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遊び人

 ◇


「助けて」


 本当は、そう言いたかった。


 けれど私には、その一言がどうしても言えなかった。誰かに助けを求めることが恥ずかしいのか、弱いところを見せたくないだけなのか、それとも頼った相手に嫌な顔をされるのが怖いのか、自分でも理由はよく分からない。


 ただ、両家の親が揃ったリビングで、みんなが私たちのためを思って話し合い、最後には健吾まで自分も悪かったと謝り、これで円満に解決したという空気になった時、どうしてもそこに座っていられなくなった。


 気づけば家を飛び出し、私は駅へ向かう道を走っていた。


 どこへ行くつもりなのかも決めていない。ただあの部屋から離れたくて、息が苦しくなるまで走りながらバッグを探り、昨日勇斗から渡された白い名刺を取り出した。


 名前とLINEのIDしか書かれていない、名刺と呼んでいいのかも怪しい紙切れだった。


 走りながらではうまく入力できず、何度も文字を間違えた。ようやく《水樹勇斗》の名前が画面に出てきたところで足を止めたものの、今度は何を送ればいいのか分からない。


《助けて》


 そこまで打って、消した。


《会いたい》


 これも違う気がして消した。


《どうしたらいい?》


 それなら送れそうな気がしたのに、昨日会ったばかりの男へ人生相談をしているみたいで、結局また全部消してしまった。


 何をしてほしいのか、自分でも分からない。ただ、勇斗なら何か言ってくれるような気がした。


「どうしたらいい……遊び人」


 画面に表示された名前を見ながら小さく呟くと、すぐ後ろから聞き覚えのある声がした。


「呼びました?」


「ひゃっ!?」


 驚いて振り返るより先に肩へ腕が回り、背中が男の身体に触れた。昨夜散々聞いた声と、ホテルで覚えてしまった匂いで、顔を見なくても誰なのか分かってしまう。


「またしてくれます? 僕と?」


「なんでいるの!?ストーカー!?」


「三十一歳の女性を?」


「三十一歳関係ないでしょ!」


 反射的に言い返したところで、さっきまであれほど苦しかった胸が少しだけ楽になっていることに気づいた。


 どうしてここにいるのか、昨日会ったばかりの私の家の近くをなぜ歩いていたのか、聞かなければならないことはいくらでもあったはずなのに、背中に感じる体温に安心してしまっている自分のほうが気になった。


 そして昨日と同じように、どうしてそうなったのかを考える暇もなく、気づけば私はまた勇斗とホテルにいた。


 ベッドの上で膝を抱え、家へ帰ってから起きたことを最初から話した。


 健吾が怒らずに迎えてくれたこと。自分も悪かったと謝ってくれたこと。仕事から帰ったら両家の親まで集まっていて、なぜか健吾のお父さんが健吾を諭し、私の両親が謝り続け、最後にはみんなが納得していたこと。そして一番悪いはずの私だけが、その円満な結末にどうしても納得できず、逃げ出してきたこと。


 勇斗は途中で口を挟まず、昨日と同じように私の話があちらこちらへ飛んでも、そのまま最後まで、ウロウロ動きながら聞いていた。


 話している間にもバッグの中では何度もスマホが震え、取り出してみれば、画面には母からの着信が並んでいた。切れるのを待ってもすぐにまた鳴り始め、そのたびに胃の辺りが縮むような感覚がする。


 全部聞き終えた勇斗は、鳴り続けているスマホを眺めながら、少しだけ考えた。


「責任ねぇ……別に法を犯したわけじゃないけど……」


「あるよ。ものすごくあるよ」


 むしろ今回の騒動の中心人物の一人である。

 ところが勇斗は反省するでもなく、私の手の中で震えているスマホを指差した。


「よし!じゃあ出よう電話に♪」


「……はっ?ムリムリムリッ」


 今、私が一番したくないことだ。家から逃げてきた直後に母の電話へ出れば、何を言われるかなんて考えなくても分かる。戻ってこいと言われれば断れる気もしないし、責められれば結局謝ってしまうだろう。


「こんな状態じゃ出られるわけないじゃない」


 そう答えると、勇斗は私からスマホを取り上げることも、自分が代わりに話すと言うこともしなかった。


「大丈夫。僕がサポートしますよ」


 何が大丈夫なのか分からない。


 昨日からこの男はずっとそうだった。私が答えを求めても答えてくれないくせに、変なことだけは思いつく。


 それでも、隣に勇斗がいるだけで一人で電話に出るよりは怖くない気がして、私は震える指で通話ボタンを押した。


「……はい?」


『あんたっ!恥までかかせて、どういうつもりなの! みんな心配してるんだから、今すぐ戻ってらっしゃい!』


 母の声が耳へ飛び込んできた瞬間、身体が勝手に縮こまり、条件反射のように「ごめん」と言いそうになった。


 その時、勇斗が私の耳元へ顔を寄せた。


「お母さんとは話したくないんでしょ?じゃあ、そう言えばいい。そして彼のお父さんに代わってって」


 そんなことを母に言ったことは一度もなかった。


 母が怒っている時は黙って聞き、最後に謝る。それが一番早く終わる方法だと昔から知っていたから、わざわざ逆らうようなことをしたこともない。


 無理だと首を振ったが、勇斗は私の代わりに電話へ出ようとはせず、ただ隣でニンマリ笑っていた。


「お、お母さんじゃ……話しても収まらないから」


『はあ!?』


「直接、健吾のお父さんと話すから……代わって」


 たったそれだけなのに、電話を握る手には汗が滲んでいた。母はしばらく怒っていたものの、私が同じことを繰り返していると、やがて向こうで何人かが話す声が聞こえ、電話が別の人へ渡った。


『もしもし、美沙ちゃん?』


 今度こそ怒られると思ったが、聞こえてきたのは予想していたものとはまるで違う声だった。


『大丈夫かい? 急に出ていっちゃったから、みんな心配してるんだ。ちょっと大人数で囲んじゃったから、緊張させちゃったかな。ごめんね』


 逃げ出したのは私なのに、健吾のお父さんまで自分が悪かったように謝っている。何と答えればいいのか分からず勇斗を見ると、彼は少し考えてから私の耳元へ口を寄せた。


「お父さんのせいじゃないんでしょ?」


「うん」


「でも、今日は帰りたくない?」


「じゃあ、それが伝わればいいんだね」


 そこまではまともだった。ところが勇斗は少し考えたあと、楽しそうにニヤニヤと笑った。


「緊張して吐血したので病院に行ってきますって言えば全部収まるよ」


 慌ててスマホのマイクを手で塞いだ。


「そんなこと言えるわけないじゃない!」


「大丈夫、大丈夫!普通に言えば丸く収まるから♪」


 勇斗は相変わらずニンマリしている。


 けれど、よく考えてみれば私が伝えなければならないことは二つしかなかった。健吾のお父さんを責めたいわけではない。そして今は、あの家へ帰りたくない。その二つをそのまま口にすることのほうが、私には吐血したと嘘をつくより難しかった。


「あの……お父さんのせいじゃないです。ただ、ちょっと今は無理で……緊張しすぎて吐血しちゃったので、病院に行ってきます」


 自分でも何を言っているのだろうと思いながら、最後だけ少し具合が悪そうに声を弱めてみた。


『えっ、吐血!? それは大変じゃないか。こっちはいいから、すぐ病院に行きなさい。今日はもう戻らなくていいからね。お大事に』


「……はい」


 スマホの奥でザワザワして声が聞こえてやがて切れた。耳からスマホを離しても、しばらく何が起きたのか分からなかった。


「嘘ついたじゃない、後でバレるだろうし、どうしたらいいの?」


「美沙は安全になったから、それで十分じゃん」


「ん?勇斗、それはどういうこと?」


「えっと……ものすごく端的に言えば、人なんてそんなものとしか僕は考えていないんだよね」


「ちゃんと聞きたいことなの!なんならそれが知りたくて飛び出してきたんだよ。もちろん、あの時こうだったとか言われても……わかんなくなっちゃうかもしれないけど、それが聞きたいこと、出てきた理由」


 私にとっては、電話一本に出るだけでもあれほど怖かった。母が怒っているのに別の人へ代わってほしいなんて言えば、もっと大変なことになると思っていたし、健吾のお父さんに今日は帰れないと伝えることだって、ついさっきまでは考えられなかった。


 それなのに実際にやってみると、母は怒ったけれど電話を代わってくれたし、健吾のお父さんは私を責めなかった。それどころか最後には、今日は帰ってこなくていいとまで言ってくれた。


 もちろん吐血したというのは最低の嘘だし、明日になれば別の問題が増えているかもしれない。


 でも今だけは、胸の奥をずっと締めつけていたものがほどけ、久しぶりに肺の奥まで空気が入ったような気がした。


「……んじゃまあ、これでいいやこれに書いてあげるよ」


「これって、ホテルにある思い出帳?こんなのに書くの?」


 思い出帳を使って勇斗は図や短くまとめた文字に丸をつけたりしてもらい、今回何故回避できたのか。相手の考えていることの予想、それに対して私がどういう気持ちだったかを話すことで、先生が黒板に書くようにまとめてもらった。


「――と、これが今回の問題の内容だね」

 

「これを勇斗はなぜ吐血ってことにしたの?」


「例えば、今美沙は僕の考えを聞いて納得したいと言った、そして会っている、しかし会えない人は、納得したい気持ちをどうやって解消すると思う?」


「なんだろう……さっき私が言った親と健吾はこう思っていると私は考えているんだよね?」


 私は勇斗の作った図や絵などを使ってまとめられた思い出帳を見て考えた。


「ほら、答え言ったじゃん」


 勇斗はケタケタ笑いながら、私の腰を叩いたが、何のことを言っているのかサッパリ分からなかった。


「そそ、考えているだけで、実際誰もわからない、なら吐血が本当でも嘘でも『あの子に取って、嘘をつかなくてはならないほど、追い詰めてしまった』と、この人たちは勝手に思って納得するんだ」


「そんな都合よく考えるの?」


「美沙だって自分から見えている親や健吾くんを『こうであろう』と決めて安心するでしょ?一緒、一緒♪」


「そしたら次、私はどうしたらいいの?」


「さあ……どうすればいいのには、吐血したとその場を離れさせることしか僕にはできないよ」


「えー!もう少し付き合ってよ、どうすればいいのに対しての答えを……」


「どうすればいいじゃなくて――」



「どうしたいか、じゃね?」



 頭のドミノがパタパタと高速で倒れていくよう、綺麗に今まで抱えた問題がスッキリしていくような気持ちだった。


 私は母から逃げる方法を教えてもらったつもりだったし、健吾のお父さんをどうやって誤魔化すのかも勇斗に教えてもらったつもりだった。


 けれど思い返してみれば、母とは話したくないと言ったのも、健吾のお父さんを責めたいわけではないと答えたのも、今日は帰りたくないと頷いたのも全部、『私』だ。


 勇斗は何一つ決めていない。


 それでも、そんなことを急に言われてもよく分からなくて勇斗の顔を見ていると、彼は私の手からスマホを抜き取り、ベッドの端へ放り投げた。


「まあ、そんな難しいことは置いといて――」


 さっきまで少しだけ真面目だった顔が、いつもの遊び人のいやらしい笑顔へミルミルと戻っていき、私にそっと口づけした。


「さあ、邪魔者はいなくなったから、いやらしいことでもしますか♪」


 結局、この人が何を考えているのかは分からない。


 ただ、その言葉に呆れて笑った時、私はもう「助けて」と言えなかったことさえ忘れていた。

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