そのままで
◇◇◇
午前九時三十分、枕元に置いていたスマホが鳴った。
目を覚ました私は着信相手だけ確認すると、ベッドから抜け出して洗面所へ向かった。歯ブラシを咥えたままノートパソコンを開き、昨夜届いていたお客さんからのメッセージを確認する。
三か月前の私なら、この時間にはとっくにパン工場のラインに立っていたが、今は勇斗が経営する駅前の不動産会社で営業をしている。
あの時、勇斗が私を見つけたのも勇斗の会社の前だからだ。ストーカーはむしろ私だったようだ。
健吾と暮らしていたマンションよりも遥かに狭く、安いアパートを紹介してもらった。周りは学生、新卒っぽい子、外国人しかいないが、オートロック付きの二階。
これがすごくよくて、前のようになくしたり、忘れたりすることが随分と減ったのだ。
仕事は営業といっても、家や土地の難しい説明をするわけではない。宅建なんて持っていないし、契約書を見せられても半分くらいは何が書いてあるのか分からない。私の仕事は、新しく問い合わせてきたお客さんと最初に話をして、希望を聞き、具体的な話になったら宅建を持っている勇斗や、会社にいるちゃんとした営業さんへ引き継ぐことだった。
勇斗から仕事を教わった時も、説明は呆れるほど短かった。
「空気が読めないなら、新規のお客さんに『弊社のお話聞いてもらえませんかー』って聞けばいいだけだよ、後はどうにかなるって♪」
営業の心得も、相手との距離の詰め方も教わらなかった。最初はそんなので仕事になるのかと思ったけれど、やってみると意外なくらい私に向いていた。
土地を探している人に電話をすれば、どんな家が欲しいのか気になってしまう。子どもがいると聞けば何歳なのか聞きたくなるし、犬を飼っていると言われれば犬種が気になり、大型犬なら庭も欲しくないですかと話が広がる。その途中で私が昔三日間だけガーデニングにハマった話をしてしまうこともあるし、気づけば不動産とはまったく関係のない話を十分くらいしていることもある。
『なんか聞いてるうちに、美沙ちゃんのところに任せてもいいかなって思ったよ』
『美沙ちゃん、全然こっちの話聞かないでグイグイくるからさ。負けちゃったよ』
そんなことを笑いながら言われた日は、電話を切ってから一人でニヤニヤしてしまった。
パン工場では、同じ作業を同じ順番で続けられない自分を何度も申し訳なく思った同じ私なのに、今は気になったことを次々聞いてしまうところを面白がってくれる人がいる。
別に私は、三か月で立派な人間になったわけではなく、働く場所と住まいが変わっただけ。
それだけで、こんなにも違った。
しかし勇斗は相変わらずで「お客さんになり、人手不足の時代に入社、そしてエロいこともさせてもらえる……アザース♪」などとふざけたことを言っていた。
しかし起きる時間も、お客さんの都合に合わせればいいと言われ優遇されて、朝早く連絡が来る日だけ早く起きるし、午前中に予定がなければ九時を過ぎても寝ている。給料は成績によって多少ばらつくものの、平均すればパン工場にいた頃より少し増えた。ただ他の社員に「俺の愛人だから特別扱いする」などと、勇斗は独身なのに愛人と紹介され辟易していたが「これがうちの社長だから」と、事務の若いお姉さんに言われ、そんなものかーっと深く考えないようになった。
◇
歯磨きを終えてキッチンへ行き、冷蔵庫から冷たい麦茶を出した。コップへ注ぎながらリビングを見ると、床には何も落ちていないし、ゴミ箱も溢れていない。テーブルの上にも、作りかけの安土城はない。
我ながら綺麗な部屋だった。
ただし、これも私が改心したわけではない。
ゴミの日を忘れないようスマホに予定を入れるようになったのも、脱いだ服を床へ置かなくなったのも、安土城の細かいパーツをリビングのテーブルいっぱいに広げなくなったのも、理由は一つしかない。
勇斗が来るかもしれないからだ。
今日は来ると言っていなくても、あの男は突然現れるのだ。
せっかく来てくれた日に、コンビニの袋と洗濯物に囲まれて過ごすのは嫌だった。どうせなら部屋を綺麗にして、少し良い匂いの柔軟剤を使って、冷蔵庫には勇斗が好きな飲み物を入れておきたい。
そう思うと、不思議なくらい身体が動いた。
以前は「ちゃんとしなきゃ」と思えば思うほど面倒だったことを、今は自分からやっている。
「田舎の農家のおばちゃんって、そこまで時間に縛られて生きてないでしょ? 野菜には縛られてるけど」
何を言っているのか最初は分からなかったが、あとから思い出すたびに可笑しくなった。時間を守れる人になる必要はなくて、守りたくなるものを見つければいい。
勇斗流の『自分で納得する』は、たぶん、そういう意味なのだろう。
勇斗に聞いても「知らない」と言われそうなので、私の中ではそういうことにしている。
健吾とは、別居後、まもなくして結局別れた。
別れる時になっても、勇斗は健吾の悪口を一度も言わなかった。私が「健吾って悪い男だったのかな」と聞いた時も、「さあ?」と全く興味なさそうに答えただけ。
両家が集まったあの日のことを考えると、今でも少しだけ胸が重くなる。これから結婚すれば、何かあるたびに健吾と私だけではなく、健吾の両親と私の両親まで出てきて、みんなで私たちの人生について話し合うのだろうか。
それを勇斗に話した時も最後には「美沙はどうしたいの?」だけしか聞かれない。
しかし何度も話しているうちに、ようやく自分でも分かった。
うまくできない私とその他五人。今後ずっと五対一になるような結婚が嫌だった。
「五対一じゃないだろ。僕が美沙の味方じゃないか」
その瞬間、私の中にほんの少し残っていた熱まで、綺麗に冷めた。
(そもそも、お主が親どもを呼んだのだろう)
元気にしているか、仕事は続いているか、一人でちゃんと生活できているか。そんな心配から始まり、最後には決まって、もう一度やり直せないかという話に三ヶ月経った今でもある。
勇斗の話はよくできていて『失礼、わたくし、今、愛人やっているんでございますの?ゴメン遊ばせ……』などとラウンジの大人のお姉さんのように言ったらまた修羅場になるのかと思うと少し笑えたりする。そう、なんかちょっと今は笑えるのだ。
今朝もメッセージが届いていた。私はしばらく画面を眺めてから、《冷めてしまったものは冷めたの。今さらどうしようもないよ》と打った。
送信ボタンに指を置き、少し考えてから全部消す。
別に健吾を傷つけたいわけではない。私が幸せになったことを見せつけたいわけでもなかった。
ただ、もう戻りたくない。
それだけは、三か月経った今でも変わらなかった。
ちょっとブラックな洒落なんだろうけど、そのちょっと笑える環境で今の私は十分なんだ。
◇
今日はお客さんを二人もアポイントに繋げることができた。
帰りに自分へのご褒美として不二家で買ったケーキをテーブルに置き、スーツを脱いでブラウスのボタンを外していると、突然玄関のドアが開いた。
「きゃっ」
「おお、エロいねぇ。そのまま、そのまま、そのままで♪」
「なにぃ?ふざけてんのか――?」
「まあまあ」
そう言いながら近づいてくる勇斗を見ていると、呆れるより先に嬉しくなってしまう。三か月経った今も、この男が何を考えているのかはよく分からない。
でも一つだけ、私にも分かることがある。
今私は、このいい加減な遊び人のことが堪らなく好きなのだ。
おしまい
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
題材がADHDなだけに、美沙を「分かる」と思った方もいれば、「ちょっと分からない」と感じた方もいると思います。
きっと、美沙のように「どうして普通にできないんだろう」と悩んでいる人は、どこかにいると思います。
もしこの物語を読んで、そんな誰かに届いてほしいと思っていただけたなら、少しだけ力を貸してください。
作者の言葉で「こんな作品です」と宣伝するより、実際に読んだ方が感じたことのほうが、必要としている人には届くような気が、この作品ではしています。
美沙が好きだった。苦手だった。
分かる気がした。全然分からなかった。
あの男が好きだった。むしろ健吾のほうが理解できた。
どんな感想でも構いません。
よければ作品名の『私のままで』を添えて、あなたが感じたことを、あなた自身の言葉でXに一言だけ残してみてください。
その言葉を偶然見つけた誰かがこの物語を読み、「こんな自分でもいいのかもしれない」とほんの少しでも思えたなら、作者としてそれ以上に嬉しいことはありません。
最後まで美沙の物語を見届けてくださり、ありがとうございました。




