかった。


 昼間の声は、こんなに違うのか。


 「えらいね。拾ってくれてるの」


 「うん」


 「ありがとう」


 子どもは笑った。前歯が一本抜けていた。その隙間を隠すみたいに、口を手で押さえて、それからまた笑った。


 私はしゃがんで、残っていた一枚を拾って渡した。


 そのとき、子どもの腕が見えた。


 左の前腕の内側に、あざがあった。


 小さい。五百円玉より少し大きいくらいだ。青とも紫ともつかない色で、ふちのほうが黄色くなりかけている。少し前にできたものだろう。


 それだけだ。子どもの腕にあざがあるというのは、それだけのことだ。私にも覚えがある。子どもは転ぶ。ぶつかる。挟む。


 それだけのことだった。


 「ひなた」


 声がした。


 *


 階段の下り口に、あの人が立っていた。


 薄い水色の上着ではなく、部屋着のようなものを着ていた。髪は結んでいなくて、片側だけ寝癖のようにうねっている。


 子どもが立ち上がった。「ママ」


 女の人は階段を下りてきて、私のほうを見なかった。私が立っているのはわかっているはずの距離だった。三メートルもない。


 彼女は子どもの前に立って、その手を取った。


 取った、というのは正しくないかもしれない。掴んだ、というほうが近い。手首のあたりを、上からかぶせるように握った。そして、そのまま自分のほうへ引いた。


 子どもの体が半歩ぶん、前につんのめった。


 「あ」


 子どもが小さく声を出した。


 痛かったのか、驚いたのか、私にはわからない。チラシが何枚か、また床に落ちた。


 「すみません」と、私は言った。「私が話しかけたんです」


 女の人は、はじめて私を見た。


 二度目だ。二度目の、あの短い動き。


 彼女は何も言わなかった。会釈もしなかった。子どもの手を引いたまま、階段を上がっていった。


 子どもが一度だけ振り返って、空いているほうの手を、小さく振った。


 私も振り返した。


 その手が、すぐに見えなくなった。曲がり角ではない。母親が、その手も引き寄せたからだ。


 *


 部屋に戻って、私はノートを開いた。


 新しい行に、日付と時刻を書いた。


 そのあと、しばらくペンが止まった。


 何を書けばいいのか、わからなかったのではない。書きたいことが多すぎて、どれから書けばいいのかがわからなかった。


 結局、私はこう書いた。


 ——四〇四、女児(推定六歳)。左前腕内側にあざ。直径三センチ程度、変色進行あり。母親、児の手首を強く掴み引く。児、声を上げる。


 書き終えて、読み返した。


 直すところはなかった。


 私はペンを置いて、床に落ちていたチラシのことを思い出した。あの子は、誰にも頼まれていないのに、一枚ずつ丁寧に重ねていた。


 ああいう子は、怒られ慣れている子だ。


 そう思ったとき、自分がもう何かを決めたことに、私は気づいていなかった。


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